第5章:量子物理学が見た「粘土板」
車は、神社の裏手に広がる湿った森の奥、通常なら立ち入りさえ困難な、時間さえも拒絶するような深い藪を掻き分けた先に停車した。雨は小降りになり、代わりにかつての神々が吐き出した溜息のような、重く粘り気のある深い霧が、楠の古木の隙間を埋めていた。土と朽ちた葉の匂いが、六月の湿気と混ざり合い、濃厚な「生命の記録」の香りを漂わせている。霧の中には、微かに電気的な放電のパチパチという音が混じっていた。
「さあ、見せてやれ、中尾。その黒い盤面の中に、人類の絶望か、あるいは再起動の希望が眠っているのかを。管理局の連中が周囲を包囲する前に、こいつの中身を引っこ抜いて、俺の特殊なサーバーにミラーリングするぞ。時間の猶予はない。システムの免疫が、すぐに俺たちを排除しに来る」
徳永は車内の狭いスペースで、特注の携帯型量子アナライザーを展開した。複数の光ファイバー配線が、黒い粘土板――『エンキの神匣』へと複雑に接続される。デバイスのモニターが深い青色に明滅し、凄まじい速度で文字列と数式が走り始めた。その文字列は、アッカド語でもヘブライ語でもない、純粋なバイナリコードだった。
「……嘘でしょ。これ、私の個別のDNA配列データ……? それも、最新の変異まで含めたリアルタイムのプロファイルだわ。昨日の血液検査の結果すら古いって言うの?」
玲子が画面を覗き込み、震える指で画面を指した。画面上には、彼女が幼少期に受けた些細な健康診断の結果から、現在この森で感じているストレスによるホルモン分泌量、さらには数分後に起こりうる遺伝子的発現の確率予測まで含めた塩基配列と、粘土板から抽出されたビットパターンが、完璧な並列を成してリアルタイムで同期していた。
「ジャンクDNAだと思っていた領域に、完全な量子エラー訂正コードが書き込まれている。玲子、お前の細胞一つ一つが、この『バッグ』の中に眠る膨大な文明データの、分散ストレージだったんだよ。エンキは、人類を単に創造したんじゃない。自分たちの文明……宇宙のすべてを記録した全情報を保存するための、自己複製・自己メンテナンス機能付きの生体ハードディスクとして俺たちを設計したんだ。十六弁の紋章は、その膨大なアーカイブを読み出すためのヘッダ情報であり、正当な継承者を判別するための多要素認証の物理キーなんだよ。つまり、お前自身が、この世界のバックアップ・データなんだ」
「私たちは、ただの情報の器に過ぎないっていうの……? それじゃあ、私のこの三十年間の記憶も、誰かへの淡い想いも、ただのデータの整合性を取るためのパリティチェックの結果だって言うんですか? 私という人格は、単なるメタデータなの? この痛みも、この雨の冷たさも、ただの演算結果に過ぎないっていうの?」
玲子の瞳に、抑えきれない涙が滲む。彼女のスレンダーな体が、霧の冷たさと、自身の存在理由を根底から否定されたような戦慄に震えた。徳永は無言で彼女の肩を、その太く熱い指で強く掴んだ。彼の体温と、使い古した機械油の匂いが、玲子の薄れゆく意識を辛うじてこの現実に繋ぎ止めた。
「それを決めるのはプログラムじゃねえ。そのプログラムという檻の上で、どう踊り、どう抗うかだ。いいか、このエラー訂正コードには、意図的なバグがある。エンキは人類をただの容器にはしなかった。このコードの末尾にある、論理的に矛盾した非可換な配列……これは『出口(Exit)』だ。仮想現実の論理を内部から突破するためのバックドアだよ。奴らはこれを使って、現実を上書きし、自分たちだけが永久に君臨する神になろうとしている。だが、真のアクセス権を持っているのは、お前だ。お前が認めない限り、世界は書き換えられない」
徳永は彼女の目を覗き込んだ。その瞳には、科学者の冷徹さと、かつての教え子を、そして人類の尊厳を守ろうとする師としての燃えるような意志が混在していた。
「泣いてる暇はねえ。お前のDNAが鍵なら、お前がこのシステムそのものを支配しろ。……管理者モードを起動する。世界のバイナリを書き換え、俺たちの『物語』を取り戻す準備をしろ。因果律の鎖を断ち切るんだ」




