第五話:夕暮れ*〔放課後〕
起立、礼。
今日の日も、つつがなく帰りの挨拶は終わった。
繰り広げられるのは、毎日我が教室で見られる放課後の風景。
これ迄大人しく真面目に授業を受けて居たいとも善良なる我が学級の生徒たちは、挨拶が済んだ瞬間、突如その態度を一変させて退散する。
教室から早く出たい、一刻も早く出たい‥‥と、殆どそんな表情をして、まるで教室が忌々しい場所かの様に足早に走り去って行く‥‥。
俺はというと、部活動にも家路にも向かわない。帰宅部だから部活なんか入って居ないけど‥‥。
その代わり、強制勉強所の我が机に鞄や荷物を置いた儘、数学の授業で培われた眠気を覚まさんが為、態々下の階の厠に步を進めて居た。
‥‥そうしている内に、やがて‥‥例の清浄空間たる厠に到着するのであった。
それから‥‥何だか気分が落ち着かない俺は‥‥念入りに顔を洗う。
——今度は顔に変な物でも付いて居ないか鏡で確認。
——将た又た次は厠の個室に入って、端末でニュース情報を確認して‥‥情け無くも無為に時間を過ごす。
この様な気根無しの我である。
————。
‥‥壁に囲まれた中。しばらく俯いて端末を見て居ると、鳴ったのは通知音。
——急に我が顧みられた。厠の白い陶器。洗面台。水場の冷ややかなる空気が身体に纏わり付いて居るのに今更気付いた。
‥‥やっぱ、少人数教室、行かなきゃならんかなぁ‥‥。
女子生徒という人間と顔合わさんきゃ駄目かなぁ‥‥。
殆ど女性恐怖症を拗らせて居る俺は、こうした好ましく無い不運な事態をどうにか避けようと無意味な抵抗、もとい横着をして居た。
『‥‥あの、放課後、少人数教室に来てくれませんか?』
そう俺に言い放って見せた彼の女子生徒という人間。
この女子生徒と『一対一』で‥‥然も周りに人が居ない状況で喋らなければならない事に気後れした俺は、事態は何も変わる筈は無いのに、こうしてひたすら無駄な行為ばかりをして落ち着かぬ気を紛わせる‥‥。
俺は徐ろに個室を出て行くと、厠手洗い場の鏡が映す自分の表情を見た。
俺はこれで良いのか‥‥?
俺はこれで倫理的なのか‥‥?
あの女子生徒という人間と会わない事が倫理的なのだろうか?
これで良いのだろうか‥‥?
これで弥栄えるのか?倖えるのか?
女子生徒という人間を無視して帰るのは、人間としての義理に背いてやいないだろうか?
——本当の所はどうなのか‥‥?
どう見ても無駄に辛気臭い俺は、こうして自問自答を頭の中でループさせる‥‥。
結局俺の特別製の頭脳は‥‥女子生徒という人間の言葉を無視して帰る事は出来無い、という結論を導き出した。
いまいち心では踏ん切りの付かない儘、俺は男子厠の扉を開け、廊下へと出て‥‥一歩一歩躊躇いの込められた重い足取りで、階段を登って行く。
放課後の、夕暮れの空気漂う静やかな三階の廊下。俺以外の人間は、世界の何処かへと隠れてしまったか?と錯覚して仕舞う程に、歩いて居る人間の姿は、無い。
俺は周囲を包むこの雰囲気を不安がって、歩きつつ横を覗いて見たが、一応各々の学級教室には燈りが点き、自習する数人の生徒が居る。俺ひとりでは無い。安心した。
いつもの校舎。
暮れかかった陽。
やや人間の目には強過ぎる白光を放つ天井の|直管型LED《(水平方向に設置された棒状の照明)》。
‥‥然し目的地隣の、稀にしか使われない‥‥仄暗いもう一方の少人数教室には人は居ない。
——静かで落ち着いた教室。
俺はもう何も余計な物は考えないんだ‥‥。
これ迄色々葛藤はあったけれども、ともかく今、俺は女子生徒という人間に指定された少人数教室の、横開きの木の扉、その取っ手に指を掛ける。
それを引いて‥‥開けて‥‥沈み掛けの日光のみが照らして居る教室空間の中に入る。
淡い光の中。黒板沿いに綺麗に整列した、他の教室と比べて少ない、十数個の机と椅子。
胸の赤いリボンが目立つ、黒い冬季セーラー服を着た女子生徒という人間。かれは教室中央で、心配そうに手で胸を押さえながら立って居た。既に俺の方を向いて居る。
