前編
皇太子殿下との面談で貴族らしからぬ言動をしたのには訳があった。だってあの人、初めから「まだ縁談が進んでいないのだってね。よければ僕の友人を紹介しても?」なんて言うのだ。当たり障りなくご辞退申し上げたかった。
皇太子殿下のご友人とか、本当に無理。私は一応転生者である自認がありますが、チート能力も何もない田舎子爵家の小娘なんです。魔力が爆発的に増えたそうなんですが、まったく使いこなせていません。だって指摘されるまで無自覚だったくらいなんです。魔法なんて基礎の基礎しか使えません。だから皇太子殿下のご友人なんて次期政権トップ陣に食い込みそうな人の妻になんてなれません。許してください、お願いします。頑張って自分で良縁掴みとって帝国の利になる結婚をしますので後生ですから。……そんな気持ちで乗り切った面談だった。
帰ってからあれは本当に正しかったのかとひどく落ち込んだし、むしろやっぱり駄目だったのではないかと後悔したがもうやってしまったのだからと開き直るしかなかった。
それに、耳かきは実際できればさせてほしかった。するのもされるのも好きだ。溜まるのが早くて外耳炎になりにくい人がいい。まあ、当然家同士のあれそれが重要だ。その上でもしできれば、という話で。
この国には元々耳かきなんて文化はない。そもそも耳垢というものは自然と排出される構造をしているのだそうだ。それは前世の知識で知っている。しかしそれでも私は耳かきがしたかったので、子爵家の職人に耳かき棒を作ってもらいまず父に試した。そして母と弟にもやった。……自浄作用が正常で健康な家族の耳垢は少なめでそれは残念だったけれど、耳かき自体は気に入ってくれたらしく子爵家では数ヶ月に一回の行事になっていた。医師と相談の上で決まったことなので、安心してほしい。
と、まあ、話が脱線してしまったが、あんなに害はなさそうであるが頭のおかしい女の演技をしたのだ。皇太子殿下はもう当分絡んでこないだろう。……そう思った時期が、私にもありました。
「み、耳に棒を突っ込むだと!?」
そう大きな声を上げたのは、ヴァル・ヴェリタ公爵令息だ。御年二十一歳になるこの貴公子は既にヴェリタ家所有の伯爵位を継いでいるので、正確にはヴェリタ伯爵である。そんな彼は現在皇太子殿下の側近の一人として働いており、間違いなく次期政権トップ陣の一人だった。そんな大物から突然「明日訪問いたします」と連絡が来た時には失神しかけた。
どうしてですか、殿下。どうしてよりによって、こんなすごい人を送り込んでくるんですか。聞けば、ヴェリタ伯爵と殿下は幼少期からの仲で強固な信頼関係で繋がっているというじゃないですか。それとも実はヴェリタ伯爵のことがめちゃくちゃ嫌いで、嫌がらせの為に私をけしかけたんですか。だとしたら性格悪いとかそんな単純な話では済まないですよ……!?
