9話.暗躍
リリィという少女を街で助け、自身の「ゼロ」を少しだけ肯定できたあの日から数週間後。
十歳になった僕は、離れの書斎でセバスが淹れた紅茶を飲みながら、彼が持ち込んだ報告書に目を通していた。
「…最近、王都近郊の森を縄張りにしている『赤山猫』という盗賊団が、また厄介な獲物を拐ったようですね」
セバスの言葉に、僕は報告書から顔を上げた。
赤山猫。旅の商人を襲うだけでなく、身寄りのない平民の子供を拐って他国に奴隷として売り飛ばす、タチの悪い犯罪組織だ。
「厄介な獲物、とは?」
「はい。スラムの孤児らしいのですが…希少な『獣人』の少女とのこと。顔立ちも整っているため、裏のオークションに出せば、悪趣味な貴族どもが金貨の山を積んで争奪戦になるでしょう」
獣人。
この世界において、優れた身体能力を持つ半獣半人の種族は、迫害と差別の対象であると同時に、裏社会では高値で取引される「商品」でもあった。
「……王国の騎士団は動かないのかい?」
「ええ。連中は森の地形を熟知しており、さらにC級以上の魔法を使える用心棒まで囲っているとか。騎士団も、平民の孤児一人のためにそこまでの労力は割かないでしょう」
セバスは静かに目を伏せた。
それが、この魔力至上主義の国の現実だ。魔力のない平民、ましてや獣人の命など、貴族にとっては道端の石ころと大差ない。
「ちょうどいい」
僕は報告書を机に置き、窓の外の深い森を見つめた
僕が強さを求める理由は、愛する家族と、僕を慕ってくれる身内を守るためだ。だが、僕一人でどれだけ剣と古代魔法を極めたところで、24時間、王都中の悪意から家族を守り切ることはできない。
今の僕に必要なのは、貴族社会とは切り離された、僕の代わりに裏社会を這い回り、情報を集め、脅威を未然に察知する『目と耳』だ。
スラムで生き抜き、裏社会の泥水を啜ってきた獣人の孤児。組織を立ち上げるための最初の駒として、これ以上の人材はない。
「僕が、夜の散歩のついでに掃除してくる」
「お怪我のなきよう。夕食の時間までにはお戻りくださいませ」
セバスは深く一礼した。彼は、僕がただの正義感で動いているわけではないことを、とうに見抜いているようだった。
◇
深夜。王都近郊の深い森の中。
僕は外套のフードを深く被り、音もなく木々の枝を飛び移っていた。
ガザ師匠の地獄の特訓で鍛え上げられた僕の肉体はすでに十歳の枠を大きく逸脱している。魔力による身体強化などなくても、純粋な筋力と身のこなしだけで森の獣すら置き去りにする速度が出せた。
(……いた。あそこか)
森の奥深く、岩肌をくり抜いたような広大な洞窟の前に、焚き火の明かりが見えた。
見張りの男たちが酒盛りをして、下品な笑い声を上げている。数は十数人といったところか。
だが、僕の視線は彼らではなく、洞窟の入り口に置かれた一つの鉄の檻に向けられていた。
檻の中には、手足を鎖で繋がれた一人の少女が座り込んでいた。
月光に照らされたアッシュグレーの短い髪。頭にはピンと立った銀色の狼の耳があり、腰からは力なく毛並みの良い尻尾が垂れている。
泥だらけのボロボロの服を着せられ、頬には殴られたような痣があるが、盗賊たちを睨みつけるその『反骨の瞳』だけは、全く折れていなかった。
「ぎゃはは! 見ろよあの銀狼のガキ、まだ俺たちを食い殺しそうな目をしてやがるぜ」
「高く売れるんだ、傷はつけるなよ。ああいう生意気な獣人を泣かせて調教するのが好きな、変態貴族の旦那様はいっぱいいるからなぁ」
下劣な笑い声が響く。
