第一一話:地下監獄〈かんごく〉のやみに現れたヒカリ*〔泥中の華〕
片峠が出て行ってから、一瞬の事だった。
サクラという女子生徒——高麗橋櫻——は、ぼっちの男子生徒——片峠步——の一連の姿を見て、深刻な程に‥‥かれは息が詰まる様な焦燥感を抱えて居て、恐らくその為に‥‥発作を抑える為に、ひとりになれる空間に逃げ込もうとして居るのだ‥‥という事を察知した。何と無く勘付いた。‥‥自身もその様な事を数え切れぬ程起こして居り、かれと同じ様な事を幾度と無く繰り返して居たからである。だからこそ——これ程迄に早く直覚した。
‥‥‥‥。
————。
彼女の胸中には、何とも知れない気持ちが、幾許かの焦りと不安を伴いながら、湧き起こって来た。自分でも不思議だった。そうして「かれの事を助けなければ、ならない‥‥そうしないと‥‥!」と思った途端、勝手に身体が——口が動いた。
彼女は御弁当の御箸を置いて、座って居た席から立ち上がった。
「わたしも‥‥ちょっとトイレに行って来る」
——そうして御弁当箱の蓋も閉めずに、足早に教室の出入口に駆けて行ったのは‥‥共に、近くに座る仲間の女子生徒から、サクラと呼ばれたひとりの人間であった。
彼女は、仲間の女子生徒の返事を待つ事無く、遮二無二、かれを追う様にして教室を抜け出して行った。
かれが駆けて遠ざかって行く‥‥。
その音は廊下の暗い窓の外、走り去り行く雨足に、やがて段々淡々と掻き消されて行った。
特に何も、サクラに言う事が無かったふたりは、彼女を引き止める事もせず、少しの間駆けて行く女子生徒を目で追うだけである。何故サクラが出て行ったのかは流石に大凡察知が付く事であったが、彼女らは、ワザとらしく如何にも「何事か?!」とでも言う風に顔を見合わせた。
‥‥少し経って、走る音がしなくなる程サクラが離れると、それを見計らったかの様に
「何をしに行くのでしょうねぇ‥‥」
令嬢然としたひとりの女子生徒——海道睦美は気圧の低い、か細い声でそう断言した。
「え?う〜ん‥‥」
旋毛のアホ毛をピョンピョンさせて考え込む振りだけして、何も考えて居ない、かのギムリと呼ばれたちっこくて丸っこい女子生徒——空野銀理であった。
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この世の〈ヒカリ〉よ!如しあるのなら、どうか俺を救ってくれ‥‥!どうか救ってくれ!
救いは無いのか?救いは来ないのか‥‥?生きて居ても‥‥俺は縦倫理的に生きて居ても‥‥一生、ズッと報われる事が無いのか?‥‥無い。恐らくそうだ。
倫理的に生きて居ても、ズンズン‥‥俺にはどうにも出来無い‥‥周りから圧し付けられる負担が増すだけだ。この先、俺にはシぬしか救いの方途が無い。
イキグルシさ‥‥それが余りに強い故に身体が必死になって強迫的に繰り返す、引き攣った呼吸は、一向に治まる気配は無く‥‥何時迄も続く。
それどころか、暗い教材置き場の部屋の中で蹲る一方であるのが、俺にイキグルシさだけを集中して意識する様にならしめた。
イキグルシサ——切迫。焦燥。憤激。恐怖。
今にでもシぬのでは無いか——とさえ思う、処理出来る量を溢れた頭の中の感情‥‥。これに因って、身体が勝手にわれの知らぬやり方で動き出さんとする。精神が破綻を来たし掛けて居る。それを何とか抑えようと‥‥食い止めようと‥‥頭の中だけに何とか止めようと‥‥。
俺はブレーキの効かぬまま斜めった坂を転げ落ちる車を運転して居る様な、絶体絶命の状況とさえ感じて居た‥‥高校二年生の俺は車を運転するどころか免許も取ってや居ないが。
止まらない勢いの車を何とかして収める為には、自ら壁に向かって激突するか、車体ごと近くの川に落ち込む位しか無い、つまり自分で自分を終わらせるか‥‥或いは酷く傷付けるしか考えられぬ状況に陥ってしまった。後で冷静になって見ればもっと良い方法が浮かぶかも知れないが、今はこれをするしか無い。必死になってジショウによる対処の術を実行するしか無いんだ‥‥それも、より酷いやつを。‥‥その思いに頭が支配された。
——病的な速さで繰り返す呼吸をする俺は、遂に首の脈に指と爪を立てて、それを始めようとした‥‥その瞬間であった‥‥。
——扉を優しく静かに開けて素早く入る者が居た。
穏やかに扉を閉める前に差した光に、黒い制服姿の女子を見た。
