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序章:出勤〜夢について



 卒業アルバムを閉じると共に、矢崎は両目を閉じた。意識は奥の奥のほうへ、闇の底よりもっと深い領域まで潜る。……大丈夫、そこに(ここに)彼女はもう居ない。あの長い髪も、耳元にかかる湿っぽい吐息も、膨らみかけた胸の先端、硬く尖った乳首の感触も、ここに(そこに)はもうない、どこにもない。第一、彼女が死んだのはもう三十年も前のことだ。今更、だれにも、どうしようもない。何度も自分に言い聞かせた言葉を呆れるほど繰り返しながら、矢崎は無意識のうちに自分の脈をとっている。今更、だれにも、どうしようもない。脈をとるのは手馴れている。矢崎は頭の中で正確に十秒を数える。二、三、四……。心拍数は平常だ。

 矢崎は目を開け、立ち上がると朝の支度にとりかかる。まずはカーテンを開けた。朝の清潔な陽の光が一瞬で部屋を明るく染める。顔を洗い、髭を剃り、パンと卵と昨晩の残り物のサラダで軽く朝食を済ませ、牛乳を飲んだ。食事をとっている間にラジオをつけ、NHKのニュースを聞く。落ち着いた声色のアナウンサーが、抑揚に欠ける低音域でニュースを読み上げている。時折挟まれる交通情報に、矢崎は嫌でも意識が集中する。どうやら、つい十分前に大泉インターの付近で乗用車同士が接触し、関越自動車道ならびに東京外環自動車道に於いて深刻な渋滞が発生しているらしい。電車通勤の矢崎が仕事に遅れるわけではないが、あながち無関係とも言い切れない。

 朝食を食べ終え、歯を磨き、パジャマを脱ぎ、服を着替える。今日は火曜日だからくすんだ紅色のネクタイを締める。やや薄くなり始めた頭髪を櫛で梳かし、後ろに撫で付ける。デンタルフロスとデンタルリンスを使って口腔の全てを清潔にする。整髪料はなるべく職場の女性たちから評判の悪くない香りのものを選択する。全自動洗濯機のスイッチを入れ、液体洗剤と柔軟剤の分量をきっかり計って注ぐ。ばしゃばしゃと音を立て始めた洗濯機周りの、色々な薬剤の備蓄が欠けていないかチェックする。問題はない。柔軟剤の残りを確認しつつ無意識の内に鼻歌が漏れる。鼻歌は意味のないメロディをなぞる。

 そうやってひとつひとつ自分自身をいつもの日常に当てはめていく。こういう朝は普段より意図的に自分を自身の枠にはめる。大丈夫、問題はない。洗面所を出て、上着を羽織り鞄を持ち、財布と携帯電話と定期入れと仕事に必要な書類を忘れていないことを確認してから、矢崎は家を出る。玄関の扉を開けると真正面からの陽射しが彼の顔を照らす。矢崎は多少それを鬱陶しく思ったりするものの、総体としてはそれを祝福のようなものとして受け止める。太陽の光は、良い。なにをさておいても、自分の身体が改めてまっさらに透き通るように感じる。まるで夜の自分がすっかり漂白されるような心地を覚える。日の光を浴びると、夜の影は完全に消え去る。その感覚は概ね正しい。

 オートロックのマンションの玄関を出ると、鼻歌の続きを小さくハミングしながら、矢崎は閑静な住宅街を駅へと向かう。同じように駅へ向かうスーツを着たサラリーマン、スカートの短い女子高生と一緒になって歩く。むしろこれから家に帰るであろう軟弱な大学生の若いオスたちや、酒と香水の匂いをぷんぷん振りまいている水商売のあまり若くはないメスたちが、向かいからやって来ては大きなあくびを後に残してすれ違う。道の途中のコンビニでは、いらっしゃいませと、パートの中国人のであろう元気の良い声が自動ドアの隙間から漏れ聞こえる。学校へ向かう高校生の漕ぐ自転車がゆるゆると矢崎を追い越していく。

 道沿いのアパートの郵便ポストの上、波間に浮かんだブイのようにそこだけぽっかりと明るい陽だまりで、太った猫がだらしなく寝そべっている。太った猫は半開きの眼で道行く通行人を眺めているのか、いないのか。全てを掌握しきったような顔つきで、満足気に日光をその全身に味わっている。矢崎は足早にその前を通り過ぎる。過ぎかけに、猫が口を開く。

「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」

 矢崎ははっと立ち止まる。猫を見る。猫は微動だにせず、矢崎を見返す。……いや、矢崎を見ているのではない。猫は何も見ていない。たまたま矢崎の方へ首を向けているだけのことだ。

 猫は人間の言葉を喋らない。喋れない。鳴くとしても「まーお」「みゃあ」くらいしか言い分けることが出来ない。「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」それは幻聴であり、矢崎の意識の底の、更にその奥底から聞こえてくる声だ。「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」

 猫は人間の言葉を喋らない。

 同じように、彼女がもう喋ることはない。永久に。

 矢崎は歩みを止め、首を振る。声が聞こえるのは、さっき見た夢のせいだ。矢崎は答える。「俺はね」唾を飲み込む。「今はお医者さんをやっているよ。あれからたくさん勉強したんだ。いつか、君みたいな女の子が怪我をしてしまったときに、助けられる医者になれないかって、そればかりずっと考えてきた」