などと心の中で何も言わないイマジナリー殿下につらつら文句を言いつつ必死で準備し迎えた今日、弾みようのない会話の中で「ミミカキとは何のことだ」と聞かれたので説明をするとさっきの大声を出されたという訳だ。
「いえ、怖がっている方に無理矢理なんてしませんわ」
「馬鹿にするな! 怖がってなどいるものか!」
「強がるのはやめたほうがいいですよ」
皇族の方々と違い若干激情家っぽいヴェリタ伯爵に、私は早々に素を出した。なんかもう疲れたのだ。悪評が流れるなら、もうそれはそれでいいかもしれないと思うくらいには疲れていた。だって帝都に来てからずっと緊張してお勉強して緊張してお茶会行って緊張して緊張して緊張して。……田舎に帰りたかった。せめて犬飼いたい。
厚遇を受けている。これは間違いない事実で、私はそれに応えるべきだ。皇帝陛下にだって脅された訳じゃない、私が勝手に怖がっているだけ。皇太子殿下も縁談を勧めてくれただけで、何の落ち度もない。ただ、あんまりにも急に日常が変わってしまって、心が追いつかないのだ。せめて何か仕事があれば自己の確立や自尊心も守れたかもしれないが、今の私には本当に何もない。ただ連れて来れられて「結婚しろ」と命令されて、貴族なんだからそれが仕事だと言われてしまえばそれまでなのだから従うほかはないのだけれど、疲れてしまった。
しかし目の前の美丈夫は予想に反して「帰る」とは言ってくれなかった。それどころか「やってみろ」と言うのである。
「えー……。じゃあ、痛かったら言ってくださいね」
「……分かった。すぐ言う」
ここまで言うのであれば仕方がないと、私は自身の膝の上に頭を乗せるよう指示した。そこでヴェリタ伯爵は一瞬ためらったものの、自分から申し出た手前引くに引けず言われた通りに横になる。関係のない話であるが、顔がいい人は横になっても崩れないなと僅かな嫉妬を覚えた。
ちなみに今日、侯爵邸には私のほかに家族はいない。義父は城に呼ばれていたし義母はお茶会だ。義兄たちはとっくに各々領地に戻っている。それらの予定は以前から決まっていたことなので私だけでヴェリタ伯爵のお相手をしているのだ。一応出発を遅らせてくれた義両親とヴェリタ伯爵は挨拶をしていたが、元々知った仲らしく和やかな雰囲気ではあった。でも、私が一人になる日に来るあたり常識はなさそうである。……いや、あちらも皇太子殿下からのご命令で多忙の中、どうしても来なければならなかったのかもしれないしこれ以上の愚痴はやめておこう。
しかしだからこそ応接室には大勢の使用人が控えている。扉は開かれ、窓も開いていた。せっかくの空調魔道具が意味をなしていないが、まあ、寒すぎるという季節でもないのでいいだろう。
「回復薬もありますし魔法使いもいるので大丈夫ですからね」
「く、さっさとしろ」
……人質でも取られて無理矢理ひどいことをされそうになっている人の台詞を吐かないでほしい。失礼すぎる。
耳かき棒を持ち、イライラを抑えられないままでく、と耳を引っ張る。簡単で小さな光魔法を使えばスマホのライトよりも手軽に耳の中がよく見えるから、これに関してはこちらの世界の圧勝だった。……お?
「え、滅茶苦茶溜まってる……。ぎりぎり塞がってないですけど、これで耳って聞こえてるんですか?」
「会話は成立しているだろう」
「それはそうですが……。まあ、じゃあ、やっていきますね」
ヴェリタ伯爵の耳の中はすごいことになっていた。本当にあと少しで塞がりそうなくらいに沢山の耳垢がある。ここまで溜めると聞こえづらそうであるし痒そうだ。そして楽しそうである。……いや、うん、落ち着こう。とにかくまずは手前のところからゆっくりと丁寧にしていくことを決め、私は耳かきを始めた。
「……ぅ」
「え、痛いですか」
「も、問題ない。続けろ」
耳かきのやりすぎは危険だ。耳の病気になってしまう。この世界には治癒魔法というものがあって、魔法使いが医者も兼ねているので外耳炎くらいならすぐに治せてしまうのだが、だからいいという話でもない。
ただの強がりであるなら、本当はここでやめて差し上げるのが正しい。……でも、もう少しやりたい。だってまだ大物がいっぱい残っている。自身の欲望に勝てなかった私は、ほんの僅かな逡巡ののち続行を選択した。
