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5話.隻眼の鬼人

イニティウム公爵邸の裏手には、騎士団の一個中隊が訓練できるほど広大な修練場がある。

 普段は屋敷の護衛を担う私兵たちが汗を流す場所だが、今日ばかりは彼らの姿は一人もなく、異様な静寂に包まれていた。

 その修練場の中央。

 木箱の上にどっかりと腰を下ろし、退屈そうに空を眺めている一人の男がいた。

 熊のように分厚い胸板。全身を覆う無数の切り傷や火傷の痕。そして、顔の右半分を斜めに走る醜悪な裂傷が、彼の潜り抜けてきた死線の数々を物語っている


「……遅ぇな。公爵サマのボンボンは、歩くのにも絨毯が必要なのか?」


 しゃがれた野太い声が、修練場に響いた。

 セバスに案内されて修練場に足を踏み入れた僕は、その男の放つ圧倒的な『死の匂い』に、思わず息を呑んだ。


(……この人が、父上の言っていた友人)


 男は僕の姿を視界に収めると、木箱からゆっくりと立ち上がった。

 背丈は優に二メートルを超えている。見下ろしてくるその隻眼には、王国の最高権力者である公爵家の嫡男に対する敬意など微塵もなかった。


「お前が、魔力ゼロの欠陥品か。俺はガザだ。昔、お前の親父殿と一緒に戦場で少しばかり暴れ回った縁で呼ばれたが……ふん。ただのヒョロガキじゃねぇか」


 ガザは値踏みするように僕を鼻で笑った。


「五歳とはいえ、公爵家の血を引くガキならもう少し骨があるかと思ったが……魔力がねぇってのは、本当に空っぽなんだな。命の灯火が今にも消えそうな小動物みたいだぜ」


 その挑発的な言葉にも、僕は表情を変えずに真っ直ぐ彼の目を見返した。

 怯える理由がない。僕に向けられる悪意や嘲笑などとうの昔に慣れきっている。


「アロイス・イニティウムです。ガザ師匠、本日からよろしくお願いいたします」


 僕が深く頭を下げると、ガザは「師匠だと?」と面白そうに顔を歪めた。


「ガキ、勘違いするなよ。俺はまだ、お前に剣を教えるとは一言も言ってねぇ。親父殿の頼みだから面くらいは拝んでやったが、俺が教えるのは生き残るための殺し合いだ。魔力ゼロの欠陥品のお遊戯に付き合う暇はねぇんだよ」


 ガザは足元に転がっていた木剣を足の甲で跳ね上げ無造作に僕の足元へ放り投げた。

 カラン、と乾いた音が鳴る。


「いいか、ガキ。この世界において、剣術ってのは魔力による身体強化(ブースト)があって初めて成立するもんだ。魔力で筋肉の限界を突破し、骨を鋼のように硬くする。そうしなけりゃ、魔術師の放つ炎や氷に近づく前に炭の塊になるだけだからな」


「……」


「お前にはその魔力がない。つまり、お前がいくら剣の型を覚えようが、それはただの舞踊だ。実戦じゃあ、下級の魔術師にすら手も足も出ずに殺される。親父殿に泣きついて、大人しく屋敷の中で絵本でも読んでな」


 それは、紛れもないこの世界の真理だった。

 魔力による防御壁と身体強化。それがあるからこそ魔法剣士や騎士は恐るべき力を発揮する。純粋な肉体の力だけで魔術師に挑むなど、自殺行為以外の何物でもない。

 だが。


「…舞踊かどうかは、試してみないと分からないのでは?」


 僕は足元に転がった木剣を拾い上げ、両手でしっかりと握りしめた。

 五歳の小さな体には、ただの木剣すらずっしりと重い。だが、構えた刃の先は、寸分の狂いもなくガザの胸元を捉えていた。


「ほう?」


 ガザの目が、獰猛な獣のように細められた。


「一丁前な口を叩くじゃねぇか。いいぜ。その木剣で俺の体に一撃でもかすらせてみろ。もしできたら、俺の持てる全ての技術を叩き込んでやる」


「……いきます」


 僕は地面を蹴った。

 相手は歴戦の猛者。小細工など通用しない。

 持てる全ての力を振り絞り、木剣を上段から振り下ろす――。

 ゴッ!!!


