序章:夢
それは小学校の教室だった。
辺りには誰も居なかった。机の上に椅子が重ねられて、教室の後ろの方に全て並べられていた。時計を見上げるまでもなく、掃除の時間だった。教室の外、廊下の遠く果てから聞こえるどこかの生徒の笑い声が、高く長く尾を引いて伸びた。私は柄の長い自在箒を手に、一人ぽつんと教室の真ん中に立っていた。……掃除当番は班ごとに割り振られているはずなのに、他のクラスメイトはどこへ行ってしまったのだろうか。
ともすれば私は他の班員から嫌われ、いじめを受けているのかもしれなかった。一方的に教室の掃除を押し付けられているこの状況をして、他になにが考えられるだろうか? それにもかかわらず、嫌な気分はしない。寂しいことは寂しいが、低学年の時ならともかく、これしきの小さな教室、単独ででも時間内に清掃することは出来た。現にもう、半分が終わっている。
私は端から今度は教室の前方に机と椅子を運び、集めた。机の脇にやたらと大きな手提げかばんをぶら下げているやつ、引き出しの中に大量のプリントやらノートや教科書をしまい込んで居るやつ、色々な生徒が居た。びっくりするほど重いのもあれば拍子抜けしてしまいそうなくらい軽い机もあった。そのどれも、十分に身体の大きくなった今となっては簡単に運んでしまえる。いつだか担任に教わったように〈机の足を引きずらないよう〉に注意しながら、私は全ての机を運び終えた。さすがに三十人分の机を動かすと、汗が出た。呼吸も乱れた。ちょいと一休み。箒を立てかけ、窓を開ける。サッシは音もなくするりと開いた。
外は初夏の陽気さをふんだんに孕んだ、いい天気だった。ポスカを薄めずそのまま刷毛で塗りつけたような(もしくは切り抜いた色紙をそのまま貼りつけたかのような)一面の青空が広がっていた。濃淡がなく、遠近感の希薄な空だった。小学校の周囲に目立った高い建物がなく、遥か地平線の先に富士山が見えた。そう、私の通っていた小学校では、晴れた日には時たま富士山を見ることが出来た。猫の額ほどの狭い敷地内でも、個人所有の背の高いワンルームマンションが至る所で乱立する現在となっては、なかなかお目にかかることのない風景だ。嬉しくもあり、懐かしくもあった。私は落下防止のために渡されたステンレス製の手すりに持たれながら、しばしの間富士山に見とれた。両腕を載せ、手すりに顔をつける。ひんやり冷たく、気持ちが良い。
その真下、結構な広さの確保されたグラウンドでは貴重な昼休みの時間をめいいっぱい楽しもうと、数多くの生徒が遊んでいるはずだった。ボールを突く音、地面を賭ける音がして、そこかしこで甲高い悲鳴にもにた歓声が上がっていた。風が吹けば砂埃が舞い、目や耳の穴に入り込み、息を吸うと強い土の香りがした。ざらついた木の匂いもした。校庭の端には等間隔に桜の木が植えられていて、春になると大量の花びらが学校中に降った。
その向こう側には大きな池もあった。環境学習に力を入れていたこの学校では小さな川と水の循環機構まで設置されていて、生徒たちは大人に倣いそれをビオトープと呼んでいた。ビオトープ。今の季節だとおたまじゃくしが大量に発生していて、低学年の男子を中心におたまじゃくし捕りが盛んだった。給食に出てくる牛乳かんのプラスティックの容器を水槽代わりにして、教室の中に持ち込む生徒も居た。大抵の場合、おたまじゃくしは干からびてかもしくは指で突つき回された挙句に死ぬ。ロッカーの上で飼っているざりがにの水槽におたまじゃくしを入れてしまう悲劇も毎年の恒例だった。そのような過酷な試練を幾つも耐えぬき、生き残ったおたまじゃくしの内数匹が立派な成体に成長し、次の春にもまた大量の卵を産んだ。いつものことだ。都会には水田がないためこのような形で幼少期の自然経験を育む。
私は目を閉じて、もう一度大きく息を吸った。ざらついた砂の向こう側でしっかりと蛙の臭いも感じることが出来た。湿った砂利とすえた苔の臭い。水の香り。その時、校庭では一際大きな歓声が上がった。誰かが怒鳴り、誰かが泣き始めた。この頃、男子の間ではドッヂボールの流行が再燃していた。クラスごとにチーム分けをし、独自のリーグ戦を開催したりなんかもしていた。後ろの黒板では生徒たち自身が記録をつけた、プロ野球さながらの勝敗表が貼ってあるはずだった。しかし私は目を開かなかった。妙な予感がして、視線を落とすことはためらわれた。下を見たらなにかに負けてしまいそうな気がした。そこで本当に子供たちが遊んでいるのかどうかについても不安だった。或いは音や気配だけが、この場を借りて再現されている恐れが強かった。記憶の幽霊、残響、残り香。
私は目をつぶったまま振り返り、教室に目をやる。ほら、だれも居ない。ここには私以外の何者も存在しない。自在箒を手に取り、掃除を再開した。下のグラウンドから、廊下の遠くから、生徒たちが活発に走りまわっている音は聞こえる。音だけは聞こえる。それでも姿は現さない。ここには私しか居ない。
恐怖よりも寂しさのほうが勝っていた。これは夢なのだ(しかし夢を見ている自覚はない)私はもう小学生ではない(もう子供ではない)今は初夏ではない。黒板を見ると日付は五月の三日とされていた。……五月の三日? それなら、今はゴールデンウィークではないのだろうか?