この縁談はなかったことになるのだ。ならばこの人の耳掃除ができるのは今回だけ。それなら最後までさせてもらおう。問題ないと言ったのはヴェリタ伯爵なのだから。
「っはー。いくらでも出てくる。やりがいのあるお耳ですわ……」
「……」
「大丈夫です? 痛くないです?」
「……ああ」
ヴェリタ伯爵の声が溶けている。分かる。耳かきしてもらうのって気持ちいいよね。耳の中でさりさりって音がしているのもいいよね。眠っちゃいそうになるよね。でも本気で寝ないでほしい。頭ががくんってなって棒が突き刺さったらどうしてくれる。
ああ、でもうん、そろそろこっちは終わりそうだ。
「よし、じゃあ次は反対側を」
「まだやるのか」
「え、駄目なんですか……?」
「……まあ、いいだろう」
「ありがとうございますっ。あ、こっちも結構……」
反対側もやり終えたあと、私はふうと息を吐いた。何故だかとても清々しい気分だった。耳から発掘したそれらは、まあ、汚いものではあるのだけれど、これだけやってやったという達成感の象徴でもあるのだ。
「はあ、楽しかったですわ。婚約の話は置いておいて、よければ是非またさせてください」
「……」
「そ、そんな、異常者を見るような目で見なくても……。問題ないって言ったのはヴェリタ伯爵ではないですか。え、やっぱり耳が痛くなりました?」
「それは大丈夫だが、君、こんなことをほかの求婚者にもしているのか」
「ほかのって……。わたくし、縁談を持ってきてくださった方でお会いしたのはヴェリタ伯爵が初めてですのでなんとも」
「……なら、まあいい」
そんな微妙な言葉を残して、ヴェリタ伯爵は帰っていった。
ああ、縁談はまったくどうでもいいがあの耳は惜しい。やっぱり条件に耳を好きにさせてくれる人、という項目を入れるべきだろうか。なんてふざけたことをちょっとだけ考えながら、疲れたからと我儘を言って久しぶりにお昼寝をした。
―――
呑気にお昼寝などしたのが悪かったのだろうか。
「あの、どうして我々の婚約が成立しているのですか?」
ヴェリタ伯爵と会ったその日の夜には義父であるテゾーロ侯爵に「ヴァル・ヴェリタ伯爵に本決まりするけれどいいな?」と聞かれ、素直に「駄目ですが?」と答えたが私の意見は反映されなかった。では何故聞いたのかと問いただしたかったけれど、さすがにそれはやめておいた。侯爵家と公爵家、更には皇族まで絡んできそうな縁組みであるのだ。個人の意見など通る筈もない。
そのあと届いた実父からの手紙はやはり解読が難しかったが、最後には「良縁ではあるけれど、本当に嫌だったらパパが――」で途切れており、そのあとには実母の字で「ヴェリタ伯爵であれば何も心配しなくてよいでしょう。結婚という節目は、特に女の身には変化が多く不安になることもあるでしょうが、結局貴女自身が一から十まで入れ替わる訳でもありません。養子に出ようとお嫁に行こうと貴女はわたくしたちの自慢の娘に変わりありません」と書かれてあり泣きそうになった。
しかしさらにそのあと「これを機に完璧な淑女を目指しなさい。くれぐれも実家にいた頃のように動物の毛にまみれて野山を駆けずり回ったあげく、原っぱで手足を投げだして寝るなんてことはしないように」と釘を刺されて涙は引っ込んだ。母はいつだって正しくて厳しい。
ただ、どうして婚約が決まってしまったのかを本人に聞くくらいは許されるべきだろう。しかし婚約が決まったというのにあれから二週間も顔を出さなかった婚約者殿(仮)は「何を言っているんだ、こいつ」と言わんばかりに顔を顰めた。
「逆に何故成立しないと思った。未婚の令嬢の膝に頭を乗せて、責任を取らないような男だとでも?」
「……そういう話なんです?」
「それ以外の何だというんだ」
それはまあ、一目惚れをされるような顔面は持ち合わせていないのでそちらの方面は除外していたけれど、欠片くらいのロマンスを夢見るくらいは悪いことではない筈だ。あとはもっとややこしい貴族のあれこれがあるかと思っていた。前者はともかく後者はまだ教えてもらえないだけなのかもしれないが、なんとなくもやもやとする。
「なら、お考えを改められたほうがよろしいですよ。わたくしは気にしていませんし、一生を共にするお相手をその程度で選定なさるのはどうかと思います」
