6話.一冊の本
ガザ師匠との地獄のような修行が始まってから、一年が経過した。
六歳になった僕の毎日は、秒単位で削られるような過酷なスケジュールの連続だった。
早朝から昼までは、グスタフ先生による徹底的な座学。
他国の言語、複雑な歴史体系、地形学に経済学。六歳の脳髄に、血を吐くような思いで叩き込んでいく。
そして午後からは、ガザ師匠による『獄ノ流』の修練。
木剣での打ち合いなどという生易しいものではない殺意を込めた拳や蹴りを躱し、わずかな重心のブレから次の一手を読み合う。毎日全身の骨が軋み、痣だらけになりながら、僕は泥水をすするようにして先を読み取る感覚を身体に刻み込んでいた。
だが、その二つの特訓を続けるうちに、僕の中にひとつの明確な「壁」が立ちはだかった。
(……足りない)
深夜。離れの自室でランプの灯りを頼りに、僕は一人、分厚い書物を睨みつけていた。
広げているのは、歴史書でも経済学の専門書でもない。
『現代魔法陣構築理論』――つまり、魔法の専門書だった。
ガザ師匠の『獄ノ流』は、相手の動きを先読みしてカウンターを叩き込む暗殺剣だ。
相手が剣士であれば、筋肉の収縮や視線で次の一手を予測できる。しかし、相手が魔術師だった場合はどうだ?
彼らは杖を振り、あるいは指先を向けるだけで、不可視の魔力を炎や氷に変換して放ってくる。その「魔法が発動する兆候」を完璧に読み切れなければ、僕は近づくことすらできずに消し炭にされる。
だから僕は、一人で密かに「魔法」の勉強を始めたのだ。
自分が魔法を使うためではない。魔法陣の構造、詠唱の法則、魔力が体内を巡る経路……それらすべてを知識として脳内に完全インストールし、相手の魔法の「発動タイミング」と「弱点」を論理的に解体するためだ。
それに。
心の奥底の、ほんの僅かな未練ではあるが。
これだけ狂ったように魔法の知識を漁っていればもしかしたら「魔力ゼロの人間でも魔法を使える裏技」みたいなヒントが転がっていないか…という、淡い期待も探していた。
「……やっぱり、ダメか」
僕は重いため息を吐き、本を閉じた。
どの本を読んでも、書かれているのは「魔力ありき」の前提ばかりだ。『魔力を持たない者は、いかなる手段を用いても魔法陣を起動できない』それが、この世界の絶対の真理だった。
王立図書館から取り寄せた魔法書は、すでに全て読み尽くしてしまった。
もっと古い時代の、現代の常識から外れた異端の文献はないか。
そう考えた僕は、ランプを片手に、夜な夜な自分の住む離れの中を探索するようになっていた。
◇
その場所を見つけたのは、本当に偶然だった。
離れの最下層。普段は使用人も寄り付かない、埃を被った地下のワインセラーの奥。そこの壁の一部が、わずかに不自然な空洞音を響かせていたのだ。
隠し扉を開けると、そこには地下深くへと続く、長い長い石造りの階段が口を開けていた。
「なんだ、ここは……」
冷たい空気が頬を撫でる。
階段を下りきった先には、重厚な鉄の扉がそびえ立っていた。
扉の表面には、複雑怪奇な文様――強力な封印の魔法陣が刻み込まれている。
(……結界魔法。それも、王城の宝物庫レベルの超高等術式だ)
僕は目を見張った。
魔法の知識を詰め込んだ僕には分かる。この扉は、少しでも魔力を持つ者が触れれば、その魔力に反応して強烈な電撃を放ち、同時に設定している者に信号を発信するようになっている。
だが、僕はその場に立ち尽くし、ふと自分の手のひらを見つめた。
(魔力を持つ者が触れれば、作動する……?)