今年の正確な暦を思い出すことは出来なかった。そもそも小学校のスケジュールがどのような塩梅で組まれていたのかさえ、私にはわからなかった。齢四十を越えるに至って、一度も自分の子供を作る機会の持てなかった私は、小学校という一種特殊な生活圏から離れて久しい。同期の友人や、他の職場で働く知人たちの中には、息子や娘が既に大学を受験していたりなんかしていても珍しいことではない。現在の小学校事情に関しては、私よりも数段お詳しいに違いない。
そう、これは、私の夢だ。
時代遅れで、もうこの世にはない、仮初の小学校。
そんな空間に、今、私は位置している。
唐突に、空高くばたばたとヘリコプターの旋回する音が聞こえたかと思ったら、すぐに途切れた。事故を起こしたわけではない。異世界への扉を開いてしまったのでもない。それは唐突に現れて、唐突に消える。夢ならではの不躾さ。そんなことにも気づかず私はカーテンを閉める。相変わらずグラウンドは見れない。音もないのに風が吹いて、はたはたと薄いクリーム色をしたポリエステルのカーテンが揺れる。陽射しが強く、目まぐるしく動くカーテンの形をそのまま切り取った影が床の上で暴れている。私は箒で床を丁寧に掃きつつ、しばしその陰影に見とれている。光と影。暖められた木材とニスの香りが立ち上る。先程からどうしてか、嗅覚が異常に研ぎ澄まされている。これは私の仮説ではあるが、おそらく記憶と嗅覚とは脳の領域の近いところを占めているのではないだろうか。ずっと下を向いていたせいか、鼻の奥が熱を持ち始めた。振り切るように顔を上げる。
私はそこで思い出す。……そうだ、黒板も綺麗にしなければならない。集めた机を迂回して、黒板の前に回り込む。日付が六月の十三日になっているが、その不可解さに私が着目することはない。むしろその下、日直の項目に私は目を奪われる。小学生らしい雑で独り善がりな字体で大きく〈矢崎〉と書かれている。これは私の名前だ。生まれてから四十余年使用し続けた、慣れた名前、馴染む苗字。私の関心を惹いたのはその隣に並んでいる名前だ。こちらはあどけないもののしっかりと丁寧な字面で〈菅野〉と書かれている。やや神経症的な文字からするに、これはどうやら女の子の名前らしい。かんの。声に出して読んでみる。
「カンノ」
その音は不自然なまでに空疎に響く。私はなにか大切なことを思い出せそうで思い出せない。喉のすぐそこまで出かかっているなにかが私の口から飛び出しそうで飛び出さない。そんな気持ち悪さとは裏腹に、私はこれを書いた人物の顔を思い浮かべる。あの娘だ。あの女の子。髪が長くて目が大きくて唇がちょっぴり薄っぺらいあの女子生徒。鼻筋ばかりがやけにしゅっとしていてまるで人形みたいな顔つきだった。私は次第に彼女の声まで思い出し始める。「おーいヤザキ」彼女は私のことをいつも〈カタカナ的発音〉で呼んだ。それが一体どのような仕組みになっているのかはわからないが、聞くものにカタカナ的な印象を想起させる発音なのだ。「おーいヤザキ」私もそれを真似て応じた。「なんだよカンノ」私は声に出して言ってみる。「いいからお前も、掃除手伝えよ」
言い終わるか終わらないかの内に、私の視界が塞がれる。背中に小さな重みを感じる。小学生の女の子一人分くらいの重さだ。ずしりと腰に来る。「だーれだ?」重さの主は言う。「知ってるよ、カンノだろ」私は答える。「あったり~」それでも彼女は目隠しをとらない。「なにしてんの?」見て分かるようなことを尋ねる。「掃除」見て分かることを端的に答える。