「扉、鍵‥‥閉めてくれませんか?」
「‥‥ぅん」
‥‥正直言って、俺は扉を閉めるかどうかを、凄まじく迷った。
態々開けた扉を俺に閉めさせて、ふたりっきりの密室状況を作る‥‥という事は、——若しかすると‥‥この女子生徒という人間は‥‥事情を感知する者を、自分と相手、当事者ふたりのみにする事で、刑事と司法、法執行当局での先例と運用面での方針、又は社会的に形成された心象と事情によって、彼我の有利不利にて——若使訴えを起こされた場合、俺の相手方‥‥女性という人間に比して——明らかに相対的に不利な物を抱える、実地に於いて法執行の不平等的運用・適用の罷り通りたる‥‥被偏見弱者属性の自分に対して、他の人間の目を封じさせる事で何か‥‥それが意識下の者か無意識下のかは別として‥‥多分に女性という人間特有の者の、直感情的厄災禍を企んで居る?——かもしれないからだ。しかし結局——俺は直ぐソコに居る女子生徒を甚だ警戒しつつも、扉も鍵もキチンと閉めて仕舞った。
‥‥夕暮れの教室。部活の時間、場所を捉えきれないぐらい間の空いた遠くの何処かから、吹奏楽のぶお〜、という音と運動部の掛け声が聞こえて来る。
でも、複数の意味で心配になって見た外向きの窓は、しっかりと閉まって居た。
窓も扉も、鍵も閉め切られて居て、俺らを取り巻く空気が漏れるスキマはひとつとして無い。教室は完全に密閉空間。
言葉の意味は少し違えて居るが、「人払い」された空間とも言える。
日暮れ時特有の校舎、と、ここに漂って居る‥‥色々な意味でアンニュイな放課後の空気が、そうさせて居る、様に俺は感じた。
「あの、あの、あの‥‥」
「ぅん」
話は始まったらしい。
ただそれが普通に出来る程、女子生徒という人間は落ち着いては居ない。
寧ろどうにかこれ以上自分の状況が悪化する前に、早く終わらせてしまいたい、と無理に始めて居る様に俺は感じる。
わかる。とてもわかる。俺も気持ちは同じだ。
一緒に、とにかく直ぐに終わらせよう‥‥。
「あの、生物の時間、みんな。誤解、sせる‥‥様な事‥‥‥‥、しまって、本当に、ごめんなさい‥‥ごめんなさい‥‥‥!」
女子生徒という人間は泣き始めた‥‥
「わたし、が、あんな事になって‥‥そうしてしまって‥‥、ほ、ほんとにごめんなさい」
御免なさい。御免なさい。御免なさい‥‥。
そう何度も謝る。謝る毎に涙が出て‥‥更に泣きながら‥‥。それでも女子生徒という人間は済んでの所で泣き崩れるのを食い止めて居たが‥‥
「ごめんなさい、、ごめんなさい、あんな事になってしまって、ごめんんッ‥‥!なさい‥‥!」
やがて堪え切れずに泣き屈んだ。
憐れみをさそう姿。
‥‥俺は体験した事がある。目の前の女子生徒という人間の様になった事がある。その様に思った、やけに既視感があった。俺は彼の女子生徒という人間と体験を同じくして居る。
‥‥これは俺だ。俺と同じだ。
これは——四年前の俺と同じだ。同じ光景だ。
ただ、泣いて謝るのが俺で、謝罪される方が(他の)ひとりの女子生徒という人間だった。
自分の不手際で何か周りの人たちに非道い勘違いをさせて、多分俺は同じ学年の誰かの女子生徒という人間の風評を傷つけて仕舞って居て‥‥ひたすら侘びしい気持ちに心が圧し潰されて‥‥。
俺はどうして良いかも分からなかった。
ただ勝手に流れる涙を抑えつつ、俺なりに必死に許しを乞うていた‥‥。そしてかつての女子生徒は当然の様に俺の謝罪を突っ撥ねた。
『泣くの気持ち悪いから早よ止めてくれる?中学生にもなって男の癖に泣けば許されると思ってるの?無理だから。それじゃあ』
「ヒドイ事しようとか、そんな気持ちは皆無だった。懲罰しただけ。私の懲罰の度合いは妥当過ぎた」「〈彼は気持ちが悪いから〉」「ワタシがそう感じたらまさにそうなんだ」。
——大凡こんな所であったろう。
