第2章:創造神ENKIの「ハンドバッグ」
雨脚は夜になっても衰える気配がなかった。大学の照明が消え、研究棟全体が暗闇に沈む中、徳永の部屋だけが青白いモニタの光を放っている。研究室の古い蛍光灯が時折、ジジッという音を立てて明滅する。徳永は、玲子が「奪ってきた」という黒い粘土板を、特殊なX線非破壊検査装置のステージに載せた。周囲には、分解されたサーバーのパーツや、液体窒素のタンク、そして意味不明な配線が蛇のように這い回っている。
「先生、この装置……確か、先月の予算申請で事務局から『贅沢すぎる、大学の予算は打ち出の小槌ではない』と一蹴されたはずじゃ?」
玲子がモニターを覗き込みながら、不審そうに眉を寄せた。
「フン、事務方の連中には『高エネルギー量子共鳴を用いた、未解読文字の三次元抽出器』と適当な名前で再申請した。実際は、闇市場で手に入れた廃品の医療用X線と、俺が自作した信号変換インターフェースを組み合わせたジャンクだ。奴らは横文字と『量子』って言葉を並べておけば、自分たちの無能さを隠すためにハンコを突く。官僚機構なんて、脆弱性の塊だ」
「相変わらず、詐欺師ギリギリのラインですね、師匠。でも、その強引さが今の私たちには必要かもしれません。……あ、画像が出ました。これ、見てください! 内部構造が層状になっているわ」
モニター上に、粘土板の内部構造が透過して浮かび上がった。通常の粘土であれば、均一な土の密度が映るはずだ。しかし、この黒い盤面の中には、明らかに人工的で異質な「多層構造」が存在していた。
「……重なっている。一枚の板じゃない。極薄のグラフェン状のシートが、ナノ単位で数千層も積層されているんだ。この密度……人類の最新の量子メモリすら赤子に見える。これ一つで、全人類の歴史、思想、さらには物理法則のバリエーションすべてを記録できる容量だ。いや、全宇宙のシミュレーション・ログが入っていてもおかしくない」
徳永の声が、興奮で微かに震えた。彼はモニターを指でなぞる。
「玲子、この『バッグ』の取っ手の部分を見てみろ。ここが外部接続端子(物理インターフェース)になっている。シュメールの神々がこれを手に提げて描かれているのは、これが神々の権威を示す象徴であると同時に、物理的な『鍵』だったからだ。彼らはこのバッグを特定のゲート……おそらくはピラミッドやジグラットの奥にあるコンソールに差し込み、この世界の物理定数を書き換えていた。リセット、あるいはアップデートのためにな」
「つまり、これが神話にある『メー(Me)』……文明のプログラムそのものだってことですか? 建築、農耕、王権、そして愛や破壊までもが、この小さな匣の中に定義されていると?」
「そうだ。神話じゃ、エンキは酒に酔った勢いで、女神イナンナに『メー』を盗まれたことになっている。……あるいは、このストレージのアクセス権を奪われたのかもな。人類に与えられた文明、法律、芸術、そして絶え間ない争い。そのすべてが、この『バッグ』に収められたバイナリデータ、あるいは量子ビットに過ぎないとしたらどうだ? 俺たちは、この匣の中にある設定値に従って、踊らされているだけのNPCに過ぎない。しかも、不出来なスクリプトで動かされているな」
玲子はスレンダーな指先で、自身の長い黒髪を弄んだ。彼女は調査役としての冷静さを取り戻し、持参したタブレットの資料をめくる。その画面には、アッシリアのレリーフと、エジプトの「アンク」の文様が並べて表示されていた。
「でも先生、なぜ淡路島なんですか? アッシリアやシュメールから数千キロも離れた日本の、それも玉ねぎの名産地の地下から、どうしてこんな宇宙時代のオーパーツが出てくるんです? 歴史の連続性がどこかで断絶しています。まるで、誰かが意図的にパズルのピースを隠したみたい」
「それが『縁起』の正体だよ、玲子。地政学的な偶然じゃない。システム工学的な必然だ」
徳永は椅子を回転させ、壁一面に貼られた古地図と世界地図を指差した。そこにはシュメール、エジプト、そして日本を繋ぐ謎の幾何学的なラインが引かれていた。
