失望と共感
ネラの胸に、静かな波が立っていた。
「先生」。
その一言が、男の口から零れた瞬間、彼女の心に二つの影が浮かんだ。
魔法学校の先生。
師匠のような存在。
前者は、整った教室と古い書物の匂い。
後者は、戦いの匂いと、血のような熱を帯びた影。
この目の前の男からは、後者のイメージが強く漂う。
肩まで戦いに浸かり、風のように自由で、しかしどこか孤独を纏った男。
魔法学校などという、整然とした世界とは縁遠い。
しかし、それなら「論文」という言葉が、ぴたりと合わない。
論文とは、体系化された知識を、権威の場に並べ立てるもの。
戦いを好む男の「先生」が、そんなものに携わるだろうか。
ネラの表情が、強張る。
「論文……? まさか、私の研究も……?」
震えた声を出す。
だが、これは怯えの演技。
彼女の心の奥底では、本物の好奇心と警戒が混じり合っている。
だがこの男の言葉の向こうに、何が隠されているのか。
考えていても、答えは出ない。
これはそれを、探る為の言葉。
彼女は静かに、怯えた孤独な魔女の姿を装い、男の次の言葉を待った。
男は軽く笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「……なんだ、そういうのに興味あるのか? 自分の発見を論文にして、学会と喧嘩したいって思いはアンタにもあるのか?」
「学会」。
ネラの胸に、微かな失望が広がった。
この男の「先生」とは魔法学校の系譜に連なる者だったようだ。
彼はそれなりの人脈を持っている。
しかし、同時に――小さな世界だと感じた。
ーー論文
ーー学会
そんなものに価値を置く世界。
自分の追求するのは、真実そのものだ。
権威や地位、誰かに認められることなどには、興味はない。
ただ、軽んじられた研究を、誰にも否定できない形で突きつけるだけ。
それが、彼女の蒼い炎だった。
ネラは冷たい笑みを浮かべた。
「ふふ……学会なんて興味ないわ。ただ、私の研究を軽んじる者たちに、真実を突きつけたいだけよ」
言葉は、無意識に漏れた。
だが、男は当たり前のように受け止めた。
「真実を突きつけるって事は学会の連中がぐうの音も出ないような理論を出すって事だろ?」
彼の敵意を感じる。
自分と同じ、権威や地位を求めている者に対する敵意。
ネラは沈黙した。
風の音だけが、二人の間に流れる。
この男も、また違うのか?
彼女と同じ、真実の追求者なのか?
胸の奥で、蒼い炎が静かに揺れた。
答えは、まだわからない。
ならば、試すしかない。
「そうよ。彼らの理論は全て、私の研究の前では子供の戯言に過ぎないわ。見せてあげましょうか?」
ネラはゆっくりと背を向け、研究室へと歩みを進めた。
振り返らない。
男がついてくることは、わかりきっていた。
彼はそういう選択をする男だ。
男の声が、背後から穏やかに響いた。
「是非とも見せて貰いたい。俺の知識力は証明されてるはずだ。わかる部分でより深い理論化してやるよ」
ネラは歩みを止めず、言葉を紡ぐ。
「私の『生命の根源』についての理論を見せてあげるわ。これが、彼らの常識を覆す真実よ」
振り返らない。
確認する必要はない。
男は彼女の背を追い、歩みを合わせる。
二人は、森の奥深くへと進む。
木々の影が長く伸び、二人の足元に絡みつくように。
男の声が、再び穏やかに続いた。
「生命の根源……いいテーマだな。」
ネラの唇に、微かな微笑みが浮かんだ。
このやり取りは、静かだが、決して穏やかではない。
互いの深淵を覗き合い。
そして、彼女は気づき始めていた。
この深淵の覗き合いを、自分は心から楽しみ始めていることに。




