第六話:突然スムースに步み出す話*〔後放課後〕
女子生徒(‥‥と俺の精神)を落ち着かせようとしてから、大分時間が経った。
まだ掌を女子生徒の背中に触れさせた儘の俺は、それでも狂って居ない。もとい、辛うじて正気。寧ろ元気‥‥だと良いなと俺は思って居る‥‥。
‥‥流石にもう手を離して良いよね?
背中につけた時と同じ様に、俺はゆっくりと手を離した。
次第に状況に慣れつつあったのもあり、最初の時程俺の精神は動揺して居ない。反って、女子生徒と一緒に落ち着いたからか‥‥若しくはしばらく人間の温もりを感じて居たからか‥‥心に少しの恐怖は残るものの概ね小康状態。
「ごめんなさい‥‥私が悪いばかりに、私の所為で、あなたに‥‥図々しくこういう事させてしまって‥‥」
「大丈夫。人間に助けられて悪い事があるか。ッと‥‥苦しくなって居る人を助けるのは当たり前だ。同級生は同胞なんだからな」
他人に助けられて居る、という事は恵まれて居る事である。そんな本心が喉から殆ど出掛ける。
「それに僕‥‥いや俺も、今まで学校で特に、じょ、人たちとかに凄く、色々‥‥あって‥‥こういう、辛くてどうしようもなくなってしまう事が、何度もあって‥‥。こうなるのは君だけぢゃ無い。普通な事なんだ」
「‥‥うん」
彼女が完全に落ち着くのを待つ間に、多少の自分語りでもしようか‥‥コミュ障ぼっちのこの俺が。これは適切な励ましに‥‥なるだろうか?
それがならないにしても‥‥無性に、自分の事を相手に話したくなった。生まれてからどうもやめられない、スペシャルな俺の悪い癖だ。
「おれ、は‥‥小学三年の夏に他の学校へ転校してから、本格的に、もの、が、起きて来て‥‥。どういう時でも、辛い時であっても、一度も、とにかく誰にも、何にも、優しくされて来なかったから、ぼっちだったから、同じ様に苦しむ人が居たら、皆な家族だと思って、惑わされずに、そういう人にこそ目を向けて助け出すのが、自分のつとめ、だと、思ってて‥‥苦しくても、助けられてない人間は俺が助けないといけないと思って‥‥ 。上から目線にこんな事思ってる俺の方が、余程図々しい人間だ」
「だから、何も気負う事は無い。助けて、普通だ。同級生は‥‥頼り合う、同胞だから‥‥」
そう言いながら俺は、今まさに他人を助ける人の持つべき温かい表情を、作れて居なかった。弱い、人間の顔をして居た。女性の眼から客観的に見れば、劣った、気持ちの悪い、拒絶するべき『《《弱者》》』の顔をして居た。持つ物が切実過ぎて、俺は嘘の表情さえ作れなかった。
悲しくなった。俺は何て人間なんだ‥‥。こんな事を言ったって、他人に、特に女子生徒なんかに助けられる訳は無いのに‥‥。ただ鬱陶しいだけなのに‥‥。でも、伝えたかった。どうやったらそうなるのか分からないが、とにかく俺も助けて欲しかった。浅ましくも、助けられるべき、今辛くなって居る人間に、俺の事を助けて欲しくなって居た。
‥‥俺は馬鹿だ。
そして、この様に素直に弱味を見せたって‥‥こんな鬱陶しくなる気持ち悪さを見せたって‥‥寧ろ俺の方が、女子の発動する偉大で『平等な』『脱差別な』横虐的暴権によって、正当に罰せられる。そしてカレラの尊い価値観と自明な善悪指標の中で見事に膺懲されて、牢屋へ入れられて、文字に出来無い程の厭な目に遭うのだとわかって居るのに。
男性が泣けば、全ての他人から「気持ち悪い」「面白い程無様だ」「自業自得だ」「ごらんの有様だよ!」と徹底的に痛罵哄笑される。暗闇牢獄へ押し込められる。女性が泣けば畢竟「どうしたの?」と助けられる。救け上げられる。肯定的に、カレラは公の下で扶け出される。そんな、何処までも正当チックな『論理武装』によって、何よりも価値ある宝玉の如くに何重にも高い城壁に囲まれた不条理的情理を、弱者の俺は絶対遵守する事が出来無い。
然し俺は、どうしても、吐きたかった。吐いて、人に伝えたかった。一縷の、助けられるかも知れない、という一〇年以上何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も悉く折られて来た希望を、そうして散り散りバラバラになって、最期に残った小さな破片を‥‥俺は自分の持つ、まるで阿Qの如き愚弱さ故に、棄てる事が出来て居なかった。必死に、胸の中に抱き抱えて居た。生き存える為に、そうせざるを得なかった。
助けられたかった。倖わせたかった。だから助けた。
可笑しいか?俺はその儘、妨害されて完全に踏み潰されるべきだったと思うのか?
俺の重い気持ちと裏腹に、女子生徒は急にビックリする程明るい声で、話し掛けて来た。
「‥‥え、小学三年生の、夏に転校、したって‥‥あれ?然も見た事ある、様な‥‥。もしかしてですが、徳永、步さん?『あるく』と書いて步の‥‥。小学校で途中まで一緒だった様な‥‥。」
え、うそん?うそ?!うそ!!
