表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3章:和名「縁起」の深層

 激しい雨が、キャンパスを覆う鬱蒼とした森を叩いていた。夜の闇を裂くように、徳永と玲子の二人は地面に滑り落ちた。三階からの跳躍。徳永の言う「量子トンネル効果」などという物理現象が起きたわけではないが、植え込みの柔らかな土と、雨をたっぷり含んだ紫陽花の茂みが、二人の衝撃を吸収していた。濡れた土の匂いと、押しつぶされた葉の青臭い香りが鼻をつく。

 「痛……っ、嘘つき。全然痛くないなんて大嘘じゃないですか! 背中の骨が折れたかと思いましたよ。あんなデタラメを信じた私がバカでした」

 玲子が濡れた地面に手をつき、スーツの膝についた泥を忌々しそうに払った。普段は凛とした彼女の髪も、今は雨に打たれてスレンダーな首筋に張り付いている。濡れたブラウスが、彼女の華奢な肩のラインと、その奥に秘められたしなやかな筋肉の動きを強調していた。

 「死んでないなら、俺の計算は正解だ。物理学は常に、生存を最優先する。それに、この紫陽花を見ろ。こいつらが俺たちの位置エネルギーを受け止めてくれたんだ。感謝しろよ。お前の高級スーツよりも、この花の細胞壁の方がよっぽど強靭だ」

 徳永は重厚な着地音を響かせ、屈強な肢体ですぐに立ち上がった。彼の視線の先、暗闇の中に咲き誇る紫陽花が、街灯の光を浴びて怪しく輝いている。

 青、紫、そして深紅に近いピンク。土壌のpHによって色を変えるというその花々は、雨粒を弾きながら、まるで宝石のように自ら発光しているかのようだった。滴る雨が、紫陽花の複雑な花弁を透過し、地上へと帰っていく。徳永は、追っ手の足音が、今まさに自分たちが飛び出した研究室の窓の上から響くのを聞き逃さなかった。

 「走れ、中尾。あそこの学外者用駐車場に、俺の『ランドクルーザー』が眠ってる。二十年物だが、あれなら物理法則の限界まで飛ばせる。管理局の軟弱なセダンには負けん。俺の魂とピストンが同調してやがるんだ」

 二人は雨に煙るキャンパスを駆け抜けた。濡れたアスファルトを叩く靴音が、激しい雨音に掻き消されていく。周囲には、樹齢を重ねた巨大なクスノキや樫の木々が、濡れた葉を重く垂らし、まるで古の巨人たちが二人の逃亡を見守り、あるいは行く手を阻もうとしているかのようだった。楠の葉が雨を弾く独特の音が、逃亡者の焦燥感を煽る。

 「……ハァ、ハァ、先生、さっきの話の続きです!」

 玲子が肩で息をしながら、濡れた前髪をかき上げて問いかける。

 「『縁起』が、創造神エンキのプログラムの起動だって説……。それって、日本の古代史そのものが、一つの『演算システム』だったってことですか? 八百万の神々なんていうのは、各現象を担当するサブルーチンだとでも? 天照大御神が核融合プロセスの管理担当だなんて、冗談じゃありませんよ」

 徳永は無骨な手で車のキーを解錠した。二十年以上前の、無骨なスクエアデザインを保った四輪駆動車が、鈍い電子音とともに目を覚ます。ディーゼルエンジンの唸りが、重厚な雨音の中に溶け込んでいく。

 「いいか。日本人は古来から『縁起を担ぐ』とか『縁起が悪い』なんて言うだろ? あれは、単なる運不運や迷信の話じゃねえ。この仮想現実における『イベントの発生条件トリガー』が整っているかどうかを確認する、人類の遺伝子に刻まれた本能的なコードチェックなんだよ。フラグが立たなければ、事象は発生しない。それがこの世界のハードウェア的な制約だ」

 二人が車内に滑り込み、重厚なドアが閉まると、外の激しい雨音が幾分遠のいた。車内には、古い革シートの匂いと、徳永が愛用している機械油、そして使い込まれた地図の匂いが漂っていた。徳永はエンジンを咆哮させ、荒々しくギアシフトを叩き込んだ。

 「エンキ……すなわち『縁起』は、人間という端末に『因果律』という高度な演算OSをインストールした。種をまけば、芽が出る。善をなせば、報われる。一見当たり前のような法則だが、量子力学的レベルで見れば、それは極めて不自然なほど秩序だったプログラムだ。この世界の因果プログラムを司る神が、かつて淡路島に降り立ち、この国の背骨を構築した。日本は、世界というサーバーを動かすための『管理棟』なんだよ」

 「……淡路島。記紀神話において、伊邪那岐と伊邪那美が、最初の一滴から生み出した『おのころ島』。……もし先生の言う通りなら、あの神社の下に埋まっていたものは、ただの遺物じゃない。バックアップのサーバー・ルームだったということね」

 玲子がシートベルトを締めながら、震える声で呟いた。

 「おのころ島神社の裏で出土したあの粘土板……。あれには、日本という『サーバー』の、管理パスワード……あるいは、緊急時のリセットボタンの在り処が隠されている。だから、特殊資源管理局の連中は、手段を選ばずに回収しようとしている。彼らは、この世界の『因果』を自分たちの都合のいいように書き換え、人類を永劫に管理下に置こうとしているんだ」

 「ああ。奴らは『管理者権限』を手に入れて、人類の因果律を自在に操り、永遠の独裁体制を築こうとしている。幸か不幸か、そのパスワードを解読できるのは、世界で唯一、本音しか喋れねえ変人の講師と、そのお転婆な教え子だけらしいな。これも一つの『縁起』ってやつだ。運命論は嫌いだが、このバグだけは俺が叩き潰す」

 ランドクルーザーは巨大な水飛沫を上げ、大学の正門を強引に突破した。バックミラーには、パトライトを消した黒塗りのセダンが数台、獲物を追う狼のように正確な隊列を組んで追随してくるのが映っていた。

 「先生、私、お転婆じゃありません!……でも、この『縁起』の正体、死ぬ前に必ず解明して、論文にしてやりますから。査読が通らなくても、世界を救えば文句はないでしょ。実証実験としては最高の結果よ」

 「論文? 寝ぼけるな。真理を求める者の狂気を見せてみろ。真実を知った瞬間、この世界そのものが『書き換え(パッチ)』されるかもしれねえんだぞ。その時、お前の論文なんてビットの屑になって消えてなくなる。……行くぞ、玲子。まずは明石海峡大橋だ。雨のカーテンを抜けて、神話の原点に殴り込む。お前のキャリアを投げ捨てた価値、俺が証明してやる」

 激しい雨は止むことを知らず、車のワイパーが懸命に視界を確保する。暗闇の中で、濡れた楠の巨木たちが大きく揺れ、その葉先から滴る雫が、夜の路面を激しく叩いていた。それはまるで、これから始まる壮大な歴史の再構築と、世界の解体へのカウントダウンを祝福する、激しい拍手のようでもあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