‥‥これから俺がどうなったのかはいうべきにもあらず、いうべきにあらざる遇を享けた。
こうして真底厭だった事を思い出したからか、勝手に同じだと思い込んで感情移入をして仕舞ったからか‥‥。何故だか自分でも良く分からない気持ちに襲われて、俺も泣きたくなって仕舞う。
だがそれを必死に堪えて——俺は生まれて初めて自分の自由意思で女子生徒という人間に近付く。
救いたかった。救いたかった。助けたかった‥‥。俺は‥‥そんな自分を‥‥。
袖触り合うも多生の縁。
況んやトイレで出会った同級生をや。
それでも俺は少し間を空けて、女子生徒という人間とは一定の距離を保ち‥‥袖どころか服にも一切触れては居ない。
‥‥そして、かれの前に屈んで目線の高さを一緒に合わせる。
間を空けて居るとは言え近いので、否応無く、女子生徒という人間の甘く優しい髪の匂いを俺は感じて居た。
「大丈夫。同級生なんて皆な、教室という屋根を同じくする同胞みたいなものだよ」
違う。それは経験上嘘であると良く分かって居る。
「うぅう‥‥」
「‥同級生がした大抵の事は‥大抵以上の事があっても‥‥厭な顔ひとつせず、迷惑なんかだと思わずに、パッと許すに決まってるぢゃ無いか」
欺瞞だ。今まで同級生に‥‥他人に、俺はそういう風に扱われた事は無かった。許されなかった。
「うぅ‥‥っ」
俺が女子生徒という人間に言った言葉なのか、俺に向かって頭の中で自分で言った言葉なのか‥わからなくなった。
‥‥そうか。俺はあの時、この様な事を言われたかったんだ‥‥。たとえ同級生の皆なや、他の誰もが‥‥世の殆ど総ての人がやらなかったとしても‥‥俺は‥‥その‥人間として為すべき事をやろう。
「大丈夫。だから‥‥」
俺は言うべき事を言うんだ‥‥。
「もっと‥‥人を頼って良いんだよ」
啜り泣きながら‥‥かれはこちらの目を見た。俺の本能は目を背かせたがったが、そうはしない。
「‥‥ぅうッ‥‥うん‥‥」
啜り、しゃくり上げる‥‥死戦期呼吸の様な息遣いをしながら、かれはそう、答えた。
俺が言って‥‥女子生徒がそう返す迄、しばらく‥‥一分か二分経った様な‥‥体感時間ではそんな奇妙な間があった——実際は数秒、長くても五秒で、殆ど時間は経って居ないだろうが。
‥‥そしてまたしばしの間を挟み、やがて‥‥女子生徒という人間は俺にとって好ましく無いひと言を発する。
「そ、それ‥‥じゃ、じゃあ、その、あの‥‥その、落ち、着くまで、、背中‥‥さすって、くれ、ませんか‥‥?」
駄目だ‥‥!俺にとっては無理な要求であった。俺には‥‥女子生徒という人間に触れる事は‥‥‥‥たとえ‥‥出来無い‥‥。
‥‥何故か今になって俺の左腕の古傷は痛みを感じ始める。
絶対に触れてはならないというのは女性という人間にとっては当然だ。
オレが気持ち悪いから
マカるまで背負う傷を魂に負うから
イライラするから
ランク外だから
ハキたくなるから
フカイだから
カーッとなるから
イガイガするから
ダマッてキエて欲しいから
ハタメイワクだから
ヤだから
クルシイから
シニたくなるから
ネチョネチョするから
トニカク身の毛がヨダツしムカつくしイーッとなるしイガイガするし直ぐ様身体を石鹸でアライタクナルから。
彼らは頭が悪いから。
そして当世リスクばかり。従って身内でも無い限り絶対に女子生徒という人間に触れて良い筈が無いから‥‥
然も、かの女子生徒という人間の、俺にとっては稀に耳をつんざく様に聞こえるその声に、特に右耳にイガイガする様な感覚がして‥‥望ましい表情を保つ為に‥‥意識して顔を歪ませぬ様注意せねばならなかった。
右耳を手で押さえて何とか正常を装おうと、堪えようと踏ん張る。
神経の荒む様なイガイガが俺を襲う。
他人に配慮が出来る様な‥‥女子生徒という人間に触れる様な強いストレスに耐える余裕は——それが出来る様な精神的余裕は無かった。もう存在しなかった。
だから‥‥それでも俺にとっての最大限の配慮を以て返して‥‥それで‥‥女子生徒を労わろう。満足してもらおう。どうにか救けよう。