制服、強烈な香りはしない。甘く漂う優しい髪の匂い。この匂いを俺は知って居る。‥‥こう、らい、ばし‥‥高麗橋だ。
どこか遠くに砕け散って行って仕舞って、実際には俺の傍にはマッタク存在しないだけに‥‥やたらと俺の目に大きく映って魅了する、モノの虚像の様な‥‥「 ゼッタイ『救援けられたい』。そうなる筈だ!」という、俺が視て居る‥‥切実にヒカリ輝く大きな希望。それに縋りたくて、彼女は自分の事を助けに来たのだ、と怯えながら心の底から信じた。その通りであった。
「大丈夫片峠くん?!‥‥‥‥もう大丈夫。もう大丈夫ですから‥‥私がいますから‥‥安心していいですから‥‥」
——切実に求めても永久に救いの来なかった俺には、われを確実に救うてくれる‥‥助けを、救いを齎しに来た彼女を‥‥逆光天使を‥‥琉璃光から顕れたる、飛天や聖女、観音様の御姿かと、見紛うた。身から縋りたい気持ちになった。
そうして‥‥おづおづとしながらも直ぐ様俺と肩が触れる迄傍近くに来た高麗橋は‥‥それから何も言わず、俺の背中を‥‥何処迄もほんわかな感触がする‥‥彼女の右腕と、その掌以て優しく抱え込む様にして、穏やかにさすり始めた。
自分の過呼吸と治らぬ嗚咽。それを抱き込み、寄り添い、穏やかに鎮めんとする高麗橋。
心中に、様々な感情が次々に沸き起こって襲って来た。
——殆ど全て強烈な初めての感情だった。それらは女性に包まれる恐怖なんかよりもよっぽど強く、それを超越して居る。全ての穢れを押し流して呑み込む大波の様な‥‥大き過ぎて、俺には処理し切れない、胸の奥に流れ込んで行く感情。
彼女は囁く。
耳元で優しく、心から語り掛ける様な声で‥‥
震える我が子を安心させる様な声で‥‥
「ごめんね、大丈夫。大丈夫ですから。クラスメイトは家族ですから、心配しないで。あなたは大丈夫ですから。私がどんな時でも助けてあげますから‥‥大丈夫。大丈夫ですよ‥‥」
声のあたたかさ‥‥。
聴覚が過敏なのがデメリットでも無く、却って耳元で囁く高麗橋の声を‥‥脳髄の中に幻惑の様に響かせて、何時迄も反響させて行く‥‥。
‥‥ただ聴こえる声の事以外は、何もかも、何処かへと霧散した。
無邪気な子どもがへなへなと地面に座り込んで居る時の様に、俺は何も考えられなかった。俺の中には‥‥高麗橋の優しく囁く子守唄の如き声の音と、何か聖なる存在が出した様に感じられる言葉の内容と、息遣い、体の温もりと、全身の肌で感じられる、彼女の肉と骨格の、柔らかくも強さのあるしなやかでたおやかな感触‥‥その感覚しか無かった。
俺は不意に身を任せ切って仕舞って居た。一切を彼女に委ね切って居た。無制限に響く『声』の正しさに、心の底から肯ぜずには居られなく‥‥なって‥‥。自分の本質存在をやさしく抱きとめる神女の様な声に、ひたすら純朴に‥‥従おうという気持ちに、心が満たされて居た。気付けば、あれ程速く反復して居た息が、落ち着き始めて居た。
高麗橋の声が胸の奥にまで入り込んで、心に染み込んで精神と一体化してしまった様にさえ今感じて居る。そうして敏感な上ストレスに硬変した俺の心の中を——彼女が解きほぐして、不可逆的に新しく作り変えて行って居る様にさえ思えた。
「——————————」
「——————」
————。
気付けば、俺は高麗橋の胸の中で泣いて居た。
今になって初めて気が付いた。俺が自分からそうしたのか‥‥或いは彼女が引き寄せてくれたのかも‥‥わからぬ。わからぬが、優しく動く心臓の音。間近に‥‥人の温かく湿った息遣いを感じる。
彼女が息を吸ったり吐いたりするのに合わせて穏やかに‥‥そして優しく波の様に引いては寄せて行く、俺を抱き止める肩と胸の動き。埋もって‥‥それに一番押された時の、息が出来無い温かさに包まれる安心感。——これが何よりも切実に欲しかった。して欲しかった。胸の中に抱かれて頭も背も優しく撫でて欲しかった。今‥‥信じられなくとも俺はそうされて居た。何処迄も救って、受け入れてくれる人間に、初めて心身全てが包まれて‥‥やっと俺は落ち着きを取り戻した。
俺は、抱かれながら、顔を後ろの方にぶつからない様に上げて‥‥高麗橋の眼を見た。安心する優しい微笑を湛えて居る。その眼は、俺には何とも全ては判別出来無い、複雑な感情の入り混じった眼に見えるが、しっかりとした彼女の優しさが表れて居る、様に、俺は感じた。