「煩い。もう決まったことだ」
「えええ?」
言いながら、やはりそうなのだろうなと納得もしていた。一度決まった婚約が、それも公爵家と侯爵家のそれが簡単に覆ることはない。しかし何なのだろう、この胸のひっかかりは。
お相手は名門ヴェリタ公爵家の一人息子で、まだ二十一歳という若さで伯爵位を継ぐことを許され皇太子殿下の側近を務めている有望株だ。しかも美青年。性格はまだまったく分からないが、こんなに素を見せても怒りださないところを見るに、寛容な人である可能性は高い。つまり、結婚相手としてはこれ以上ない人だ。私はまだ社交界に詳しくないが、おそらくそちらでも引く手あまただろう。
そもそも私の意見でどうこうなるようなものではないのだから、今こそお勉強の成果を見せる時だ。綺麗に見えるように微笑んで「これからよろしくお願いいたします」と言えばいい。それがどうしてもできないのが何故なのか、自分でも分からなかった。
そうやって困り果てた私に、ヴェリタ伯爵はぼそりと何かを呟いた。
「……ミミカキを」
「はい?」
「ミミカキを、してほしいんだ……」
「え、でも、前回からまだ二週間程ですよ?」
「耳の中が痒くて、聞こえが悪くなって、だな……」
それはもうお医者さんに診てもらったほうがいいのでは、と思いつつ好奇心に負けて近寄ってしまう。
「なら、少し見せてもらいますね。……ん? んん?」
「……ど、どうした?」
「結構溜まって……。あー、ヴェリタ伯爵は溜まりやすい人なんですね」
「溜まりやすい……?」
「しかも、定期的に耳掃除をしたほうがいいお耳なんですわ。本来耳垢って自然と出てくるようになっているそうなんですが、稀にそうでない方もいるとか。これはやったほうがいいですね。さっそく始めましょう」
使用人に耳かき棒を持ってきてもらい、準備をし耳掃除を開始する。ちなみに今日も私たちは、使用人はいるけれど二人だけで会っていた。侯爵夫妻は今日もまたお仕事である。以前とは違い、応接室ではなくサンルームにお通ししたがここにもソファがあるので耳掃除は問題なくできた。
「……今まで」
「はい?」
「今までは気にならなかったんだ。しかし一度快適な状態を経験してしまうと……」
「ああ、不快さは一度気になるとずっと不快ですものね」
二週間前と同じようにヴェリタ伯爵の耳を掃除する。さすがに前回より大物は少ないが、それでもかなりの量だ。……楽しい、楽しすぎる。しかし楽しい時間は過ぎるのが早いと相場が決まっているのだ。
すべてやり終えると、やはりとてもすっきりとした気分になった。耳かきはいい。没頭できてストレス発散にもなる。私はその清々しい気分のままで、ヴェリタ伯爵に向き直った。
「正直に申し上げますと、ヴェリタ伯爵の婚約者の座はちょっと荷が重いといいますか、力不足といいますか」
「な、何故だ」
「何故って、ヴェリタ伯爵は次期公爵閣下で領地経営だけでなく殿下の側近をされていているような雲の上の方ですし、婚約者のいないご令嬢たちの憧れの的ですし、わたくしも今は侯爵家の養女にしていただいていますが元はしがない子爵家の娘ですし……」
そうだ、次期公爵夫人は荷が重い。重すぎる。子爵令嬢として生まれた私には無理だと思うのだ。そうか、あのもやもやはこれだったのかと閃いた私は、どうにかヴェリタ伯爵から婚約をなかったことにしてもらえないかと頼むことにした。……したのだが、肝心のヴェリタ伯爵は眉間に皺を寄せて非常に怖い顔をしている。どうしたのだろうか。
「……私の何が気にくわない」
「気にくわない程、ヴェリタ伯爵のことを知りませんわ」
「ぐ……」
「それに、それはヴェリタ伯爵もでしょうに」
「……そんなもの、あとから知っていけばいい。貴族の結婚なんてそんなものだ」
「それはお互いの家に利益がある場合だけでは?」
「十分にある」
そうかなあ、と私は思ったままに首を傾げた。ヴェリタ公爵家とテゾーロ侯爵家は近々で縁を結ばなければならないような事情はなかった筈だ。元々同じ中立派であるから、手を組んだとしても劇的な旨味はない。あったとしても精々派閥内の結束が深まる程度だ。私が知らないだけかもしれないが、何かの共同事業をするなんていうのも聞いていない。
