第10章:新たな「縁起」の始まり
玲子の眼前には、エンキから提示された最終的な「管理者コマンド」のプロンプトが、虹色の光を放って浮かんでいた。指一本で触れれば、世界の因果律は完全に開放され、人類は神の計画という名の「決定論」から、永劫に解き放たれる。しかし、それは同時に、慣れ親しんだ世界の形……「何もしなくても明日は来る」という、欺瞞に満ちた保証を失い、自らの意志だけで未知の混沌へと踏み出すことも意味していた。
「先生……このボタンを押したら、私たちはどうなるの? この淡路の景色も、紫陽花も、先生との不器用な喧嘩の記憶も、すべて消えてしまうの? 仮想現実の夢が覚めるだけなの? 私たちは、また虚無に戻るの?」
「知るか。俺はただの考古学者で、落ちこぼれの物理学者だ。過去を暴くのは仕事だが、新しい未来を書き直すのは、今この瞬間を必死に生きてる奴らの特権だ。お前がその指を動かす瞬間に、新しい世界が始まる。……筋を通せ、玲子。お前が信じる『縁起』は、どっちだ? 誰かに与えられた平和な檻か、それとも傷だらけの、しかし自分の意志で選べる自由な荒野か! どちらを選んでも、俺はお前の師として、その結果を見届けてやる!」
玲子は一瞬、徳永の無精髭の混じった、汗と泥と血にまみれた、しかし誰よりも真実を見据えた無骨な顔を見つめた。その不器用で、どこまでも温かい、剥き出しの人間性を。そして、彼女は最高のエリート官僚としての冷静な仮面を完全にかなぐり捨て、一人の人間としての、そして人類の代表としての燃え盛る情熱を込めて、黄金の光を放つ指先を、粘土板の中央――十六の弁が重なる、その「運命の一点」へと、全霊を込めて押し込んだ。
世界が、網膜を焼き切るような、しかし優しく包み込むような白一色の閃光に包まれた。
次の瞬間。
二人は、おのころ島神社の静かな、夜明け前の深い森の中に立っていた。時刻は午前四時三十分。激しい雨はいつの間にか上がり、薄くたなびく雲の間から、神々しい金色の朝日が、明石海峡の水平線を越えて差し込み始めていた。楠の葉先から落ちる雫が、朝日に反射してプリズムのように七色に輝いている。そこには、管理局の執行官たちの姿も、パルス銃の不気味な残響も、爆破の跡もなかった。ただ、森の鳥たちのさえずりと、潮騒の音だけが響いていた。
徳永の手元には、もはや不思議な光も振動も失った、ただの古い、ひび割れた黒い粘土板があった。それはもはやハードディスクではなく、役目を終えた歴史の断片だった。
「……世界は、変わったんですか? 何も変わっていないように見えるけれど。海の色も、風の匂いも、このスーツの泥汚れさえ、そのままだわ。まるで、すべてが長い夢だったみたい」
玲子が濡れたブラウスを払い、スレンダーな背筋をピンと伸ばして、淡路の海を望む朝日を眩しそうに仰いだ。彼女の瞳からは黄金の光は消えていたが、代わりに、以前よりも力強く、深い生命の輝きが宿っていた。彼女は、もはや管理されるデータではなく、自ら運命を演算する主体となっていた。
「ああ。因果律のハードコーディングは完全に解除された。もう、誰にも俺たちの運命を『設定』する権限はねえ。これからは、自分たちの足で歩き、自分たちの意志で誰かと繋がる……本当の意味での『縁起』が始まるんだよ。物理法則すら、これからは俺たちの情熱という変数に、ほんの少しだけ耳を貸すようになるかもしれん。それが自由ってやつだ。不確定性こそが、生命の証だ」
徳永は無造作に髭を掻き、面倒くさそうに、しかし足取りは軽くランドクルーザーへと歩き出した。
「さて、帰ったらあのクソ大学に、退職願という名の『世界システム監査報告書』を叩きつけてやる。これからは、仮想現実じゃない、剥き出しの、何が起こるか分からん世界という『実体』を研究する時間だ。金にはならんだろうがな。……おい中尾。お前、まだ省庁に戻って退屈な書類仕事と、予算の計算をするつもりか?」
玲子は、雨上がりの爽やかな、濡れた土と花の匂いが混じった空気の中で、最高に美しい、挑発的な笑顔を浮かべた。
「……まさか。師匠の助手に戻りますよ。今度はもっと高い給料と、叙々苑の特選弁当一ヶ月分で手を打ってあげます。覚悟してくださいね、師匠。私の情熱は、スパコンでも演算不能なんですから。これからは、二人で新しい『縁起』を書き込んでいくんです」
二人の背中に、初夏の柔らかな、しかし力強い陽光が降り注ぐ。それは、神の意図さえも超えて、自らの足で歩み始めた人類の、そして二人の、新しい「縁起」の、まばゆいばかりの幕開けだった。
(完)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
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