第1話 心の空白と、借り物の体
麻里は薄暗い手術室の固い台の上に横たわっていた。
白い天井のライトが眩しくて、目を瞑った。医師や看護師が歩き回り、誰かが何かを言っている気がする。けれど、言葉として判別できないまま、音が遠ざかってゆく。
麻里は手術台の上で、薄い布越しに自分の腹の存在を感じた。一ヶ月ほど前、そこにあったはずのものは、今はない。宿ったと思ったらいつの間にか消えていた、つかの間の命。これから、その欠片をお腹から出す手術を受ける。今日の手術に付き添いはいない。夫に言われて仕事も辞めたのに、結婚はもうほとんど壊れていた。この命が、最後の頼みの綱だと思っていた。自分勝手な夫の背中ばかり見ていた数ヶ月。言葉を飲み込み続けた日々。
(……全部、消えてしまえばいいのに)
やがて、キュイーン、ギュルルルル……という音をバックに、麻里は暗い中でエレベーターのようなものに乗って、いくつもの階層を通り過ぎていた。
『あなたはまだ、生きるべき人』
どこかから、そんな声が聞こえて、一つの階層へ止まり、扉が開いた――。
――――――
「おう、起きただにか?」
聞き慣れない声と話し方に、麻里は違和感を覚えながら目を覚ました。
狭い部屋の小さなベッドに寝ており、傍には先ほど声を掛けた知らない四、五十代位の男が立っている。太い眉毛が目立ち、淡いグリーンの、首と腕の袖口の辺りに上品な刺繍の模様のある、礼服のようなものを着ていた。
「えっと、手術は無事終わったんでしょうか。確か、麻酔が切れるまで、寝てないといけないんでしたよね……」
麻里は手術前の看護師の説明を思い出す。ちゃんと覚えている良い患者ですよ、と、示したつもりだった。
が、凄い勢いで思ってもない言葉が返ってきた。
「手術? マリは何寝ぼけてるずら。今から式で大忙しだに。起きたなら早速、手伝うだに!」
「え? そんな、私さっき手術を受けたばかりで、まだ動けないはずじゃ……」
「動けないはずないだに! マリは、本棚から落ちてきた本で頭を打って倒れてはいたけど……寝てただけじゃん。至って健康体だに。ここは結婚式場。――まさか、今日の式の段取りを忘れたとは言わないだにね」
麻里は、ぎょろっとした目で睨まれてびっくりしたが、身体を起こしてみる。ちょっと頭の片側が痛いが、問題なく起きられた。
いつの間にか男性と同じ礼服のような服を着ていた。そして、見慣れない手をしている。いつもの自分の細くて節の目立つ指でなく、するんとした指だった。していたはずの結婚指輪もない。
ぎょっとして飛び起きるように立ち上がり、近くに立てかけてあった鏡で全身を映す。
「……誰、これ?」
小柄で細身、愛嬌のある丸顔、つぶらな瞳の、若い顔が映っていた。二十代くらいか。
「だから、マリだに」
「……私、そのマリの記憶がないです」
「ええっ! この忙しい時に、まさかの記憶喪失だにか!?」
「そのまさかです」
麻里は正直に、ここにいた「マリ」の記憶がない別の麻里であることを話した。男性は、「時間がないのに」と言い、廊下を歩いて移動しながら簡略にここの「マリ」のことを教え始める。
「俺はリュウタロウ。結婚式をメインにしている会社、長靖式場の社長だに。マリは、ここに勤めて三年になるだに。今日の段取りを今から話すからよく聞くだに」
何か書くものを、と思ってポケットを探ると、手のひらサイズの手帳のようなものを見つけた。開くと、最初のページに、既に文字があった。その後は、白いページが続いている。
――結婚式場を運営する会社、長靖式場
――社長:リュウタロウ、従業員:マリ
別のページに、今日の段取りが続く。今日の花婿と花嫁の名前、場所は会社の式場、式の時刻その他スケジュール、役割分担、など。
リュウタロウの話が進むと、メモも増えていく。
(勝手にメモが追加されるの? 最新技術か何か? それともこれは、夢?)
「そんな、社長自らお忙しい時に起こしに来るほど、マリって重要人物なんですか?」
麻里は歩きながら手帳をポケットに戻して聞いた。
「重要だに。うちの会社は、俺含めて三人しかいないだに」
麻里は絶句する。三人しかいなくて、今日これから結婚式で、しかも自分は何も覚えていない。不安が心をよぎる。
(私のせいで失敗してしまったら、それで、会社が潰れたりしたら……)
「大丈夫。マリは元から、喧嘩っ早くて失敗が多いけど失敗と認めない子だに。いつものように俺とカエデがフォローするだに」
そう言って、リュウタロウがぽん、と背中を叩く。マリ、やばい子? と思いつつも、少し心が落ち着いた。
「記憶がなくてもできる仕事をしてもらうだに」
広間の奥の、ある部屋の前に着く。
「花嫁の担当だに。着替えはもうカエデがさっき済ませた。後は、一緒に待って、時間になったら案内するだに」
麻里は慌てて質問をする。
「あと気を付けることとか、ありますか?」
「マリは時々うっかり触ることがあるから言っとくけど、常識として、直接肌に触れないようにするだに。触れるなら、ポケットに入れてる、境界の布を使うだによ」
そう言って、扉を開けた。
麻里が控室に入った瞬間、花嫁の隣にいた介添えの女性が、振り向いて叫ぶように言った。
「花嫁が、緊張で息ができないって言ってます!」
初仕事で、いきなり問題に遭遇した。リュウタロウは既に立ち去っている。
麻里は、震える手を握りしめた。
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次回第2話は、来週火曜日20時更新予定です。




