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血よりも濃い絆

Ⅰ. 父親の帰還:玄関の戸惑い


春の終わり、長い単身赴任生活を終えた悠斗の父、健一けんいちが家に帰ってきた。

玄関のドアが開いた瞬間、漂ってきたのは、美和が焼いたパンの香ばしい匂いだった。それは、事件前の、平穏だった頃の家の匂いだった。しかし、健一の心は安らぎではなく、戸惑いと緊張で満たされていた。

彼の脳裏には、悠斗が逮捕された時の警察署の冷たい光景、そして、息子が「キラー」というレッテルを貼られたことによる世間の視線の重さが焼き付いていた。彼は、その重圧から逃れるために家を出たのだ。

リビングに入ると、そこには見違えるような光景があった。

悠斗は、かつては無感動な視線で窓の外を眺めていた場所で、妹の栞と一緒に、修理された古い椅子に座り、熱心に模型飛行機を作っていた。悠斗の表情は穏やかで、集中しており、その手つきは優しかった。

栞は、健一の姿を見て一瞬口を固く結び、美和の背中に隠れようとしたが、悠斗がすぐに気づき、穏やかな声で語りかけた。

悠斗 「栞、大丈夫だ。父さんだよ。ほら、見て。父さんが帰ってきたんだ。」

悠斗は、栞の「声のアンカー」として機能していた。栞は、兄の声の安心感のある響きを聞き、ゆっくりと美和の背中から顔を出した。そして、か細いながらも確かな声で、父に向かって言った。

栞 「……おか、えり……」

その小さな、しかし勇気ある声を聞いた瞬間、健一は動けなくなった。彼が逃げた間に、家の中では奇跡のような変化が起きていたのだ。


Ⅱ. 家族の再開:食卓の温もり


その夜の食卓は、静かだったが、以前のような冷たい沈黙ではなかった。食材が焼ける心地よい音と、美和が皿を並べるリズミカルな音が、空間を満たしていた。

悠斗は、事件以来初めて、父親と二人きりで話す機会を持った。二人が向き合ったのは、庭に面した縁側だった。

健一 「悠斗……お前がこんなに変わるとは、思わなかった。俺は、お前を理解することを諦めていた。怖かったんだ。」

健一の言葉は、後悔の重みを帯びていた。彼の目には、悔恨の涙が滲んでいた。

悠斗 「父さん……俺も、父さんが怖かった。俺はいつも、父さんを怒らせないか、母さんを困らせないかばかり考えていた。俺の心は、ずっと氷の中にいたんだ。でも、今は違う。」

悠斗は、自分の手のひらを広げた。

悠斗 「俺は今、人の温もりがわかる。あの時、俺は、感情という辞書を持っていなかった。先生たちに、共感の言葉を一つずつ教えてもらった。あの事件で、俺は人を傷つけた。でも、その痛みを知ることができた。」

悠斗は、事件の動機であった「金を拒否されたから」という冷酷な論理ではなく、他者の痛みを理解する新しい倫理観でもって、自分の過去に向き合っていた。

健一は、息子の言葉の一つ一つに、凍っていた自分の心が溶けていくのを感じた。彼は、悠斗をただの問題児としてではなく、感情を失った被害者として捉え直すことができた。

健一 「悠斗。俺は、お前の逃げ場になるべきだったのに、お前を追い詰めていた。本当にすまない。」

健一は、すすと焦げの匂いが染み付いた悠斗の過去ではなく、目の前にいる暖かな心を持った息子を受け入れた。二人は、固く抱き合った。その抱擁は、父と子の間に再び通い始めた、信頼という名の熱を伴っていた。



Ⅲ. 家族の物語:血よりも濃い絆


サトウ医師から「家族の和解」の報告を受けたカミヤ職員は、悠斗の家族のファイルに、「予後極めて良好」のスタンプを押した。すべてが順調に再構築されている。

しかし、その夜、美和は健一に対し、長年胸の奥に秘めていた真実を告げることを決意した。

美和は、リビングのテーブルの上に、古い戸籍謄本と、一枚の小さな赤ん坊の写真を置いた。美和の手は、極度の緊張で冷たく震えていた。

美和

「健一さん……悠斗と栞について、あなたに話さなければならない、大切なことがあるの。」

健一は、不安を覚えながら、その書類を見た。彼の目線が、戸籍謄本の一行、そして美和の表情を行き来した。

美和

「あの子たち、悠斗と栞は……血の繋がりがないの。少なくとも、あなたと悠斗の間には。」

健一は、耳鳴りがしたかのように、周囲の音が遠のいた。外の夜風が窓を叩く鈍い音だけが、妙に大きく響いた。

美和は、涙を流しながら、断続的に語り始めた。

「悠斗は、私があなたと結婚した後、心身が不安定だった時期に、前の夫と会っていた間にできた子どもなの。私は、その事実をあなたに言えずに、あなたの子どもとして育ててきた。悠斗を育てることは、隠蔽と、彼への罪悪感だった。私は、幼い悠斗の冷たい眼差しに、彼が真実を知っているのではないかと怯え続けていた。」

そして、美和は栞の写真に手を置いた。

「栞は、私とあなたの子どもよ。でも、栞が生まれる数年前、悠斗は既に行為障害の徴候を見せ始めていた。私は、悠斗への罪悪感と自己嫌悪に苛まれ、LPEを持つ彼を心から愛することができなかった。その冷たさ、情緒的なネグレクトが、悠斗をあの事件へと追い詰めた。」

美和の告白は、真実の重さをもって健一の心にのしかかった。悠斗が「キラー」として見られた重圧から逃れたい一心で、美和はその真実を誰にも話せなかった。


Ⅳ. 仰天と真実の絆


健一は、衝撃に打ちのめされながらも、静かに目を閉じた。彼の心には、怒りや裏切りの感情は湧いてこなかった。湧き上がったのは、美和の苦しみへの深い理解と、そして目の前の二人の子どもたちへの、揺るぎない愛情だった。

彼は、静かに目を開け、美和の手を握った。

健一

「そうか……。わかったよ、美和。」

彼の声は、落ち着きと決意に満ちていた。

健一

「俺は、血の繋がりで家族を作ったんじゃない。俺が愛したのは、お前と、そして、お前が守ろうとした悠斗と、栞の四人の家族だ。悠斗の過去の冷たさは、血のせいじゃない。愛されないかもしれないという不安と、お前の罪悪感という壁のせいだ。」

彼は、窓の外に目を向けた。

「俺が知っている悠斗は、人の痛みを理解し、妹の不安を取り除いてやれる、誰よりも優しい兄だ。血の繋がりなんて、彼の努力と、俺たちが積み上げてきた時間の前では、些細なことだ。」

健一は、美和の涙を指で拭い、そっと微笑んだ。

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