森の奥の魔女
深い森の底、陽光が届かぬほどに木々が重なり合う場所で、空気は常に湿り気を帯び、葉ずれの音だけが永遠に響いていた。
苔むした石の台座に腰掛けた女は、赤い瞳を細め、開かれた魔法の書に指を滑らせていた。ページの端は古びて黄ばみ、インクの匂いが微かに立ち上る。彼女の名はネラ。世に言う「変わり者」の一人。
森は彼女の領域であり、領域は彼女の沈黙だった。
そこへ、木々の間を縫うように一人の男が現れた。
黒い外套が影のように揺れ、肩には鮮やかな緑を基調に赤の炎のような輝きを散らした鳥が静かに羽を畳み、足元には闇を凝縮したような巨大な黒犬が寄り添う。
男の歩みは軽やかで、しかし森の静けさを乱すことなく、まるで風そのものが形を成したかのようだった。
「あんたがネラってヤツか? なぁ〜んか森の奥で研究してる変わり者がいるって聞いたんだよ」
声は低く、どこか楽しげに響いた。男はニヤリと口角を上げた。黒犬が低く鼻を鳴らし、鳥が首を傾げる。
ネラはゆっくりと顔を上げた。赤い瞳が、冷たい湖面のように男を映す。
「……無断で私の領域に入り込むとは。その黒い犬と鳥も、あなたも、焼き尽くしましょうか?」
言葉は静かだったが、その底に潜む蒼い炎は、森の空気をわずかに冷たく焦がした。魔力が微かに渦を巻き、木の葉が一瞬だけ震えた。
男は動じず、むしろ愉悦を深めた笑みを浮かべた。
「うん、なるほど……ただの脅しだな。本気で領域に入りこまれてムカつくのなら、即座に焼き尽くしてるはずだ……心の何処かで、てめぇの研究の新しい何かが掴めるとか思ってるんじゃねぇか?」
一瞬、ネラの赤い瞳が揺らぐ。
それは、湖面に石が落ちたような小さな波紋。彼女の心の奥底で、何かが静かに動き出した。
「……見抜かれたようね。でも、あなたの持つ魔力……興味深いわ。少しだけ、話を聞かせて?」
男は肩をすくめ、黒犬の頭を軽く撫でた。犬は目を細め、満足げに喉を鳴らす。
「勿論、聞かせる事は出来る。ただし、一つ条件がある……俺が一つ何かを教えたら、あんたも俺に何かを一つ教えろ……」
ネラは魔法の書を静かに閉じた。古い革の表紙が、ぱたりと音を立てる。
彼女の唇に、初めての微笑みが浮かんだ。それは、長い孤独の果てに咲いた、儚くも美しい花のようだった。
「ふふ……面白い提案ね。いいでしょう。知識の交換……それも悪くないわ。何を教えてくれるの?」
森の空気が、わずかに変わった。
木々の隙間から差し込む光が、二人の影を長く伸ばし、鳥が小さく羽を震わせた。
ここから、互いの魂の深淵を覗き合う長い対話が始まろうとしていた。
禁忌の淵に立つ者同士が、初めて言葉を交わす瞬間――それは、静かなる嵐の予兆でもあった。