「……うーん、あ、分かりました。では、こうしましょう。ヴェリタ伯爵がこの人と結婚したい、と思えるような女性に耳かきの技術をお伝えしますわ。それでわたくしたちは婚約を解消しましょう」
「何が分かったんだ。それでは私がただのろくでなしだろうが」
「わたくしがいいと言っているのだからいいのです。それに高位貴族なんて、何やってもやっかまれるのですから誤差の範囲ですよ」
「絶対に違うと思うが」
「あ、絶対って言葉は強すぎるからやめたほうがよろしいですわ」
絶対なんて言葉を使って、後々やっぱり違った、できなかったとなると恥をかくのは本人だ。老婆心のお節介だとは自覚しているが、伝えずにはいられない。だって、自分の黒歴史を見ているようなのだもの。しかし私の必死の訴えは響かなかったらしく、ヴェリタ伯爵はやはり微妙な顔をして黙り込むだけだった。
―――
テゾーロ侯爵家の談話室には、ボードゲームに興じる専用の机が置かれている。
「何だかんだと半年も経ってしまいましたよ?」
「そうだな。で、そこに置いていいのか」
「え、あ! あああー! ひどい、ひどいですわ、ヴァル様!」
「他所事を考えているエマが悪いんだろう。待ったなしだぞ」
「うううううう……っ」
「ははっ」
オセロの盤面は、もうほぼ黒一色だ。そして私の持ち色は白。これからひっくり返すことはできないだろう。それを再確認してもう一度ぐうう、と唇を噛みしめればヴァル様はまた笑った。
私はそもそも猫を被っていなかったが、ヴェリタ伯爵もとい、ヴァル様もこの半年で随分と素を出すようになっていた。三回目の面会時に「今後は私のことを名で呼ぶように。私も君を名で呼ぶ」と宣言され、もう拒否するのも面倒だった私がそれを呑んでから我々は名前で呼び合うようになった。
その時点でもうお互い遠慮がなくなっていたのではないだろか。「行くぞ」とだけ言っていきなり舞台に連れて行かれたり、かと思えば観光牧場に連れて行かれたり、王宮のお茶会に急遽参加させられたり……。そのほか様々なところに引っ張り回された半年だった。いや、侯爵家に来ること自体は予告してくれていたし、ヴァル様はずっと紳士だったし何より楽しかったけど。
今日もどこかに行くのかなと思いきや、あいにくの雨で久しぶりにお家デートである。……。まあもうデートでいいだろう。私たちはまだ一応婚約者だから。
「しかし、単純だが奥深いゲームだ。よく思いついたな」
「ううう……。く、はい、まあ、そうですね。あの頃のわたくしは冴えていたのです。今はもうあの冴えはありませんわ。子どもってそういうものなんですよ……」
「そういうものか」
オセロの石を指で弄りながら、そう言うヴァル様から視線を外す。これはいわゆる前世知識だ。チートもなければお金になりそうな役立つ技術も持たない私が、唯一この世界にもたらすことができたのは簡単なボードゲームだった。オセロなんてその最たる例で、白黒の石と正方形の盤さえ作ればまさに老若男女が遊べるものであるから大ヒットを飛ばすことができた。本当にどこの誰でもすぐに作れるようなものであったから大幅な収入増とはならなかったものの、実家もちょっとは潤った。発祥地として二年に一度大会も開催しているが、その時はあのど田舎がそれなりに盛り上がるので楽しい。
しかし、私はその時に気付いたのだ。この世界、私のほかにも転生者いたんじゃないか問題に。
だってこの世界にはトランプにチェスや将棋、囲碁や麻雀なんかのボードゲームが既に存在している。以前の世界と似たような進化を辿っていて、似たようなものを開発した人がいるのかなとも思ったが、それにしては形や名前まで全て一緒であるのも不自然だ。……まあ私、チェスも将棋も囲碁も麻雀も名前を知っているだけでルール知らないんだけれど。
発明や生活水準の歴史なんて覚えてない。ただこの世界、魔法が使えるというのもあるかもしれないが快適すぎるのだ。トイレは基本水洗でシャワーや湯船もちゃんとある。水の浄化装置や水道管などの設備は魔法と前の世界にはなかったファンタジーでよく分からない鉱石やモンスターから採った素材で作られていて、魔道具の保冷庫だってほぼほぼ冷蔵庫だ。エアコンのような魔道具もある。そのおかげで春夏秋冬快適だ。しかもそれらは私の生まれる何年も前からもう存在していた。