檻の中の少女は、鎖を引きちぎらんばかりに睨みつけていたが、やがて無力感に唇を噛み締め、小さく震え始めた。
僕は、愛用の木刀を抜き放ち、枝から音もなく飛び降りた。
「こんな時間に飲んだっくれて、体に悪いよ」
ストン、と。
焚き火のすぐそばに降り立った僕の姿に、盗賊たちの笑い声がピタリと止まった。
「あぁ!? なんだお前、どこから湧いて出た!」
「ただの通りすがりさ。君たちがうるさくて、森の動物たちが迷惑してる」
「舐めやがって……! おい、やっちまえ!」
男たちが一斉に剣や斧を抜き、僕に飛びかかってくる。
僕は深く息を吸い込み構えをとった。
魔法を使えない僕の戦い方は、徹底的なカウンターだ。
大振りの斧を紙一重で躱し、すれ違いざまに木刀の柄で男の顎を正確に打ち抜く。脳を揺らされた男が白目を剥いて倒れる前に、次の一歩を踏み出し、別の男の鳩尾に強烈な蹴りを叩き込む。
殺しはしない。だが、二度と悪事ができないほど、骨の髄まで恐怖と痛みを刻み込む。
「な、なんだこのガキ!? 動きが見えねえ!」
「魔法を使ってる気配もねえぞ!」
瞬く間に五人が地面に転がる。
その時、洞窟の奥から、一際体格の良い大男が姿を現した。自らを『赤山猫』と名乗るこの盗賊団のボスだろう。彼の手には、赤い宝石が埋め込まれた魔杖が握られていた。
「チッ、使えねえクズどもめ。…おいガキ、その素早さ、ただの子供じゃねえな」
ボスは僕を睨みつけながら、杖の先端に強烈な炎の魔力を収束させ始めた。
C級相当の火炎魔法。まともに喰らえば、ただの木刀など消し炭になる。
「燃え尽きろォ!!」
放たれた火炎球が、轟音と共に僕へと迫る。
避けるのは容易い。だが、背後にはあの少女が囚われている檻がある。
「なら、潰すだけだ」
僕は逃げず、向かってくる炎に向かって、空虚な右手を伸ばした。
「掌握」
メキリ、と。空間がガラスのように歪む音が鳴った
僕が放った古代魔法は、炎を構成する魔法陣そのものを、空間ごと鷲掴みにした。
「なっ――!?」
ボスの目が、限界まで見開かれる。
檻の中にいた銀狼の少女も、信じられないものを見るように息を呑んだ。
無理もない。彼らの常識では、魔法は盾で防ぐか魔法で相殺するしかない。だが今、魔力を持たない十歳の子供が、自慢の火炎魔法を素手で掴んでいるのだ。
「ふっ……!」
僕が右手に力を込めて握り潰すと、火炎球は無惨にひび割れ、パチンと音を立てて空中で霧散した。
魔力を持たない『空っぽの器』だからこそ行使できる、世界そのものの質量による圧殺。
「ば、馬鹿な…! 魔法を、素手で砕いただと!?」
驚愕で硬直するボス。
だが、まだ終わらない。僕は古代の言語を紡ぎ、刀を地面に軽く突き立てた。
「偏重」
ズンッ!!
その瞬間、ボスの足元の「重力」が局所的に狂った
「な、がっ……!? 体が、おも、」
突然、右半身の体重だけが三倍に跳ね上がったかのようにバランスを崩し、巨漢のボスが前のめりに無様に倒れ込む。
「くそっ、舐めるなクソガキ!!」
ボスは泥に塗れながらも、懐から魔石を取り出し、自身の体を分厚い『岩の鎧』で覆った。
「はははっ! 俺の防御魔法は、並の剣じゃ傷一つつけられねえ! その木刀ごとへし折ってやる!」
「外が硬いなら、中から壊すまでさ」
僕は冷静に距離を詰め、突進してくる岩の鎧に、木刀の切っ先をそっと触れさせた。
頭の中に、グスタフ先生から学んだ物質の法則が浮かぶ。この鎧の硬度、質量、そして魔力の波長。僕の『空っぽの器』を共鳴箱として機能させる。
「共振」
キィィィィン……ッ!!
