8話.誰かの英雄
あの地獄のような修行と、禁書庫での古代魔法の特訓が始まってから、五年の歳月が流れた。
十歳になった僕の身体は、同年代の貴族の子供たちとは全く違う形に仕上がっていた。
服を着ていればただの細身の少年に見えるが、その下には無駄な脂肪が一切ない、鋼のワイヤーのように引き締まった筋肉が隙間なく詰まっている。ガザ師匠の暴力的なしごきと、古代魔法の理不尽な反動に耐え続けた結果、僕の肉体はすでに「出来損ない」とは程遠い怪物じみた強度を誇っていた。
「にーに! 今日も遊びにきた!」
元気な声と共に、離れの書斎に飛び込んできたのは五歳になった妹のセナだ。
母譲りの美しい金髪を揺らしながら、彼女は僕の膝の上にピョンと飛び乗ってきた。
「こらこら、セナ。アロちゃんは今、他国の歴史書を読んでいるところですよ」
「アロイスもたまには息抜きが必要だ。それにしてもアロイス、お前、また背が伸びたんじゃないか?」
妹を追いかけるようにして、母シャーロットと父クロノも微笑ましそうに部屋へ入ってきた。
セナは五歳にして、すでに【C級】の基準を超えるほどの魔力量の兆候を見せている天才児だ。親族たちは案の定「セナ様こそが我が家の希望だ」と騒ぎ立てているが、当の本人は信じられないほどの「お兄ちゃんっ子」に育っていた。
「にーに、あのね! 今日、家庭教師の先生に火の魔法を褒められましたの! でも、私、魔法の練習よりにーにと遊ぶ方が好き!」
「ははっ、それは先生が泣いちゃうな。でも、すごいぞセナ」
僕が頭を撫でてやると、セナはえへへと嬉しそうに目を細めた。
この温かい家族の笑顔。これを見るたびに、僕は自分の選んだ道が間違っていなかったと確信する。僕が表舞台から消え、「欠陥品の兄」として身を潜めているからこそ、セナは誰の悪意にも晒されず、純粋に育ってくれているのだ。
「……そういえば、アロイス」
父上がふと、真面目な顔になった。
「お前、今日はセバスたちと王都の市街へ行く予定だったな。必要な文献の買い出しだと言っていたが、くれぐれも気をつけるんだぞ。お前のその『蒼い瞳』は、どうしても目立つ」
「分かっています、父上。ローブのフードは絶対に外しませんから」
僕は頷き、壁に立てかけてあった使い込まれた木刀を腰に差した。
◇
王都の中心部から少し外れた、平民たちが多く暮らす下町の市場。
僕は、セバスとリリアの三人で人混みの中を歩いていた。
「坊ちゃん。目的の古書店はこの路地の先ですが、少し入り組んでおります。私とリリアで先に様子を見てまいりますので、ここでお待ちいただけますか」
「アロイス様、絶対にそこから動いちゃ駄目ですよ! 変な人に絡まれたら、大声で私を呼んでくださいね!」
過保護な二人を苦笑いで見送り、僕は大通りの隅で壁に背を預けた。
全身を覆う汚れた灰色の外套を羽織り、深くフードを被っている。これなら、僕が公爵家の人間だとは誰も気づかない。
ふと、路地裏の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「おい、邪魔だぞ貧乏人!」
「治療費代わりにその荷物置いてけよ!」
声のする方へ視線をやると、派手な服を着た下級貴族の少年たちが、一人の少女を取り囲んでいた。
栗色の髪をした、僕と同い年くらいの少女だった。彼女は大事そうに皮の鞄を抱え込み、ガタガタと震えている。
「や、やめてください……! これは、お店の商品なんです……!」
「うるせえ!」
リーダー格の少年が、掌に小さな火の玉を浮かべてニヤついている。
魔力を持たない平民に対する、明らかな恐喝。
魔法という暴力。抵抗できない弱者。
僕は踵を返し、通り過ぎようとした。関われば面倒なことになる。フードが外れて『英雄の瞳』が見られでもしたら、騒ぎはもっと大きくなる。
でも。
恐怖に歪む少女の涙を見た瞬間、僕の足は勝手に動いていた。
かつて、五歳の儀式で絶望の底に突き落とされた自分自身の惨めな姿が、フラッシュバックしたからかもしれない。
「――おい。寄ってたかって情けないマネはやめろよ」
僕は路地裏に入り、少女の前に立った。
「あ? なんだお前」
貴族の子供たちが僕を睨みつける。
「その子を放してやれ。魔法は、弱い者いじめの道具じゃないはずだ」
「ハッ! 一般人が魔法使い様に説教か? 火傷じゃ済まねえぞ!」
少年が逆上し、手を振るう。
ゴォッ! と音を立てて、掌の火の玉が真っ直ぐ僕の顔面へと飛んできた。
普通の人間なら、悲鳴を上げて避けようとするだろう。
(……遅い)
僕の思考は、どこまでも冷え切っていた。
死の森で味わったガザ師匠の殺気に比べれば、止まって見えるほどだ。
殺気も、予備動作も、魔法陣を構築するための魔力の練り方も、すべてが教科書通りで隙だらけ。
パァンッ!!