「ぅうっ、高麗橋、さん、ありがとう」
ゆっくりと、俺を抱く腕が離れる。
「いいんですよ。学級の一員は、みんな、家族‥‥なのですから。私に‥‥こうして頼っていただいても、大丈夫なんですよ‥‥?あなたも‥‥そう言ってましたでしょ?」
そうか‥‥そうなのか‥‥そうだったのか‥‥。
「‥‥そうだね‥‥。高麗橋さん、ほんとにありがとう」
「‥‥別に、名前、『櫻』って呼んでも良いんですよ。あなたと私は『クラスメイト』‥ですもの‥‥、ね?‥‥そっか。そういえば片峠‥さんは‥‥何て名前、でしたっけ?‥ね?」
‥‥名前?そうか、そうだ!そうだった!俺の名前は——。
「——步。片峠步。‥‥步くと書いて步——」
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帰ってきたサクラに、教室の後ろの方の座席に座って御弁当を御箸で突く、ふたりの女子生徒たち——令嬢然少女のムツミと、ちっこい丸眼鏡少女のギムリは気付いた。
案の定、サクラが步の所に行った、というのは分かって居たふたり。然しそれを裏付ける確実な証拠は無かったのだが、直ぐ、ふたりは気付いた。それはそこ迄目立つ物で無かったのにも拘らず。
サクラの黒い冬季セーラー服は、その袖と、主に後何処そことが、ひとの涙で濡れて‥‥潮垂れて居たのである。雫の涙に濡れた部分は、少しだけ色味が深かった。
サクラは静かに、自分の御弁当箱のある席に座った。
イマイチ腑に落ちないが、表情にだけは表さない‥‥そんなムツミは、あれが步の涙であると強く理解して居た。‥‥一方ギムリはどうでも良いのか、何故か、顔の右の方にある腫れ物を手で優しく弄り始める。
ムツミは‥‥步の‥‥教室の隅で挙動不審に下を向いて過ごすコミュ障ぼっちの、碌でも無い男子生徒の体液が服について居るのを「同意してないのに」見せられて、それを少しだけ嫌に思った。
思わず反応して
「うわぁ、きも‥‥」
とムツミは言った。
‥‥聞こえた。届いた。
ムツミの言が聞こえたサクラは、さっき迄步を慰めて居た事と一緒に、夕暮れの放課後、あの時、自分の方が步に慰められて居たのを思い出した。あの時、自分は苦しくて泣いて居た。妄りにも、彼を自分に重ね合わせて仕舞った。
‥‥つらかった。
自分も、步も。
サクラは、奇妙な事に、自分がそう『気持ち悪い』と言われて居る様に錯覚して仕舞った。自分の事を、目の前でその様に言われて居たら‥‥と思うと、そのショックは計り知れなかった。余りに悲しかった。その様に言われるのが。
‥‥じゃあ、必死に慰めた、慰められた自分はどうなるのか‥‥。
サクラは、出来る限り普通に笑顔で話している様にしつつも、少し涙で目を濡らして、
「睦美ちゃん‥‥苦しんで‥‥ないてる‥‥苦しんで‥‥なくない‥‥ないて、泣いて、泣いてる人、分かってないの、ある?苦しくない、ひとに‥‥そんな、反応は、あるの‥‥?‥‥あるの、間違ってないですか?無いん‥‥じゃない‥‥?どうかしてない‥‥?間違ってない‥‥?わたし間違ってる‥‥?の、正しい、事だって‥‥わからないの、間違えてる?‥‥のかな‥‥わたしって‥‥そう。うん、かな?‥‥あれ‥‥‥‥?私‥‥間違って?正しくない?の、わかる、の、わからなくなっちゃった。ごめん‥‥片峠くん、の為に優しい、事、思い‥‥理解するの、正しくなるって‥‥おかしかった?‥‥‥‥ごめんなさい。睦美ちゃん」
「‥‥」
「‥‥あ‥‥はい。ええ。そうかも‥‥ね、そうですね?!わたし!も、櫻の事、わかってるから。櫻、だいじょうぶだいじょうぶ」
そう言う彼女の有り様を見て、ムツミはこう返さざるを得なかった。ギムリは今、自分が分からなかった事が解る、という様な表情を、知らず知らずの内に自己の顔に浮かばせて居た。
「(げ‥‥睦美、櫻の地雷踏んぢゃったよ‥‥)」
腫れ物を手指で触りながら話を聞いて居たギムリは、思わず顔のそれを潰しかけた。何故か急に頭のアホ毛がピンピョコと立って仕舞った‥‥。ともかくギムリは、ひたすらいたたまれない気持ちになったのだった。
三人の間に漂う妙な空気を変えるべく、ムツミは、再び話し始めたのだった。
「——‥‥——‥‥——‥‥‥‥。——。‥‥でもね、‥‥‥‥——」




