第四話:シュウジンカンシ〔教室二〕
‥‥やっと七時限目の数学の授業が終わった!
長く苦しい(睡魔との)闘いだった‥‥。
‥‥全然目立って何とも無かった。俺は授業中の睡眠欲に苛まれつつ頭脳を働かせる、あの不快さに耐え抜いた。
何と、今日の数学の授業では、俺は数分寝るのを数回繰り返しただけだった! 一番後ろだから恐らく先生に勘付かれもして居ない!そして何と今日は運良く授業で当てられなかった‥‥!
つまり‥‥俺の、大☆勝☆利!!
また今日も通知表の数学での[関心・意欲・態度]の評価を守って仕舞った‥‥。やはり俺は素晴らしい人間なんだ! 行けるぞ! この調子で数学のテストの赤点——平均点の半分以下の点数を取る事——も回避だ! ‥‥‥‥十中八九無理だけど。
ともあれ、この様に数学の授業が終わった後程痛快な瞬間は無い。
七時限目の終わりのチャイムが鳴った瞬間に一気に頭が覚醒!眠気が嘘の様に引いて行き、後は帰りの準備をして担任か副担任が来て挨拶するのを待つだけ。そして皆な愛しの放課後タイムが始まるのだ‥‥!
一切部活に所属して居ない所謂帰宅部の俺には、早く帰って布団で自由に睡眠が出来る、というワクワク感が押し寄せる!
教室の学生たちも、我ら文系の人間にとって忌まわしい数学の鎖から脱して、一気に緊張が解放された様子である。
「‥‥眠かった」だの「疲れた」だの「部活面倒クセー」だのといった男女の様々な言葉があちこちから聞こえて来る。
教室は次第にザワザワし始め、さっきの休み時間の様に元の騒音を取り戻した。
七時限目前の休み時間とは違ってこれから数学の授業が控える、という憂鬱さが殆ど消失した為、俺の感じる音響ストレスの度合いは体感的に小さくなる‥‥筈、だった。
‥‥でもやはり五月蝿いものは五月蝿い。副交感神経優位の時間帯になりつつある今、聴覚を上手に処理出来無い所為でさっきよりもっと耳が辛い。
俺はまたもや最も騒がしくペチャクチャ口から音を発して居る教室の真ん中の席に集まる例の六、七人学生集団を見る。
「ね、明日の昼ゴハン、弁当じゃ無くて学食で食べない?みんな学食行ける?大丈夫?」
そう話して居るのは核心階級の女子生徒という人間Α。ちなみに紺色の首周りに白い生地、そして胸には水色のリボンの組み合わせで出来た、中間季節用のセーラー服を着て居る。腰から下は‥‥一年を通して変ぜぬ地味さ、紺色のスカート。
「行ける行ける。メッチャ行ける」
最初に答えたのは‥‥真っ黒上下に鈍い金色の留め具が光る学ランを身に纏う‥‥男子生徒。イケメンである事から考えると、ええと、恐らく‥‥多分‥‥‥‥確か大津、大津とかいう男子生徒だった筈。
「え〜‥‥ウチの母さん弁当の下ごしらえいつも私が帰って来る前、夕飯の前に済ませてるから、言ったら何か怒って来そうなんだよね‥‥勿論行くけどさ」
若干渋々ながら了承したのは女子生徒という人間Β。黒生地に胸の赤リボンが目立つ、例の冬季セーラー服を着用。こうして見ると‥‥軍隊エリート幹部のイケメンに、下級水兵の少女さんたちが親しく懐いて居る見たいな光景だな。俺、何か複雑な気分。
‥‥話す人の声は、このリア充集団なら言うべきにもあらず、この他に何人も続いて行く‥‥。
「この時間に学食の話??」とやや俺は訝しむ。
後は帰るだけなのに何故明日の昼食の話‥‥?
鬼が笑うぞ‥‥と数学後の疲労でぼんやりした俺の頭脳は、そのワケを理解出来無かった。
何故いきなり彼らは今、明日に行く学生食堂の事を話し始めたのか?何で?
何で‥‥?
