04. 飛び級の先にあるもの
朝の始業時間前。
三年生の教室の前に立ったティニアは、まだ扉に手をかけられずにいる。
昨日、先生に飛び級をすることを決めたことを伝えると、
「学年を移動するなら早い方がいい。今日中に手続きを済ませておくから、明日からは三年の教室に行きなさい。クラスの者には、授業に入る前に紹介するから」と言われた。
あまりに急な話に、心の準備ができないままに朝を迎えて、ティニアはここに立っている。
この教室にはロイクもいる。
だけどあれ以来顔を合わせていないので、結局ロイクには飛び級のことを伝えられないままでいた。
ロイクは授業朝と放課後に自主練習をしているので、朝は早いし帰りも遅い。
登下校の約束がなければ、ティニアはロイクと話すどころか、顔を見ることもできない。
だから今、ティニアはひとりきりだ。
年上ばかりの三年生の教室に、いきなり飛び込む新入生のティニアを、受け入れてくれる生徒はいるだろうか。
ティニアのように、飛び入学や飛び級を利用した学生は、過去もう何年もいないと聞いている。
今ティニアが入ろうとしているクラスは、入学時から共に鍛錬を積んできた仲間たちだろう。そんな中に、三年も年下の子がいきなり入ってきても、迷惑なだけではないだろうか。
今までは、入学さえすれば、ロイクはずっとティニアの側にいてくれると、何の疑いもなく信じていた。
だけど少し考えれば、そんな都合のいい話はあるはずがない。
ロイクにはロイクの仲間がいるはずだ。
もしかしたらこの前のように、ロイクはずっとエリシアのそばにいるのかもしれない。
ふと――一昨日の放課後の、二人の姿が目の前によみがえった。
眩しく見えたその姿が、ティニアの胸を締めつける。
気持ちが重りを抱えたように、ゆっくりと沈んでいく。
(やっぱりオリオン兄さんについてきてもらえばよかったかな……)
ティニアは、「授業が始まるまで側にいるよ。可愛い妹の担任の先生に、「くれぐれも妹をよろしく」って挨拶しなきゃいけないし」という兄の浮かれた言葉に、「オリオン兄さんは四年の教室でしょ!」と断ったことを早くも後悔し始めた。
だけどこのままここで立ち尽くしていてもしょうがない。
最終的に飛び級することを決めたのは、ティニアだ。
(私はもう子供じゃないわ!)と覚悟を決めて、教室の扉に手を伸ばした。
「ティニア?」
「ロイ――あ、おはようございます」
そうっと教室を覗くと、ちょうど近くに立っていたロイクがティニアに気がついて、声をかけてくれた。
ホッとして「ロイク」と名前を呼ぼうとして―――ロイクのすぐ隣にエリシアもいることに気がついて、名前は呼べずに二人に向かって挨拶をした。
「どうした?何か困ったことがあったのか?」
すぐに目の前に来てくれたロイクに尋ねられて、「あのね、」と、ティニアは飛び級のことを説明しようとした。
「ロイク。もうすぐ授業が始まるし、今話をしていたら、ティニアさんが遅刻したゃうわよ。入学早々に遅刻なんてしていたら、成績に響くわ。そんなの、『いいお兄さん』失格よ」
だけどティニアが口を開こうとしたその時、エリシアがロイクを諭して、ティニアに優しく微笑んだ。
「ティニアさん、また休憩の時にいらっしゃい。よかったら、私も話を聞かせてもらうわ。何でも相談してね」
エリシアの声は、まるで子供をあやすように優しかった。
その声に、またティニアの心が薄暗く曇っていく。
「あ――そうだね。ティニア、また休憩時間に会おう?治癒魔法の悩みなら、エリシアも聞いてくれるし、よかったら―」
ロイクが言いかけたその時、
「お前たち、もう始業時間だぞ。今日は新しいクラスメイトを紹介するから、早く席につけ!」
三年の担任、イザークがいつの間にかティニアの背後に立っていた。
ティニアたちの会話を断ち切るようなタイミングで現れたイザーク先生に、教室の空気が一瞬静まる。
それと同時に、ロイクとエリシアの怪訝そうな視線がティニアに向けられた。
イザーク先生が、そこにいるべきでない新入生のティニアを注意することもなく、まるで当然のように、ティニアの隣に立ったからだろう。
教師に促されて席についた生徒たちの前に、ティニアは立たされていた。
ティニアより三歳も年上の生徒たちが、みんな大人に見えて、心臓が飛び出しそうなくらいにドキドキしていた。
「彼女は新入生だが、二年を飛び級して今日からお前たちと一緒に勉強することになったティニアだ。みんな仲良くしてやれよ!」
イザーク先生がティニアを紹介し終えると、生徒たちにざわめきが広がった。
「え……?あの子って、飛び入学してきた子でしょう?」
「まだ17歳なのに、いきなり俺たちと一緒かよ」
「あいつ何者だよ」
「あのオリオン様の妹って話よ。……あまり似てないのね」
「ロイクの妹分なんだろ?」