僕は腰に差していた木刀を、鞘から抜くことすらなく一閃させた。
神速の居合い。魔力を持たない純粋な物理の衝撃波が、飛来する火の玉を真横から打ち据え、あっけなく空中で霧散させた。
「なっ……!?」
「魔法を……斬った!?」
自分たちの常識が通じず、驚愕に固まる三人。
実戦において、その一瞬の隙を見逃すはずがない。
僕は一歩踏み込んだ。十歳児とは思えない爆発的な脚力で距離を詰め、一瞬にしてリーダー格の懐に入り込む。
「魔法使いの弱点は、慢心だ」
ドンッ!!
柄の底で、少年の鳩尾を鋭く突く。
肋骨を折らないよう峰打ち。
「ぐぇっ……!」
少年は白目を剥いて泡を吹き、崩れ落ちるようにその場に倒れ伏した。
「ひ、ひぃッ! なんだコイツ!?」
「お、覚えとけよ!」
残りの連中は腰を抜かし、気絶した仲間を必死に引きずって逃げていった。
静寂が戻る。
僕はふぅ、と小さく息を吐き、木刀を元の位置に戻した。
魔法を使わなくても、魔術師に勝てた。ガザ師匠の教えと、僕が積み上げてきた魔力ゼロの戦い方は、間違っていなかったのだ。
「あ、あの……」
背後から、震える声がした。
振り返ると、鞄を抱えた栗色の髪の少女が、涙を溜めた瞳で僕を見上げていた。
「助けてくれて、ありがとうございました…! 私の名前はリリィ。あなたは……?」
僕はフードの奥の蒼い瞳を見られないように深く被り直し、少し迷ってから答えた。
「ただの、通りすがりだよ」
僕が何者か、名乗るわけにはいかない。
踵を返そうとした僕の背中に、彼女の真っ直ぐな声が届いた。彼女の瞳には、先ほどまでの恐怖は消え去り、代わりにキラキラとした憧れの光が宿っていた。
「杖も持たず、魔法も使わずに、あんな怖い人たちを追い払っちゃうなんて」
彼女は、深く、深く頭を下げた。
「私、絶対に忘れません! 魔法よりも強くて、優しい人!」
その言葉が、僕の胸の奥に、ストンと心地よく落ちた。
『魔法よりも強い』
(……そうか)
魔力がなくても、誰かを救えるんだ。
ずっと「欠陥品」だと蔑まれ、自分自身でもどこか引け目を感じていた僕の『魔力ゼロ』という事実。
その日、僕は初めて、自分の「ゼロ」を少しだけ肯定できた気がした。
「坊ちゃん! こんな路地裏で何を……!」
「アロイス様! お怪我はありませんか!?」
通りへ戻ると、血相を変えたセバスとリリアが走ってくるのが見えた。
僕はフードの下で僅かに微笑み、「何でもないよ」と二人に手を振った。




