4話.勉強
父に頼んですぐのこと。
僕の生活の拠点は、本邸の豪奢な自室から、敷地の隅にある古びた離れへと移されていた。
理由は明確だ。
「欠陥品がウロウロしていては、イニティウム家の名折れだ」
「いずれ産まれたばかりのセナ様にも悪影響を及ぼす」
という親族たちの執拗な声である。
父クロノと母シャーロットは猛反発したが、僕は自らこの離れへの移動を願い出た。僕が表舞台から姿を消すことで、愛する両親や可愛い妹に降りかかる悪意の火の粉を減らせるなら、それが一番だったからだ。
それに、誰の目も気にせず「己を鍛え上げる」にはこの隔離された環境は最適だった。
「アロイス様! 朝です、起きてくださいませ!」
バタバタと騒がしい足音と共に、勢いよく寝室の扉が開けられた。
飛び込んできたのは、僕の専属世話係であるメイドの少女、リリアだ。年は十五歳。艶のある栗色の髪をすっきりとまとめ、パッチリとした大きな瞳が印象的な、愛嬌のある顔立ちをしている。
僕が欠陥品と蔑まれるようになってから、ほとんどの使用人が僕を避けるようになった中、彼女だけは自ら志願して僕の専属になってくれた変わり者だ。
「おはよう、リリア。今日も元気だね」
「はいっ! アロイス様のために、今日は厨房の料理長と戦って、焼き立ての一番美味しいパンと特製の温かいスープを勝ち取ってまいりました!」
リリアは誇らしげに盆を掲げた。エプロンが少し小麦粉で汚れているところを見ると、本当に厨房で一悶着あったらしい。
「……また他のメイドたちと喧嘩したのかい?」
「喧嘩だなんて滅相もない! アロイス様の悪口をコソコソ言っていた嫌味なメイドの足を踏んづけて、料理長の背中をバンバン叩いて気合を入れ直してさしあげただけです!」
「それを世間では喧嘩って言うんだよ」
呆れながらも、僕は自然と笑みをこぼしていた。
イニティウム家の長男である僕がこの先どうなるか分からないのに、彼女はそんな打算など一切なく、ただ純粋に僕を慕ってくれている。
「さあ、お召し替えを! 今日も王立学園からお招きした、グスタフ先生の授業が控えておりますよ!」
◇
朝食を終えた僕は、離れの一室に設けられた書斎で分厚い書物の山と格闘していた。
向かいの席に座る白髭の老学者、グスタフ先生は、僕が書き上げた羊皮紙の束を震える手で持ち上げ、文字通り絶句していた。
「……信じられん」
グスタフ先生は眼鏡を外し、深い溜め息を吐いた。
「わずか一ヶ月。たった一ヶ月で、大陸の歴史、地理、そして高等数学を網羅し、あろうことか我が国の税収バランスの欠陥と、隣国との国境地帯における経済的解決案まで完璧にまとめ上げるとは……。五歳の子供の頭脳ではありませんぞ」
僕が父にお願いしたのは魔法以外のすべてを身につけることだ。
僕が徹底的に頭に叩き込んでいるのは、為政者としての『帝王学』、国家を動かす『経済と数学』、そして地の利と戦術を知るための『歴史と地理』である。
前世の記憶を持たない純粋な五歳の子供なら、とうてい理解できない領域だろう。だが、生まれた直後から英雄の再来として大人たちの異常な期待と重圧に晒され続け、常に彼らの顔色を窺い、思考をフル回転させて生きてきた僕の脳は、スポンジのようにあらゆる知識を吸収することができた。
「恐縮です、先生。ですが、魔法が使えない僕にとっては、これくらいしか武器になりませんから」
僕は淡々と答えた。
魔法至上主義のこの国では、どれほど政治や経済に明るかろうと、魔力がなければまともな地位には就けない。だが、知は力だ。魔法使いどもが「魔力」という暴力に胡座をかいている間に、僕は世界の構造そのものを知識で解体し、盤上を支配する術を身につける
「武器、ですか。……アロイス様。正直、私は噂を聞いて最初は同情いたしました。最高峰の公爵家に生まれながら、なんと残酷な運命かと」
グスタフ先生は真剣な眼差しで僕を見つめた。
「ですが、魔力がないからこそあなたのこの恐るべき知性が研ぎ澄まされた。もしあなたに魔法の才能があれば、間違いなく歴史に名を残す偉大な為政者になっていたはずです」
「買い被りですよ。それに、歴史に名を残す方法は一つじゃない」
「ふふ、違いありませんな。」
コンコン、と静かに書斎の扉が叩かれた。
「失礼いたします、坊ちゃん。グスタフ先生。少し休憩になさいませんか」
音もなく部屋に入ってきたのは、真っ白な髪をオールバックに撫でつけた初老の男。イニティウム公爵家の家令であり、父の右腕でもある執事のセバスだ。
一寸の狂いもなく仕立てられた燕尾服を身に纏う彼は、流れるような所作でティーセットを準備し、香り高い紅茶を注いだ。
「おお、セバス殿。ちょうど良いところです。私の頭の方が、アロイス様の質問攻めに悲鳴を上げていたところですからな」
「それは重畳。坊ちゃんのために、頭分を補給できる甘い茶菓子をお持ちしました。リリアが腕によりをかけて焼いたクッキーでございます」
このセバスという男は、底が知れない。
彼がどれほどの魔力を持っているのかは不明だが、時折見せるその身のこなしは、熟練の暗殺者すら凌ぐほどの気配の無さだった。僕が「欠陥品」として扱われるようになっても、彼の僕に対する態度は、生まれた日から何一つ変わっていない。
「ありがとう、セバス」
「とんでもございません。……坊ちゃん。最近は夜遅くまで、他国の軍事史や地形学の研究に没頭されているようですね。リリアが『坊ちゃんが寝てくださらない』と半泣きで訴えてきましたよ」
「……あいつ、言いつけたな」
僕が苦笑すると、セバスも優しげに目を細めた。
しかし、次の瞬間。彼の纏う空気が、ふっと鋭く研ぎ澄まされたものに変わった。
「知識は、確かな武器になります。無知な魔法使いが力任せに放つ魔法など、坊ちゃんの頭脳ならば地形や戦術で未然に封殺することも可能でしょう」
「セバス……?」
「ですが、坊ちゃん。盤上を支配する頭脳があっても、いざ理不尽な力が目の前に迫った時、それを叩き斬るだけの肉体と技術が伴わなければ、大切なものを守り抜くことはできません」
セバスは、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
彼は、僕がなぜこれほどまでに狂ったように知識を貪っているのか、全てを見透かしている。
愛する家族を、妹を、そして自分を慕ってくれる者たちを守るため。その覚悟を、この老執事は静かに試しているのだ。
「…分かっているよ。だからこそ、父上にお願いしたんだ」
僕の迷いのない答えを聞いて、セバスは満足そうに深く一礼した。
「ええ。旦那様も、坊ちゃんのその瞳をご覧になって決断されたのでしょう。……坊ちゃん。旦那様がお呼びした『武の師』が、先ほど本邸に到着なさいました」
その言葉に、僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「あの旦那様が、全幅の信頼を置いて坊ちゃんを預ける男です。口は悪く、指導は地獄のように厳しいと評判ですがアロイス様でしたら心配ないでしょう」
セバスが差し出した紅茶を、僕は一息に飲み干した
ついに始まるのだ。
絶対的な魔力という理不尽を、真っ向からへし折るための、血を吐くような地獄の日々が。
「行こう、セバス。待たせるわけにはいかない」
「かしこまりました」
僕は椅子から立ち上がり、書斎を後にした。




