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7話.古代魔法

リリアという共犯者を得た僕は、夜な夜な地下の『 禁書庫へと通い詰めていた。

 無数に積まれた古文書の山。その最奥で、他のガラクタたちから隔離されるように置かれた黒い台座の上に、それはあった。

 埃を被った、一冊のボロボロの古書。

 表紙の革はひび割れ、不気味なほどの漆黒。


原初への回帰(プリスカ・マギア)


 背表紙には、現代ではとうに失われた古代文字が刻まれていた。

 一般の人間にはただのミミズの這った跡にしか見えないだろう。僕自身、最初は全く読めなかった。だが、昼間にグスタフ先生の下で必死に言語学や古代史を学び、夜は禁書庫に籠もって文字の法則を一つ一つパズルのように解読していく。睡眠時間を極限まで削る気の遠くなるような作業の末、ついにその冒頭の一文がはっきりと読めるようになった。


『――魚は水を知らず。人は風を知らず』


『満ちるを知るは、欠けたる器のみ』


 それを読んだ瞬間。

 ドクン、と。僕の心臓が早鐘を打った。

 現代の魔法理論では、魔力とは体内に溜め込み、消費するものとされている。だからこそ、生まれ持った魔力量の数値がその人間の絶対的な価値を決める。

 だが、この本は全く違う真理を語っていた。魔力は個人の内側に宿る小さな火種などではない。この世界そのもの、空間の全てに満ちている莫大な「海」なのだと。


「……魚は、水を知らない」


 僕は震える声で呟いた。

 魔力を持った人間は、自分自身の内側にある魔力が邪魔をして、外側にある莫大な魔力を感じ取ることができない。水の中にいる魚が、水の存在を自覚できないのと同じように。

 だが、体内に魔力が一滴も存在しない、魔力ゼロの僕なら?

 不純物が一切ない『空っぽの器』である僕になら、世界に満ちる魔力に直接干渉できるのではないか?

 僕は黒い古書を抱えるようにして持ち出し、足早に禁書庫を後にした。



 離れの自室に戻った僕は、震える手で窓を大きく開け放った。

 外は激しい夜嵐だった。暴風が木々を大きく揺らし冷たい雨の匂いが部屋の中に吹き込んでくる。


(……掴めるか?)


 僕は空虚な右手を、嵐が吹き荒れる暗い空間へと伸ばした。

 ただ、そこにある透明な空気、世界を満たしている不可視の力を、重たい鉄の塊だと思い込んで、力づくで掴み取ろうとした。

 グッ。

 右手の指を引き絞る。全身の筋肉に力を込める。

 あるはずのない抵抗を、脳に錯覚させる。世界そのものの質量に、真っ向から干渉するイメージ。


「……ぐ、ぬぅぅぅ……っ!!」


 その瞬間だった。

 バチチッ!!

 僕の指先で、空間が悲鳴を上げた。

 吹き荒れていた嵐の音が、ほんのコンマ一秒だけ完全に消失した。

 何かが、確実に引っかかった。まるで、稼働している巨大な鉄の歯車に、素手で指を挟まれたような、圧倒的で暴力的な重量感。

 古代の魔法。空間そのものを我が物とする力

掌握(グラスプ)


「――!?」


 ブチブチッ! と、右腕の筋繊維が断裂する悍ましい音が鳴った。

 ガクンッ。

 次の瞬間、僕は糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちていた。


「がはっ……、はぁっ、はぁっ……!」


 激しい目眩が脳を揺らす。視界が明滅し、鼻からツーッと生温かい血が滴り落ちて、床の絨毯を赤く染めた。

 たった一瞬。ほんの一瞬、空気を掴もうとしただけだ。

 それなのに、全身の筋肉が悲鳴を上げ、毛細血管が破裂し、まるで死ぬ気で三日三晩走り続けた後のように、体力を根こそぎ奪われていた。指先は痙攣し、立ち上がることすらできない。

 でも、僕は笑っていた。

 鼻血で顔を汚しながら、暗い部屋の中で一人、歓喜の笑みを浮かべていた。


「……あった」


 本には、具体的な術式など何も書かれていなかった

 だが、今のたった一度の失敗が、僕に最大の真理を教えてくれた。

 この『古代魔法』を行使するための代償は、魔力ではない。

 世界そのものの質量をねじ伏せるための、己の生命力。スタミナ。そして、圧倒的な負荷に耐えうるだけの『強靭な器』なのだ。

 五歳の、この貧弱な身体では、魔法を本格的に行使する前に負荷で自滅してしまう。

 なら、どうする?

 

 答えは単純だ。


「……作るしか、ない」


 僕は血まみれの口元を拭い、痙攣する足に無理やり力を込めて、よろりと立ち上がった。

 最強の器を。

 世界の重さに負けない、鋼鉄の肉体を。



 翌日から、僕のガザ師匠への態度は明らかに常軌を逸し始めた。

「ほらほらどうしたクソガキ! 足が止まってるぜ! 『獄ノ流』は立ち止まった瞬間が死だと言ったはずだァ!」

 修練場の裏手にある、険しい岩山。

 僕は自分の体重よりも重い巨大な岩を背負わされ、急勾配の山道を這いつくばるようにして登っていた。

 ガザ師匠が後ろから容赦なく木剣で僕の尻や太ももを打ち据える。


「がっ……! ぐぅぅ……っ!」


 五歳の細い腕は悲鳴を上げ、皮膚は擦り切れて血が滲んでいる。全身の筋肉が断裂しそうなほど痛み、肺は酸素を求めてひゅーひゅーと悲鳴を上げている。汗が目に入り、視界は泥と血で濁っていた。

 並の大人でも三日で逃げ出す地獄の特訓。


「もう限界だろ? 岩を捨てろ。今日のところはこれで」


「……ま、だです……!」


 岩を捨てようとしたガザ師匠の言葉を遮り、僕は岩を背負う手にさらに力を込めた。指の爪が剥がれそうになっても、泥に食い込ませて決して離さない。


「もっと……岩を、増やしてください……。こんな重さじゃ、足りない……っ!」


「あぁ!?」


 ガザ師匠は目を丸くした。

 狂っている。五歳の子供が、自ら進んで死の淵へ飛び込もうとしているのだから。

 だが、僕にとっては必然だった。

 あの『掌握(グラスプ)』のたった一瞬の反動。あの世界から圧し潰されるような重圧に比べれば、この岩の重さなど、まだ児戯に等しい。

 もっとだ。もっと負荷をかけろ。筋肉の繊維を一度ズタズタに引き裂き、より強靭な鋼へと作り変えるんだ。

 ガザ師匠は「こいつは獄ノ流を極めるために死に物狂いになっている」と思っているだろうが、違う。僕は同時に、魔法を殺すための剣と、古代魔法を行使するための器、その両方を鍛え上げているのだ。


「……はっ。マジでイカれてやがるぜ、このガキ」


 ガザ師匠は呆れたように頭を掻いた後、獰猛な笑みを浮かべて、僕の背負う岩の上にさらに別の岩をドンッと乗せた。


「ぐおっ……!」


「言っておくが、俺は手加減なんて言葉は知らねぇぞ! 死にたくなきゃ、その足で地面を掴んで這い上がれ!!」


「はいっ!!」


 僕は食い縛った歯から血を滲ませながら、ただひたすらに、前へ、上へと足を踏み出し続けた。

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