クラスのみんなの視線が一気にティニアに突き刺さり、ざわめきが止まらない。
居心地の悪い思いに耐えきれず、ティニアは思わず身を小さくした。
敵意を向けられているわけではないが、温かく迎え入れられる雰囲気でもない。
どこか距離を置いて、遠目に見られているような感じだ。場違いなところに来てしまったようで、居心地が悪かった。
ティニアは飛び級したことを、早くも後悔し始めていた。
そこから始まった座学の授業は、もっと最悪だった。
学期末近くに行われる『第一次訓練評価試験』の説明を兼ねた授業内容に、全くついていけないのだ。
イザーク先生の話している言葉の意味が、半分も分からなかった。
「――この時のために、治癒師は力をためておくこと。剣士も、ここまでは治癒師の力を頼らない方がいい」
「力をためておく」
その一言が、どうしても理解できない。
みんなが当然のように頷く中で、ティニア一人が置き去りにされてゆく。
イザーク先生の話す言葉一つをも聞き逃さないように、ティニアは必死にノートをとっていた。
開いたページの上には、理解できない言葉と焦りで乱れた文字だけが並んでいく。
帰ってから調べようとは思っている。
だけど、授業が進むたびに、分からない言葉の山が積もっていった。
休憩時間になっても、ティニアは顔を上げられなかった。ノートを整理するフリをして、ひたすら文字を並べていく。
授業中、先生の声以外に聞こえる音は、ティニアがペンを走らせる音だけだった。
誰もがノートを取るまでもないことを、ティニアだけが必死になっていた。
『あんなので、二年も飛び級してきて大丈夫なの?』
『間違いだったんじゃないの?』
そんな声が実際聞こえたわけじゃない。
だけどみんなの、口にしない声が聞こえてくるようだった。
ティニア自身、そう思っているのだ。みんなが同じことを思わないわけがない。
そんな中、ロイクがティニアに話しかけようと、こちらに足を向けたことに気がついた。
少し気が緩みかけたその時―――
「ティニアさんの邪魔しちゃダメよ。見守るのも、『お兄さん』の役目でしょう?」
エリシアに優しい声で諭されて、ロイクは一瞬迷うような間を見せたが、「……そうだね」とアッサリと引き返してしまった。
次の休み時間も、その次の休み時間も同じように過ごした。
誰とも話さず、ノートだけを見つめている時間だった。
やっと座学の授業は終わったが、お昼休憩を挟んだ後の授業は、いよいよ実戦訓練になる。
きっとティニアとペアを組んでくれる人はいない。
(泣いちゃダメ。絶対にダメ!)と、ティニアは唇を噛みしめた。
午前中の授業が終わると、1時間の昼休憩に入る。
エリシアがティニアの席に来て、お昼に誘われた。後ろにはロイクもいる。
「ティニアさん、お昼を一緒に食べない?いつもロイクと二人で食べている場所があるの。あまり人が通らなくて、静かで、落ち着く場所よ」
―――ロイクと、二人で。
ロイクはいつもエリシアと、『あまり人が通らなくて、静かで、落ち着く場所』で、『二人きり』で食べているらしい。
それは、二人は特別な関係だと話しているようなものだ。
そんな場所にティニアが加わったところで、更に孤独になるだけだ。お弁当の味も苦くなってしまうだろう。
「お誘いありがとうございます。でも、私はオリオン兄さんと約束してるので」
ティニアは、泣き出したい気持ちを気づかれないように、精一杯の笑顔を作って、エリシアの申し出を断った。
「…え?でも、お昼はオリオンさんと食べないって言ってただろう?遠慮しなくていいよ。もし、午前中の授業で分からないことがあったら、エリシアに聞いてもいいし」
ティニアの嘘の理由に気づいたのか、ロイクが少し焦ったように声をかけてくる。
確かにティニアは、授業について行けていなかったけれど、エリシアだけには頼りたくなかった。
それに、そんなティニアの気持ちを分かってくれない、ロイクの顔も、今は見たくない。
困ったように美しい眉を下げるロイクに、もう一度はっきりと断ろうと口を開きかけたとき―――また柔らかい魔力がティニアを包みこんだ。
「ティニアお待たせ!ごめんね〜待っただろう?僕の担任のマリウス先生に捕まってだんだよ〜。さあ、行こう!」
「――うん」
またティニアの心の揺れを感じ取って、駆けつけてくれたようだ。
兄のオリオンの癒しの魔法に、追い詰められていた心がほどけていく。
いつもならば「やめてよ!子供みたいに手をつながないで!」と振り払う兄の手を、今日は払わなかった。
素直に、その手に引かれて歩き出す。
「ティニア、どこで食べようか?やっぱり目立つ場所がいいよね。「この子が僕の可愛い妹だ!」って自慢できるしね」
ウキウキとした様子で斜め前を歩く兄に、ティニアはほんの少しだけ、ホッと息をついた。