俺は‥‥家庭の事情で小学三年生の夏休み前に、別の小学校に転校した。
そうなる前‥‥最初の学校はここの高校と同じ、『市内』であった筈。さっきの話から察するに、彼女は恐らく、それまでの一番目の小学校で俺と同級生であった女子の筈だ。
名字が変わって、然も成長して姿形がまるっきり変わって居るぼっちの俺と、こうやってマトモに顔も合わせて居なければ、流石に俺とは分からないか‥‥いや、ぢゃあ何で俺の方が気付かなかったのか?!女子の方は名字も名前も変えて無いのに?!嘘だッ!!目の前の女子生徒が特殊な人間だなんて俺は信じないぞ!!
目を背けたい現実が、ここに有った。
昔から普段、机に突っ伏すばかりだったし、(見れば殺害されると思って居たので)女子の顔になんてマトモに目を向けた事が無かった。当然女子とは少しの話も無かったであろう‥‥。
それでもそれが「有る」と主張されるので、俺の荒んだ海馬から記憶を引っ張り出そうとする。
‥‥あ、何て事だ‥‥。
はは‥‥。ほぼ忘れかけて居たけどそれらしき記憶があったぞ‥‥‥‥。言われなければこんな事も思い出せないって‥‥俺は馬鹿だ。本当に。
「そうか‥‥。言われてみれば、俺にも一応、覚えが‥‥」
——小学生だった僕は、三年の一学期からにわかに読書欲求が昂じて、というか、遅滞というか、特性というか‥‥ひととの適切な関わり方が全く分からない上、もうこの時点で既に他者から馬鹿にされたり悪口を言われたりして居たので、ひどい疑心暗鬼に陥って居た。
‥‥そんなひとりも友達の居ない僕には昼休み、図書室にしか居場所が無かった。だから必定本を読んで過ごすしか無かった。
最初の小学校は読書が余り流行って居らず、昼休みでも図書室には数人位しか居なかった。僕は毎日毎日飽きもせず一冊本を借り、一冊返す。いつも昼休みは端っこの椅子に座って本を読んで居る。給食が終わった四分後には必ず図書室に入ってそうして居たし、昼休みの最後の最後まで居座る。
さながら僕は図書室のヌシだった。
この様な時、自分は女子児童という人間——恐らく目の前の彼女——から話し掛けられた‥‥様に、思う!
「その本好きなの?」
大抵の小学校には置いてある『なんとか三人組』という『〈【とても面白い】〉』シリーズものの本だった。
僕は見知らぬ女子に話し掛けられたが、その顔を一瞥しただけで直ぐ眼を逸らし、殆ど無感情無反応を貫いた。本に目を落として続きの文字を読む。
「そんなに本読むのが好きなの?じゃまだった?」
「‥‥‥‥ぅんう、別に‥‥。このシリーズ、かなり好きだけど‥‥。‥‥一応一日一冊読んでる」
この時、未だ僕には‥‥多少の純粋な心が残って居た。他人と喋りたい年頃だったし‥‥その上、出来れば褒められたかった。特に女の子から。
「そうなんだ。すごいね」
「‥‥」
女の子から初めて褒められて、チョッと嬉しかった。何故か、こればかりは少しも御世辞とは感じなかった。
「たしか同じ三年生だよね?名前は?」
「‥‥徳永‥‥步、です。步くと書いてすすむ」
僕はやっと本から目を離し、制服胸ポケットに付いた女子の名札を見遣る。名前欄には『高麗橋』と書いてあった。
「こうらいばし、ねぇ‥‥(高く麗しい橋って大層な名前だコト‥‥)」
記憶はここまで。恐らくこれ以降接触は無かったか、あるいは憶えて居ない。
他に何かあったっけ…?いや‥‥過去を思い出そうとすると、振り返るのも恐ろしい厭な事迄想起しそうになったので、ここで止めておく。
ああ、良く考えて見れば彼女‥‥高麗橋の顔を思い出せなかったのって‥‥俺は、小学生の頃からもう既に女子という人間たちを何となく忌避して居た筈だから、小学校(や中学)で同学年だった女子の名前、顔を殆ど識別出来て居なかったんだ‥‥(それでも声の調子と軀のカタチ、身長だけは判るので、ホンの最低限の弁別だけは出来ていた様に思う)。
勉強の事なら何もかんも覚えられるのに何故だか女子の顔だけは分からない。
何とも相違無く致命的、顔も名前も判らない。そんな‥‥俺。
「そっかぁ‥‥」
そうか。俺の目の前に居る女子は高麗橋か。小学校が一緒だったのか。とても親密では無いけれど‥‥少なくとも、全くの他人でも無いし‥‥寧ろその逆か??どちらにせよ恐らく俺に悪印象は無いか。
‥‥ならば、多少は私情をブチまけても、社会的に問題は無いな。今は他に人も居ないし。やっと吐きたかった事を俺は吐こう。
然し(当然ながら)心の何処かに引き留める物があるのか、上手くハッキリと話し出す事が出来無い。
「あの、さ、」小さくボソボソした籠った声。当然この高麗橋の耳には入らない。
「‥私、あまりここまで不安定なのを他人に見せた事、誰にも無くって‥‥、あの、小学校からのよしみで、なにかあったら、ちょっとその‥‥あの‥‥助けて貰って‥‥。良いですか?」
「‥‥‥勿論!みんな同級生は家族なんだからな!」
俺は、厭がられて居ない事をゆっくり確認し、そっと、手を伸ばした。高麗橋は俺の手を取って優しく握りしめた。助かりたかった、助かった‥‥という切実な気持ちが、やはり接する相手の手から流れ込んで居る気がした。
救けたかった。俺の様な人間を。苦しむ人間を。
救われたかった。俺は。
(‥‥後で分かった事だったが、音も無く這い寄って窓から俺たちを覗き見する、白衣を纏った人物が廊下に居る事には気付かなかった。)