 後ろを過ぎ去る女子高生が、驚いた表情で矢崎を睨んだ。驚きはやがて訝しげな色に変わり、女子高生の歩調は一段階早くなった。矢崎はそれに構わず、諭すように猫に向かって話しかけた。

「そう、俺は今お医者さんだ。実際に、これまで、あの時の君に似た状況の人を何人も助けてきたよ。そりゃ、百発百中ってわけにはいかないけれど、これでも俺なりにうまくやれているほうだと自負している。一応」彼は言葉を区切り、ひと呼吸を置く。「これまで色んな人にありがとうって言われてきた。俺は別に他人に感謝されるためにこの道を選んだじゃあないけれど、だれかのためになっているってのは、純粋に、良いことだと思う。思うほかはない。……君はどう思うだろうか?」

 猫はなにも思わない。喋らない。矢崎の言っていることすら理解しない。そもそも猫は起きているのかどうかさえ怪しい、謎だ。もちろん返答はない。ひげの一本も動かさない内に、猫はゆっくりとまぶたを下ろす。あくびすらしない。声はもう、聞こえない。

「……」

 矢崎は猫の前を立ち去り、再び駅へと向かう。歩きながら、ため息ともほくそ笑みともつかない中途半端な鼻息を漏らす。「まったく」小さな声で呟く。「あの夢を見た朝は、いつもこうだ」

 周囲の通勤・通学者の群れに混じり、矢崎はすぐに日常へ溶け込む。清潔できちんとした身なりの、精悍な顔付きをした四十路越えの男をして(あごには剃り残しの髭一本すらない)どこのだれが彼をおかしい人物だと思うだろうか。彼自身も、自分のことをおかしな人間だとは思っていない。あの夢を除けば。

「夢、……そう、夢だ」

 矢崎にとって夢とは、見るものでなく、掲げるものでなく、ただただ一方的にうなされるものであった。

 三十年前のあの日から。


 夢の舞台はなぜか決まって教室だ。小学校の、五年生のときの、あの教室。時刻は昼休みで彼は掃除をしていた。いつも必ず一人だった。他の掃除当番はおらず、外はこれ以上ないと言うほど晴れていた。五月か六月。春でも夏でもない、陽の光が優しい季節。雨が降っていたためしはなく、一言で表現すると、ピクニック日和。運動会でも別に構わない。そんな陽気で。

 矢崎はその夢を見ると、寂しい気持ちにもなり、また、全能感のようなものも覚えた。普段ならば班員総勢六名でこなすはずの教室掃除をひとりでに任されている。いじめだろうか? いいや、違う。これしきのこと、矢崎でなくともだれにでも出来る。ただ、他にだれも居ない状況というのが悲しいだけで、仕事量で言えば大したものではない。時間は十分に用意されていて、道具も潤沢に揃えられていた。箒で掃いて、雑巾で水拭きをし、机を動かし、もう半分。その工程を二回繰り返すだけでいい。

 夢の中で矢崎は愚痴ひとつこぼさず掃除に専念している。そもそも他の班員がだれであったのか(どんな名前の生徒だったか)を憶えていない。憶えていないことにも気が付かない。懐かしい。嬉しい。ふわふわと浮ついた不思議な感覚のまま、彼は掃除に没頭している。

 やがて疲れて、矢崎は休憩を挟む。窓際の手すりにもたれて、雲ひとつなく澄み渡った空の向こうの富士山をぼんやりと眺めてみたりする。グラウンドは見ない。音が聞こえる、それで十分だ。然る後に彼女がやってくる。前から、後ろから、横から斜めから。その姿を確認する前に、菅野は唐突に彼の視界を塞ぐ。「だーれだ」と言う。「知ってるよ、カンノだろ?」と彼は言う。角度はその都度異なるのに、彼女はいつも背中におぶさってくる。薄い布越しに彼女の身体の肉付きを知る。硬く勃起する。「こんなところでなにしてんの?」と彼女が言う。矢崎はそれに答えようとする。瞬間、目を覚ます。

 彼女がつまらないトラックに跳ね飛ばされて死んでから、矢崎は頻繁にその夢を見るようになった。その時々ごとに細部は異なっても大筋は一緒だった。空っぽの教室、晴れ渡った空、窓、青く柔らかな肉体の感触、声、言葉。「こんなところでなにしてんの?」何度も繰り返し見た。何度も何度も繰り返し見た。全て彼女が死んでから始まった。

 俺は一体どうしてこの光景に取り憑かれているんだろう、と矢崎は訝った。そもそもこんな光景に、実際自分が立ち会った記憶はないのだ。矢崎は一人で教室の掃除を押し付けられた記憶はない。当時の彼女に突然抱きつかれた記憶なんてない。それでも、夢は、いつまで経ってもこの通りだった。

 今や矢崎は、彼女の肉体のほとんど全てを知っている。質感、色、温度、匂い、肌触り、味、位置、意味。……それらは全部この地上から失われたものだ。矢崎は自念する。「これは夢なんだ」そうだ夢だ。


 しかし夢が目の前に現れたとしたら?

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