無意識の内に耳を離れて首の左側の頸動脈を押さえて居た右手に俺は気付く。直ぐ俺は自然な様子に見せる為に、それを首の右側面、下、鎖骨の方に滑る様に下とした。見掛けだけでも、どうにか心の状態をかの女子生徒に見せるまいと‥‥。然しどうにも途中で手を離す事が出来無かった。指先第一関節は首元に居続ける。
言い難い事だが、誠実に、決心を込めて言うしか無い。丁寧に‥‥かの女子生徒に‥‥。
「‥‥クラスメイトは家族であってか ぞ…くで、は‥‥」
家族で有って家族で無いから駄目だ、と言おうと、した。
だが、言おうとして居る内に、止めた。アレは俺だから分かる。俺の方を見るのを止め、暗雲が急速に空を掻き暗して行く様に表情、そして息遣いが‥‥。女子生徒の抑え込まれて居た感情が、今にもはち切れてしまいそうな様子が感じ取られて‥‥。
このままでは——逆に俺がこの人間を恐慌状態にさせたと勘違いされる。俺に何らかの仕業をされた結果の者として‥‥。この中頻度のそこそこの危険性の方が、触れる事により勝手に女子生徒という人間に加害者にされる、という少頻度かつ高い危険性をやや上回った。
俺は静かに‥‥そうする事がまるで自然かの様に、何も言わず、なるべく優しく‥‥然しそれも露骨過ぎぬ様に‥‥女子生徒に徐ろに低い姿勢で近付いて‥‥その右横へと‥‥床に腰を付けぬ様にして屈み掛ける。
そして遺憾ながら‥‥傍らに座って‥‥不安感と恐怖と何かの感情を心に抑えつつ‥‥遂にほんの指先を女子生徒の背中に触れさせて仕舞う。
何時振りかも判らない‥‥下手をすると初めてかも知れない‥‥滅多に感じない女子生徒という人間の体の温さに‥‥ひとに触れる精神的満足と不安感とが共存する感情の正負相存状態に俺は落ち入って行く‥‥。
一体どういう顔をして良いのかすらも俺は分からない。女子生徒も同じ様に感じて居るのだろうか?もしかするとこの一瞬間に女子生徒の感情が、触れる手指を通じて俺に伝播してしまったのか?だとすれば俺の感情も‥‥。
それから一秒と少し掛けてやっと掌をつけて‥‥何と無くでさすり始める。感情が切迫した俺は、最早手をどの様に動かせば良いのかも分かり得ない。
「そう、大丈夫。家族なんだから‥‥大丈夫‥‥」
空気の抜けて行く様なとりとめのない声で、俺は半ば無意識に、自己を安心させる様に呟く。
‥‥この場面を切り抜けるにはかれが精神的に満足すれば良いんだ、やり方は問題で無い。
そう自分に言い聞かせて、恐れつつどうにか女子生徒の背中をさする‥‥コレで良い筈だ。問題無い。コレで良い筈だ!大丈夫だ。俺は大丈夫だ。大丈夫だ、問題無い。問題無い。問題無い。俺は大丈夫だ俺は大丈夫だ俺は大丈夫だ俺は大丈夫だ‥‥
「大丈夫だから‥‥大丈夫だから‥‥」
不味い。その儘脳内発話を何時の間にか口に出してしまって居た。混じり合う相反する感情に訳が分からなくなって‥‥それでも正気を精一杯保たせようと、不自然な営為による不安と焦燥と強迫と痛みを打ち消そうと‥‥。
他人を侵蝕し、また他人に侵蝕されて居る事を厭でも感じさせられる掌の温もり。服の上からでも感じ取れてしまう彼女という人間の肉の感触。まるで触れて居る掌の脈から、心臓に向かって異なる型の血液を強引に流し込まれて居る様な‥‥。
そんな、自分とは異なる汚物に内部から侵蝕されて行く厭な感覚‥‥。
果たして俺は何時まで正気を保って居られるのか?生きてここを出られるのか?
彼女は、他人の手に「おされ」た事によってか漸く感情が前に出され始めて、また静かにしゃくり上げ始めた‥‥。
「う、うぅっ‥‥うう‥」
教室の、窓から照らす夕暮れは、黒板やら机やら、後ろにある棚、転がった塵に迄、校舎内の全ての物体に容赦無く暗明を作り出し、然も春の空気を橙一色に染め上げる。
そんな沈み行く最期の陽射しに伸びた、相い重なるふたりの影。それだけが、ここにある気がした。