僕の木刀から放たれた微細な振動が、岩の鎧の固有振動数と完全に一致した。
波と波が重なり合い、爆発的に増幅する。
「……え?」
ピキッ、と。
絶対に壊れないはずの鎧に、亀裂が走った。
それは瞬く間に全身へと広がり――。
パァァァンッ!!!
内側からの限界を超えた振動に耐えきれず、分厚い魔力の鎧が粉々に砕け散った。
「が、はっ……あ……!?」
鎧が砕けただけではない。『共振』の波は、内側にいたボスの三半規管や内臓までも激しく揺さぶっていた。
男は大量の胃液を吐き出し、白目を剥いて、そのまま泥の地面へと倒れ伏した。
静寂が、夜の森に降りた。
盗賊たちは一人残らず、地面に転がって気絶している。
「……ふぅ。まだ『共振』は体力の消費が激しいな」
僕は荒くなった呼吸を整え、木刀を腰に戻した。
そして、檻の中で呆然と僕を見つめている銀狼の少女の元へ歩み寄り、転がっていた鍵で鉄格子を開け放った。
「もう大丈夫だよ。立てるかい?」
僕が手を差し伸べると、少女は警戒するように銀色の耳を伏せたが、やがてふらつく足で立ち上がった。
「あなた...魔法使い、じゃないの? 杖も持ってないし、呪文も言ってなかった」
十歳そこそこのはずなのに、彼女は震える声で鋭い指摘をした。
極限状態でも相手の動きを冷静に観察している。やはり、ただの孤児ではない。
「ただの剣術さ。それより、君はどうする? 街の騎士団の詰め所まで僕が案内するけど」
「私、帰る場所なんてない」
少女は、僕の外套の裾を、泥だらけの小さな手でギュッと掴んだ。
「親はいない。ずっとスラムで、他の獣人たちと身を寄せ合って生きてきた。……でも、今日みたいに力で捻じ伏せられたら、私たちにはどうしようもない」
彼女のアッシュグレーの瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いた。
そこにあるのは、理不尽な世界への絶望と、それをたった一人で覆してしまった僕への「狂信的な憧れ」だった。
「だから、お願い。…私を、あなたに拾ってほしい。掃除でも、スラムの裏道案内でも、なんでもする。」
それは、彼女が生きるために絞り出した懇願だった
僕はフードの下で、思わず口角を吊り上げた。
完璧だ。これ以上ないほどに、僕が求めていた条件に合致している。
「……掃除や洗濯なら、うちに優秀なメイドがいるか
ら間に合ってる。でも、そうだな」
僕は彼女の視線と同じ高さになるようにしゃがみ込み、その銀色の瞳を真っ直ぐに見返した。
「僕はこの先、この理不尽な世界で生き残るために、誰にも縛られない『僕だけの組織』を作るつもりだ。…君には、その組織の第一号として、僕を手伝って欲しい。あり体に言うとまた耳になってほしい。どうかな?」
「組織...?私が、あなたの目と耳に?」
「そう。王都の裏に蠢く悪意の情報を集めてほしい。君の獣人としての嗅覚と機動力があれば、最高の密偵になれるはずだ。…その代わり、君と、君の大切な同胞たちには、僕が『力』と『居場所』を保証する」
ただの主従ではない。
これは、僕と彼女が世界を出し抜くための契約だ。
「…やる。私に、やらせて」
少女は一切の迷いなく頷いた。
怯えて垂れ下がっていた狼の耳が、今は期待と決意でピンと立っている。
「僕の名前は、アロイス。君は?」
「クロエ。クロエって呼んで、アロイス様」
僕はフードを少しだけ下げて、彼女のアッシュグレーの頭にポンと手を置いた。
「分かったよ、クロエ。今日から君は、僕の共犯者だ」
こうして、魔力ゼロの欠陥品の元に、のちに王国の裏社会を牛耳る最大の諜報組織のトップとなる銀狼の少女が、最初の腹心として加わったのである。