「一人で掃除押し付けられてんの?」「あぁ」「ふーん、かわいそ」「可哀想だって思うなら、少しくらい手伝ってくれよ」「でも、あとちょっとで終わるでしょ?」「そりゃまぁそうだけど……」
彼女の肢体は、小さく、柔らかく、温かく、そして重い。私の身体はいつの間にか小学生の時のそれに戻っている。背丈は彼女と然程変わらないどころか、成長の遅かった私のほうがやや小さい。それにも関わらず、彼女の身体は小さい。なお小さい。大きくもあり小さくもある。私は少年の頼りない筋肉を駆使し、全身で彼女の身体を支えている。彼女の長い髪が、私の耳元をくすぐる。控えめなリンスの香りがして、私は彼女の髪の色を思い出す。薄い焦げ茶色だった。細く、柔らかく、光に透けるとまるで金色に見えた。亜麻色の髪、人によってはそのように形容するかもしれない。私は塞がれた視界の中でありありと彼女の長い髪を思い出す。すぐそこにあるものを、見ないで思い出している。それはまさにそこにあるがごとく、細部にわたってまで完璧に再現されている。私は息を吸い込んだ。
「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」
「お前こそ、なにして…・・」
売り言葉に買い言葉、殆ど喧嘩を売るかのような物腰で、私は彼女との問答に応じる。喋りながら、私は背中一杯に彼女の身体を感じている。彼女の身体は、柔らかい。中性的な少女のものから、明らかに女のそれになりつつある成長途上の肉付き。胸はやにわに膨らみ始めている。スポーツブラすら身につけておらず、私は布越しに彼女の張った乳房の形を知る。こぶりながらに固く尖った乳首の位置さえ知れる。途端、私のまだ陰毛すら生えそろって居ない性器に、熱い血液が充足し始める。それは今までにないくらい堅く大きくなろうとしている。
私は自分自身、初めて覚える性的興奮に戸惑い、驚き、おののいてすらいる。性欲を持て余すという経験はこれが最初だ。加えて、もし自分が激しく勃起していることを彼女に知られてしまったらという焦りもある。言うまでもなく、小学校生活に於ける〈スケベ〉〈変態〉などといったキャラ付けはかなり深刻で、致命的だ。是が非でもそのような不名誉な称号は回避しなければならない。
結果、複雑に混乱した私は身動きが取れず、激しい勃起を隠しながら、背中に乗った彼女の身体の柔らかさを味わいながら、髪の匂いを堪能し、じっと立っている。彼女はそんな私の焦燥を知ってか知らずか、相変わらず私の目を塞いだまま、耳元で喋る。彼女が首を動かすたびに、さらさらと長い髪が揺れる。目を閉じているのに私は彼女の髪の色がわかる。彼女の湿った吐息が、耳にかかる。
「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」
「……」
「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」
「……」
「ねぇ、こんなところで」
彼女の声が、壊れたラジカセみたいにループし始めたら、そろそろ夢の終わりだ。
そう、いつもこうなのだ。
私は小学校の教室に居て、一人で掃除をしている途中で、窓の外には不自然かつ懐かしい光景が広がっていて、音と香りばかり溢れているわりに人っ子一人登場しなくて、そのうち唐突に彼女が現れて(姿は見えない)目隠しをされ、背中にのしかかられ、彼女の柔らかい肉と尖った乳首を感じ、私は私で激しく勃起し、
「ねぇ、こんなところでなにしてんの?」
その言葉に続きはない、私が答える前に、夢が終わる。私は現実に引き戻される。
「おはよう」
ベッドの上の、なにもない空間に向かって私は言う。
「おはよう、今日も朝だ」