自立のプロトタイプ―非効率は自由と同義である―
自立のプロトタイプ―非効率は自由と同義である―
Ⅰ. 効率の墓標と裏切りのトラウマ
高層マンションの防音ガラス越し、完璧に管理された澄んだ空気の中で、佐藤(42歳)は冷笑した。眼下に聞こえるのは、デジタルでは消されたはずの、不快な音だった。庭で、木村(55歳)は赤茶色に錆びた手動ポンプを、油の焼けたような匂いをさせながら、ギーコ、ギーコと軋ませていた。
「またやってるんですか、木村さん。最新のIoT浄水システムで管理できる時代に、井戸の手動ポンプ? まさに技術的敗北だ。時間の無駄、労力の無駄、効率の極みに逆行している」
木村は黙々と作業を続けた。柄を握る彼の手のひらは、厚いタコのせいで皺が寄っていた。佐藤の言葉は、かつての自分に対する自嘲のように響く。
彼の脳裏には、数億円のラインが鉄屑と化したあの瞬間の絶望が焼き付いていた。全てを専用規格部品に頼ったシステムは、外部要因により崩壊した。あの時、木村は悟ったのだ。システムへの依存は、自分の手から制御権を完全に放棄することであり、それは必ず**「裏切り」**をもたらすと。
彼は顔を上げ、静かに佐藤に言った。一拍の沈黙が、テラスの冷たい空気を引き裂いた。
「効率は、存在そのものの代わりにはなれないよ、佐藤さん。私は、もう誰にも、何にも裏切られたくないだけだ」
Ⅱ. 価値の停止と、制御を失った敗者の顔
世界は崩壊した。超物価高は、エネルギー価格の壊滅的な高騰を引き起こし、グローバルサプライチェーンと電力系統を連鎖的に断ち切った。
最新鋭のシステムに依存していた佐藤のマンションは、瞬時に換気扇の低い唸りすら聞こえない無音の監獄となる。空調が止まり、金属と埃の混じったような生ぬるい空気が滞留した。IoTシステムは機能停止。佐藤が築いたデジタル資産は、アクセス不能なただの暗号データへと価値を停止させた。
三日目。渇きで喉は砂漠のように貼りつき、舌が鉄の味を帯びた佐藤は、アスファルトを火傷しそうな手のひらで掻きながら、木村の家へ這いずり着いた。その顔は、木村が過去に鏡で見た、**「制御権を失った敗者の顔」**そのものだった。
「木村さん、水……頼む。頼むから! 現金、外貨、株、何でもいい!」
**木村は答えず、ただ指先で小さなベアリングを回し続けた。**その微かな摩擦音が、崩壊した世界で唯一残された時間の音のように響いた。
「現金も株も、もう効率が悪いんだ。価値を持つのは、壊れた社会を自分の手で直す力、そしてそのための普遍的な道具だけだ」
Ⅲ. 規格汎用の哲学と、労働の支配
木村は、金のネックレスを差し出す佐藤を冷淡に見つめた。
「あなたは効率で時間を買った。私は非効率で**自立(存在)**を買った。今、どちらの通貨が価値があるか、はっきりした」
木村はネックレスを受け取り、交換の条件を突きつけた。
「水と、私の持つ紙のマニュアルに書かれた普遍的な知識へのアクセス権。その対価は、この後の六ヶ月間の労働だ」
佐藤は屈辱に震えた。木村は彼の震えを冷淡に観察した。
「そうだ。かつて私が技術的敗北と馬鹿にされたように、君は今、生存的敗北を味わっている。回転を維持し、文明の継続に不可欠なこのベアリングこそが、今の**金**だ」
木村はさらに続けた。
「君の仕事は、私の井戸の非効率な管理者だ。君のマンションのタンクが空になるたびに、この井戸から水を汲み、あの高層のゴミ箱まで運ぶこと。君の体力が、あの建物の唯一の水道だ」
Ⅳ. 軋む音は、自由の音
佐藤は、かつてのプライドを粉々に打ち砕かれ、ポンプの冷たくゴツゴツした鉄の柄を握った。ギーコ、ギーコ。軋む音が、夜の静寂を切り裂き、彼の耳の奥でリズムを刻んだ。その音は、彼が嫌悪した手間と時間をかけて生きる真実の音だった。
額から汗を流し、水を満たしたバケツを抱えながら、佐藤は微かに気づき始める。満たされたバケツからは、土と冷たい石の匂いがする水が微かに揺れていた。肩に食い込むバケツの鈍い痛みが、デジタル生活では得られなかった、制御権を取り戻したことによる微かな安らぎに変わる。
かつて彼は、「時間」を買ったと思っていた。だが、今、水を得るたびに、自分が手放していたのは「自分の命の確かな重さ」だったと悟る。デジタル画面の中で軽くなった自分の存在が、この鈍い痛みによって再構築されていく。
木村は、道具箱に金を仕舞い、自らの手で育てた発酵食品を口にした。
彼はポンプの**「軋む音」を聞きながら、静かに頷いた。この音は、彼が誰にも裏切られず、自らの手で自立(存在)**を維持している証だった。非効率は自由と同義だった。
木村は誰にも見向きもされなかった普遍的な哲学によって、新しい世界の真理の管理者となったのだ。彼は、金より重いベアリングを道具箱の底で輝かせた。
佐藤は、軋む音を聞きながら水を運び続けた。その音は、彼がかつて住んでいた防音ガラスの向こう側には、決して届かなかった。ただ、あの高層の無人の窓を見つめ、彼に残った問いは一つだけだった。『次に崩れるのは、誰の効率か?』