ゴクリ、と喉を鳴らす。
僕はゆっくりと手を伸ばし、その結界が張られた鉄の扉に、直接手のひらを押し当てた。
――バチッ、とも鳴らない。
警報も鳴らない。
結界の魔法陣は、僕の手に一切の反応を示さなかった。
当然だ。この結界は「侵入者の魔力」を感知して発動する。だが、僕の体には魔力がただの一滴も存在しないのだから。
皮肉なことに、僕が「欠陥品」であるというその一点のみが、この最強のセキュリティをすり抜ける唯一の鍵だったのだ。
ギィィィィ……ッ。
体重をかけると、分厚い鉄の扉は重い悲鳴を上げて開いた。
隙間からランプの光を向ける。
そこに広がっていたのは、カビと古い紙の匂いが充満する、巨大な空間だった。
壁一面を埋め尽くす本棚。無造作に積み上げられた羊皮紙や古文書の山。
「...これは、、」
僕は震える唇で呟いた。
ここには、何かヒントがある。
直感がそう告げていた。
ここを禁書庫と呼ぶことにした。
◇
翌朝。
僕は自室に、専属メイドのリリアを呼んでいた。
「えっ……? 地下に、隠された書庫……ですか?」
「しっ、声が大きいよリリア」
目を丸くする彼女の口を慌てて塞ぐ。
僕は、昨夜見つけた禁書庫の存在を、リリアにだけ打ち明けた。
父上や母上に言えば、間違いなく「危険だから近づくな」と止められる。セバスに言っても同様だ。だから、この秘密は誰にも言うわけにはいかなかった。
「あの場所には、僕が強くなるための知識がある。僕はこれから、夜の間はあそこに籠もって本を解読したいんだ」
「で、でもアロイス様! そんな勝手なことをして、もし旦那様やセバス様に見つかったら…!」
「だから、君にお願いしたいんだ」
僕は、リリアの真っ直ぐな瞳を正面から見つめた。
「僕が地下にいる間、僕が部屋で寝ているように偽装してほしい。それに、夜食やランプの油もこっそり運んでほしいんだ。見つかれば、君も同罪として重い罰を受けることになる。だから、嫌なら断ってくれて構わない」
それは、ただのメイドに対する重すぎる要求だった
だから、無理はさせられない。
リリアはしばらく黙り込み、きゅっとエプロンの裾を握りしめた。
そして。
「……罰なんて、怖くありません」
顔を上げた彼女の瞳には、怯えなど微塵もなかった
あるのは、僕に対する絶対的な忠誠と、少しばかりの誇らしげな光。
「私は、アロイス様の専属メイドです。アロイス様が強くなるために必要だと言うのなら、旦那様だろうとセバス様だろうと、私が全力で誤魔化してみせます!」
「リリア……」
「それに! 私だけがアロイス様の秘密を知っているなんて、なんだか特別な『共犯者』みたいで、少しワクワクしますし!」
えへへ、と笑う彼女の顔を見て、僕は思わず毒気を抜かれて吹き出してしまった。
本当に、僕にはもったいないくらいのお人好しで、頼りになるメイドだ。
「ありがとう、リリア。恩に着るよ」
「はいっ! お任せください、相棒!」
こうして、僕とリリアの秘密の作戦が始まった。
夜が更け、屋敷が寝静まった後。リリアに見張りを任せ、僕はランプを片手に、再びあの冷たい地下階段を下りていった。
結界をすり抜け、重い鉄の扉を開く。
広大な禁書庫の中を、一つ一つ本棚を漁り、未知の知識を求めて奥へ奥へと進んでいく。
そして。
部屋の最奥。まるで他のガラクタたちから隔離されるように置かれた、黒い台座の前に辿り着いた。
「……なんだ、これ」
そこに安置されていたのは、厳重な鉄の鎖でぐるぐる巻きにされた、一冊の分厚い魔導書だった。
表紙の革はひび割れ、不気味なほどの漆黒。
タイトルには、古語でこう刻まれている。
――『原初への回帰』
僕は、吸い寄せられるように、その黒い魔導書へと手を伸ばした。