考える事一〇秒。漸く俺の頭は答えを弾き出した。
良く考えれば‥‥明日の弁当の準備があるから、弁当の具を作る前に話し合って予め決めて居らなければならぬよな。それを思えば納得。頭の中の仕様も無い疑念は消えた。
‥‥学食ね。学食‥‥。俺は一度だけあそこで食事した事があったなぁ。
——忘れもしない、俺が一年生の時のある夏の日。
暑い夏の昼休み。外に出れば男女問わず半袖の制服にやや汗が滲んで居るのが見受けられる程度の気温と湿度。下着と‥‥ナニカシラのとっきが皆なして各々の白服に透けて見えて居る。その位には暑い。
でも、幸いにも湿り気はその日は少なかったので、この地方のこの季節の天気としては未だマシな方だったと記憶して居る。
その日、四時限目の授業が終わって直ぐ、俺はいつもの様に昼に食べる安いパンを買いに行った。
いとあわれなる俺は事情も事情、一年生の始めの時からいつも、外へ支払う金額を少しでも節約する為に、いつも百数十円のパン一つと弁当に詰めた米飯とでやっと空腹を耐え忍んで居る。
そうしてこの日もパンを買いに別棟一階、やや照明不足な薄暗がり空間に営業する購買部に行ったのだが‥‥。
その購買部と学食はガラス扉で繋がって居て‥‥隣の学食では恐らくあの六、七人連中、とある特定リア充暴力集団構成員たる大津と愉快な仲間たちが、物を食いつつ、楽しげにちょっかい出し合ったり騒ぎ合ったり‥‥そんなして青春を楽しんで居るのが、扉越しに見えた。そんな厭なモンを端目に
「今日はどれにしようかなぁ‥‥」
と少ない選択肢からパンを吟味して居た俺の耳に、急に盛り上がる不愉快な大音声が侵入して来た。
横から所構わず聞こえて来る、彼らが発する御得意の大声。生きてりゃこういう事もある。ぼっちの俺が本来気にするべきでも無い事。無視だ無視。
然し‥‥俺は、その時徹夜による睡眠不足でかなり苛立って居た。精神に余裕が無かった。不機嫌の極みだった。
‥‥丁度今教室で彼らがガヤガヤキイキイやって居る様に、アイも変わらず五月蝿く騒ぐ六、七人連中に、ついに厭気が差して仕舞った。
「一度横っ腹打っ殴ってやっど?!」と憤る俺は、コミュ症ぼっち特有の無表情かつ静かな足音で、学食にて大声でクッチャベル、行儀の悪い彼らへと一歩一歩近付いて行った。ホントに「打っ殴る」気が必ずしもあった訳では無い。何かをやるにしても、精々彼らの近くに来てチョッピリ視線を向けるだけ。そこに行かないと気が済まなかった、それだけ。
そして購買部と学食とを隔てる、透き通ったガラスにステンレスの枠と取っ手の付いた両開きの扉の前に立って、俺は掌より大きな円いその取っ手を摑んで開けようとしたのだが‥‥引こうとしても引けなかったし、押しても押せなかった。回してもダメだった。
扉を開けようと苦戦して居る俺の姿を見兼ねて、ついに購買部商品会計係のおばちゃんは言い出す。
「あら兄ちゃん兄ちゃん、その扉、年中鍵掛かってて閉まってるがよ。あっちから回って行きなさい」
‥‥ぼっちで普段他人に話し掛けられる事の無い俺。急に後ろから声を掛けられて、然もその内容の恥づかしさに‥‥やけに精神に堪えた。強い衝撃を受けた。
心の大部分を占めるこの衝撃の感覚が、俺のさっきまでの苛立ちを何処かに立ち退かせて仕舞った。
前を見ればガラス越しに不思議そうに見つめて来る学食の人々。途端に目を逸らした所、視界に入って来たのは、緑のペラペラした紙に印刷された、夏限定のスタミナ丼のメニュー表示。一品五〇〇円也。
俺は転んでもただでは起きない人間だ。ダテにぼっちをやって居ない。
どうせならこのやたら美味そうなスタミナ丼とやらを食べてやろう。
そうしてこの気を晴らしてやろう‥‥。