それなのに自動車や飛行機はまだその発想すらなさそうだ。弓矢はあるが、銃の概念もない。ああでも、気球はある。ただこの世界の人は魔法で空も飛べるし移動もできるので完全に娯楽用で、移動の為にここからガスを使った飛行船や鉄にエンジンを積んだ飛行機に考えを膨らまそうという人はまだ出てきていなかった。馬車と転移魔法で事足りているというのが大きいのだろう。ちなみにこの世界の転移魔法は固定で、AからB行く、といったように決まった場所から決まった場所への移動しかできない。
ああ話が脱線したが、つまり私の前の転生者たちも自分の分かる分野の知識やアイデアを残しているのではないか、ということだ。私だって転生者なのだから、何もおかしいはなしではない。しかしここで話を戻すが、そうなると私の手札は非常に少ないのだ。だけどせっかく転生したのだから、少しは知識無双っぽいこともしたくなるというもの。
「そうそうそれで、今度耳かきの講習会をすることになりまして」
「講習会?」
「意外とこの国、ヴァル様のように耳垢で困っている方がいるそうですの。でも適当にやるとそれこそ流血沙汰になりますから、まずは医療従事者向けに」
「そうか」
「で、ゆくゆくは免許制にしてお店を出そうかと。まずは侯爵領と子爵領で法整備し、実績を積んでから全国に……」
「……儲かりそうだな」
「うふふ、一枚噛んでいただいても結構ですよ?」
そう、子ども時代にオセロやすごろくなんてものを作ったものの、それらはあまりお金にならなかった。簡単にまねして作れてしまう上に、私には商才がなかったらしい。けれど、高級耳かきサロンなら話は違ってくる。あれは最高の娯楽だ。免許制にしてしまえば事業を独占できる可能性だって高い。貴族用に高級店を平民用に格安店を作って……。
ああ、捕らぬ狸の皮算用はこのくらいにおこう。実際、上手くいくかは分からないのだ。それに、鼓膜を傷つけたり炎症を起こしてしまったりして健康被害なんて出たら大変なことになる。そうなると医療従事者への技術提供くらいで止めておいたほうがいいのかもしれない。実際困っている人は一定数いるようなので、まあ儲からなくても福祉的な観点でよしとしてもいい。
そしてそれはそれとして、今日も耳掃除をしたばかりですっきりしている婚約者様に私は恋バナを持ちかけた。
「で、いないんですか? 結婚したいお相手」
婚約をしてしまってもう半年だ。タイムリミットは刻一刻と迫っている。この半年で私のポンコツ具合は理解しただろうに、ヴァル様はどうにも悠長だった。私がこんなにも心配してあげているというのに、今日だってため息を返してくるくらいだ。
「私には婚約者がいる」
「ううーん……。ねえ、ヴァル様、後悔しません? このままだと本当に結婚しちゃいますよ?」
「エマは、後悔をしそうなのか」
「ヴァル様は口調が乱暴になることもありますが優しいですし、殿下からの覚えも目出度いですし非の打ち所がないですわ。お耳も耳かきのしがいがあって素晴らしいです。ですがやはり次期公爵夫人は荷が重くて……」
「私は」
「はい?」
「君と結婚をする」
その言葉と視線に、息が止まりそうになる。これだからカリスマ性のある意志の強い人間は嫌なんだ。何も考えずに頷きたくなる。けれどこの世界を生きる上で、それが賢い選択でないことくらいは分かるのだ。
「……どうして、そう頑ななのです」
「それは君だろう」
そう言い返されると言葉に詰まる。……結局私は、自分が可愛いだけなのだ。傷は浅いほうがいい。今ならまだ「そうですよね」で済ませられるのだから。
「で、次はどこに行きたい?」
「……牧場」
「ああ、いいな。最近子馬が数頭生まれたそうだぞ」
「え、本当ですか? 見れたらいいなあ……」
「無事に生まれたことを祝して、カフェを新しく作ったらしい」
「祝して……?」
「暫くは子馬目当ての客が増えるだろうから、それを見込んでだろうな。商魂が逞しくていい」
「はあ、すごいですねえ」
「エマがのんびり構えすぎなだけだろう。まあ、こちらとしては都合がいいが」
「ん?」