「シュメール語で『エンキ』は『地の主』を意味する。だが、発音を分解してみろ。『EN』は主、『KI』は場所だ。ところが、日本語の古語において『キ』は『氣』、つまりエネルギーそのものを指す。主なるエネルギーの源。……エンキは、自ら創造した『人類』というバイオストレージのバックアップを、最も安全な、東の果ての島に隠したんだ。日本は、神話の終着点じゃない。データの最終保存先だったんだよ。そしてそのデータを復元するための『シード値』は、俺たちの体内にある」
「バックアップ……。私たち人間が、ただのデータの保存容器だっていうんですか? 魂なんてものは、ただのパリティチェックの一つに過ぎないと? だったら、私のこの不安も、先生への苛立ちも、ただのノイズだっていうの?」
「ああ。俺たちのDNAのジャンク領域……意味不明だと思われている九十パーセント以上の配列。あそこに、この『バッグ』の中身を復元するためのチェックサムコードが刻まれている。そして、そのコードを読み出すための認証デバイスが……」
徳永は再びモニターのレリーフに目をやった。精霊アプカルの手首。十六弁のロゼット。
「この『十六菊紋の腕輪』だ。これは単なる飾りじゃねえ。生体認証を行うための『指紋センサー』ならぬ『DNA・量子共鳴スキャナー』だ。この腕輪を嵌め、バッグの取っ手を握る。その瞬間、装着者のDNAがエンキの系譜……つまり『創造主のパスワード』であると認められれば、世界のルート権限が開放される。物理法則を無視した『奇跡』が可能になるんだよ。因果律の書き換え(オーバーライド)だ」
「……それで、産業経済省の管理局の連中が血眼になって探しているんですね。その『腕輪』の本物を。彼らは、この世界の管理者になり代わろうとしている……」
「ああ。だが奴らは馬鹿だ。形だけ模した金細工をいくら集めても意味がねえ。本物の『ロゼット・ハードウェア』は、今もどこかで時を刻んでいる。量子クロックとしてな。そして、その『時計』は……」
その時、研究室の強化ドアが、地震のような衝撃とともに震えた。いや、それはノックというより、金属の塊で物理的に破壊しようとする衝撃音だった。廊下の赤外線センサーが異常を検知し、赤色のパトライトが室内で不気味に回転し始める。
「中尾調査役。扉を開けなさい。私有財産の不法持ち出しは国家反逆罪に相当しますよ。今ならまだ、事務的な過失として処理して、あなたの輝かしいキャリアを守ってあげることができます。無駄な抵抗はやめなさい」
低く、抑揚のない機械的な声が廊下に響く。玲子の顔から血の気が引いた。彼女はその声を知っていた。管理局の『掃除屋』と呼ばれる、感情を排除したエージェントたちだ。
「……特殊資源管理局。……もう追いつかれたの? 追跡タグは無効化したはずなのに。先生、どうしましょう。彼らは交渉なんて受け付けないわ。文字通り、物理的な削除に来たのよ」
「玲子、虎屋の羊羹を片付けろ。糖分はもう十分だ。これからは、もっと野蛮なアドレナリンを食うことになるぞ」
徳永は素早く黒い粘土板を自分のTシャツの腹の辺りに押し込み、その上から厚手のベルトで固定した。その動作には、かつての戦場カメラマン時代に培ったような無駄のなさが宿っている。そして、驚くほど軽やかな動きで玲子の腰を抱き寄せた。
「師匠? 何を……ちょっと、セクハラで訴えますよ、この状況で!」
「窓から飛ぶぞ。幸い、俺の部屋は三階だ。重力加速度なんて、量子物理学的に言えば、着地の瞬間に原子の隙間をすり抜けりゃ相殺できる。要は、この世界が『仮想現実』であると、細胞レベルで信じ抜くことだ。物理法則なんて、ただの設定に過ぎん。信じれば落ちん」
「そんなデタラメ信じるわけないでしょ!……きゃあ!」
徳永は、本音をずけずけと言う時と同じ、迷いのない勢いで窓枠を蹴破った。強化ガラスが砕け散り、雨の中へと二人の体が投げ出される。六月の豪雨の中、二人のシルエットが闇夜に消えていく。
その直後、研究室のドアが爆破に近い音を立てて吹き飛んだ。突入してきた黒服たちの手首には、雨に濡れて不気味に青白く発光する、十六弁のロゼットの紋章が刻まれていた。彼らは無言で、雨の夜へと消えた二人の影を追って、暗闇の中へと身を投じた。