そうだそうだ‥‥「俺はただ誰かの噂話で夏限定のスタミナ丼があると聞いて、試しに食べずには居られなくなっただけの人間で、然も教室から一直線に学食へ向かって居た人間だ。購買部から開かずの扉を開けようとしたのは、別のヤンチャな人間だ」。俺はそう都合良く自分に言い聞かせた。精神的勝利法である。
そして会計のおばちゃんに言われた通り一旦購買部の外から出て、少し回った所にある学食の正式な入口へと向かう。
こうして‥‥学食に足を踏み入れた。中に踏み入ったその時迄は、さっきやったジコサイミンの御蔭で気だけは良かったのだが‥‥昼休み開始から時間が経ったその時には既に、学食は案の定人でごった返して居た。
この中で飯を食うのか‥‥と来て早々厭な気分が再発した。やはり中は騒々しい。
ともあれ俺は五月蠅さに湧き上がる感情を堪えつつ食券を何とか購入し、二回ほど壁に沿って曲がっている長い長い配膳の列についた。
五分程生徒の列の中で突っ立って、それでやっと俺の順番は回って来た。俺は小さな食券を食堂員に手渡し、例のスタミナ丼を貰った。
無事に御箸と丼を持った俺は、辛うじて空いて居る席を見付け、人の波を無理やり掻き分け座り込む。ぼっちの俺にとって、周りから容赦無く人を排除して進むのなんて朝飯前。‥‥昼飯前だけど。
そうして席についた俺はくっ付いた割り箸をビッと分けて、飯を食らおうとした。だが‥‥。
そうは言ってもやはり人が潜在的に敵となり得る俺は自分の食べる姿の無様さを見られやしないか、或いは我が『性質』故に‥‥「無意識の裡に集団の義理に違反してやいないか?」とか、「周りから罰せられない様に早く自覚しないと」‥‥と思い始め、今更急に人々の視線が意識されて来た。俺は非常な、精神的脅威が周囲に数え切れない程居る事に、気付いて仕舞った。
シュンジンカンシ。
ひたむきで、生真面目で、職務に忠実な数十人の看守たちが周りに配置されて、そうして「異常」な行動をして居ないか、「義理」に違反して居ないか‥‥と自分の一挙手一投足を徹底的に監視されて居る中で食う飯は美味いだろうか? 否、どんな料理も不味くなる。
不安と恐怖に苛まれて気が立つ中、急いで俺は箸を進める。
五分も経たずに俺はスタミナ丼を完食した。そして直ぐ食器を返したかと思うと、早々と出て行く。
色んな経費とか除いてひと月に真に俺が自由に使える金額は正味一五〇〇円程度。そんな俺には全く馬鹿に出来無い五百円が財布から出ていって、結局得たのは精神的圧迫感の未だ心にツンザク残響と、摂取した気がしない栄養分。
こんな思いをするのであるならもう学食では二度と飯を買わまいと思った。
もうヤケクソになった俺はまた購買部に戻って‥‥少ない御小遣いから、一五〇円で惣菜パンひとつを買った。
それをやたら大事そうに右手に持って‥‥購買部出入り口の透明ガラスの扉を開けて、クリーム色の硬い床をズンタズンタン踏み付けながら建物を出て行った。
‥‥以前見た様に、平気で騒いで尚、他人によって直接的に咎められたり否定されたりする事の無い『権力を持って居る』『正当な』あの様な連中なら、当然学食等苦痛無く食えるのだろうなぁ。
然もこの時だけでも無く‥‥俺の朧気な記憶に拠れば、最低月イチで度々奴らはそこで食って居た事からすると、御小遣いもある程度には余裕があるのだろう。この様なものさ。世の中は。
彼らはそんなして、又た二年になった、四月の明日も学食を食いに行き、食べ物を口に含みながら大声でクッチャベるのだろう。
全く、文字通り反吐が出‥‥
下らない妄想をして居る最中、俺は突然右肩を後ろから誰かに叩かれた。若しかして大津の奴か?思考盗聴して俺の考えを偸み聞いたのか?それは無い。
恐る恐る後ろを振り返って見ると、そこには——生物の授業で一緒に遅れたあの女子生徒という人間の姿があった。
「‥‥あの、放課後、四組の方の、そこの一番奥‥‥英語の少人数教室に来てくれませんか?」