「――がっ!?」


 次の瞬間、僕の体は宙を舞っていた。

 肺から空気が強制的に吐き出され、視界がぐるぐると回転する。地面に叩きつけられ、全身の骨が軋むような激痛が走った。


「……はっ。遅すぎてあくびが出るぜ」


 ガザは一歩も動いていなかった。

 ただ、僕の木剣が届くよりも早く、彼の放った裏拳が僕の腹部を捉えていたのだ。

 手加減はされているだろうが、五歳の子供が受けていい衝撃ではない。口の中に鉄の味が広がり、呼吸がうまくできない。


(痛い……息が……)


 視界が明滅する。普通の子供なら、ここで泣き叫んで気絶しているだろう。

 だが、僕の脳裏に浮かんだのは、この痛みよりも遥かに恐ろしい未来だった。

 あの魔力測定の儀式で向けられた、貴族たちの悪意に満ちた視線。

 もし僕がここで折れれば、あの悪意が、優しい両親や、無垢な妹のセナに向けられる。


「痛ぇか? だったら大人しく――」


 ガザが背を向けようとした、その時。


「……ま、だ」


 僕は、震える足に無理やり力を込め、木剣を杖代わりにして立ち上がった。

 口から血を流し、膝をガクガクと震わせながらも、僕の両目は決してガザから逸らされてはいなかった。


「まだ……かすらせて、いませんよ……」


 再び木剣を構える。

 その瞬間、修練場の空気が変わった。

 ピタリ、と。ガザの足が止まり、彼は振り返って僕の顔をまじまじと見つめた。


「…お前、泣いてねぇのか。あの親父殿でさえ、初めて俺の拳を食らった時は涙目になってたってのによ」


 ガザの隻眼が見開かれる。

 そこに映っていたのは、五歳の子供の脆さではない

 己の命を削ってでも目的を果たそうとする、狂気にも似た「戦士の目」だった。


「……くっ、くくくっ!」


 やがて、ガザの喉の奥から、低く震えるような笑い声が漏れ出した。

 それは次第に大きくなり、修練場に響き渡る豪快な哄笑へと変わった。


「はーっはっはっは!! 傑作だ! なんだこのガキは! 魔力がゼロの空っぽな欠陥品だって聞いてたが、とんでもねぇ! 中にはギッシリとバケモノが詰まってやがる!!」


 ガザは腹を抱えて笑った後、ふと真顔に戻り、鋭い牙を剥き出しにして嗤った。


「……合格だ、クソガキ。お前のその目、気に入ったぜ」


 ガザは自身の腰に提げていた木剣を引き抜き、僕の目の前でドスリと地面に突き立てた。


「いいか、よく聞け。俺がお前に教えるのは、騎士気取りの綺麗な剣術じゃねぇ。魔力を持たねぇ泥這い虫が、空を飛ぶ魔術師の首を刈り取るための、理不尽で、泥臭くて、反吐が出るほど過酷な殺人剣だ。

 ――その名を、『獄ノ流(ごくのりゅう)』」


 獄ノ流。

 その禍々しい響きに、僕は血の混じった唾を飲み込んだ。


「相手の魔法陣の僅かな揺らぎから魔法を予測し、攻撃の軌道を読み切り、最小限の動きで死線を躱し、相手の喉笛を食いちぎる。…魔力がねぇなら、相手の全てを先読みして後の先を取るしかねぇからな」


 ガザは獰猛に笑う。


「地獄を見るぜ、アロイス。明日から、お前が血反吐を吐いて親の顔を忘れるまで、俺が徹底的に死の淵を歩かせてやる。覚悟はできてるな?」


 全身の痛みは限界だった。

 だが、僕の心は、かつてないほどに高揚していた。

 魔法を殺すための剣。理不尽を叩き斬るための技。

 まさに、僕が求めていたものそのものだった。


「……望むところです、師匠」


 僕は口元の血を拭い、ニヤリと笑い返した。

 こうして、魔力絶対零度の欠陥品と、隻眼の狂暴な師による、血を吐くような『獄ノ流』の地獄の修行が幕を開けたのである。

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