19.その頃のヴァルドは
「オリオンくん。ここは魔法師養成学園じゃないことは分かっているかね……?」
ヴァルドの前で、学園長の静かな声が震えていた。
(まずい。これ以上ここにいたら、とばっちりを食う)
学園長の声の奥に潜む怒気を察して、ヴァルドは素早くイザーク先生に申し出た。
「先生。俺、もう戻っていいですか?」
イザーク先生も、同じ危険を感じ取ったのだろう。
「そうだな。俺も戻る」と短く頷き、ヴァルドの後に続いた。
「お前ら、オリオンが戻ったら、今日はすぐ帰れ。これ以上学園長を怒らせるなよ。担任の俺が迷惑だ。家で反省会でも開いておけ」
ウンザリしたようにため息をつくイザーク先生に、ヴァルドは足を止めて口を開いた。
「イザーク先生。その……ティニアとペアを組ませてくれて、ありがとうございます。ティニアは、イザーク先生に声をかけられたって言ってました」
「ん……?ああ、あれか。『憐れなヤツがいる』って声かけたやつな」
「憐れ……」
ヴァルドは思わず言葉を失った。
その一言は、『可哀想』のさらに上を行く言葉だった。
「まあ、良かったんじゃないか?『今年は逸材が入る』って聞いた時は、『また問題児が増えるのか』って頭を抱えたが、お前らに似なくて良かったよ」
やれやれというように、イザーク先生は首を振った。
「お前ら」と、あんな変人と一緒にされるのは心外だったが、ヴァルドはただ「……そうっすか」とだけ答えておいた。
「――しかし、ああやって髪と目の色が変わると、やっぱり兄妹だな。普段天才肌が隠れている分、余計に目を引くな。
これで『天才の妹』って枠を外れたんじゃないか?
あの子自身を見る奴も増えるだろうし……お前も油断してると取られるぞ」
「俺は―」
「まあ、しっかり精進しろよ。俺は誰かのせいで、生徒のフォローに忙しいんだよ」
ヴァルドの「油断なんてしねえよ」という反論を聞く気もないようだった。
イザーク先生は「しっかり反省しろよ」とだけ言い残して、足早に去っていった。
ヴァルドはハッと短く息をはく。
そしてヴァルドも教室に向かって歩き出した。
ティニアはおそらく教室にいるだろう。
歩きながら、ヴァルドは試験中のことを思い出す。
試験開始の合図とともに、仮想の魔物が現れた。
その瞬間、背後のティニアが、恐怖に固まったのを、魔力の揺れで感じ取った。
――ティニアには話したことはないが、訓練を重ねるうちに、彼女の感情が、魔力を通して伝わるようになっていた。
魔物の姿を早く消さねば、と焦った。
その思いが先に走り、振り下ろした剣の威力が上がっていたことに気がつくのが遅れた。
(ヤバい!)と思った時には、目の前の仮想魔物だけではなく、他の魔物たちまで消し去っていた。
(やっちまった…)と思ったが、仮想魔物生成装置に向かって、魔法を乗せた剣を振り下ろすオリオンを横目で見て、(あっちよりマシか)と少し安堵した。
妹を溺愛するあの天才は、本当にやりたい放題の男だ。
休日のカーディン演習場での訓練でも、ヴァルドと対峙するはずのオリオンは、『ティニアに嫌われたくないし』などと勝手な理由をつけて、こちら側のペアに入ってくる。
どう考えてもおかしな話だが、一度言い出したら聞かないのがあの男だ。
仕方なく、カーディンの騎士たちに相手にしてもらうのだが、オリオンが剣を振り下ろすたびに、ティニアの魔力が不安で揺れているのが分かる。
訓練中の怪我も修行のうちだ。
たとえ相手が天才でも、その剣に敗れない実力を、騎士たちがつけるべきだと思っている。
―――だが、ティニアが兄がの暴走を不安に思うなら、あの天才を止めるべきだ、とも思っていた。
ほどほどのところで止めに入るのだが、オリオンはここぞとばかりに、ヴァルドの剣を受けてわざとらしく転がり、「ティニア……ヴァルドにやられた……」などとぬかすのが本当に忌々しい。
ヴァルドは、そんなオリオンを思い出しながら苛立っている自分に気づく。
(あんな男のことを考えるだけ無駄にだな)
そう思って首を振り、ため息をついて、思考を切り替えた。
あれだけ強大な保護魔法を受けたのは、初めてだった。
ティニアの魔力が放たれ、全身を包み込んだ瞬間―――
これまでにない力がみなぎり、試験中だというのに、心は不思議なほど静かに凪いでいた。
それと同時に、ティニアの体に負担がかかっていないかと、胸が騒ついた。
急いで振り返ったとき、彼女の髪と瞳の色が変わっていた。
柔らかな大地の色の髪と、優しい生命を感じさせる緑色の瞳のをした、『いつもの少女』は、もうそこにはいなかった。
ティニアの汲み上げた魔力が、キラキラと演習場いっぱいに降り注いでいた。
その繊細な光を集めたような、柔らかな銀髪。
そして、銀の光を含んだ瞳が、陽の光を受けてまばゆく輝いていた。
オリオンの揺れる銀髪を見て、苛立つことはあっても、心響いたことは一度もない。
けれど――銀髪のティニアは、綺麗だった。
その姿に見惚れていたのは、ヴァルドだけではない。あの時、演習場にいた連中の目は、皆彼女に釘づけになっていた。
「何?あの子、オリオン様と同じ色になってるじゃない」
「あんなに地味な子だったのに、ああやって見ると、『天才の妹』って感じだよな」
「今度、話しかけてみようかな」
「見て。色が戻ってきてるわ。……もったいないわね」
学園長室に呼ばれて緊張していたティニアには、この勝手な会話は届いていなかったようだ。
だが、ヴァルドにとっては、とても耳障りな声だった。
あの時、絶妙なタイミングで、強い砂埃が奴らに吹いたのは――きっと、あの天才の仕業だろう。
「どんなティニアでも、一番可愛いのはティニアに決まってるだろ?」
いつもの調子で呟くオリオンに、あの時ばかりは同意しかなかった。
「本当に、鬱陶しい奴だよね」
そう続けた瞬間、砂埃がヴァルドの方に飛んできた。
(この男は……)と思ったが、いつものことなので流してやった。
どうせ、ティニアがあの時ヴァルドに強い保護魔法を放ったのが、面白くなかったのだろう。
(本当に厄介な男だ)
やれやれとヴァルドは首を振った。
教室に向かう足取りは、自然と軽くなっていた。
強大な魔法を受けたこともある。
だが、あの時受けた魔法には、『ヴァルドを守りたい』という、確かな気持ちが込められていた。
浮かれずにいろ、と言う方が無理な話だ。
急ぐ必要などないのに、気づけばどんどん足早になっていた。
そして、教室の前まで来たとき。
開け放たれた扉の向こうに、ロイクの姿が見えた。
(アイツは――ティニアの婚約者だ)
ティニアにロイクの気配など感じることがなかったせいで、すっかり忘れていた。
今のティニアが、ロイクをどう思っているかなど、聞いたことはない。
――聞けるはずもないが。
スッと心が冷えた。
その時耳に届いたのが、聞きなれない女の声だった。
「ティニアさんは、ヴァルドさんと共に、成長していくべきよ」
(あの女もいたのか)とヴァルドは気がつく。
ロイクの陰に隠れて見えなかったが、いつもロイクの隣にいる女が、今日もきっちりとその位置を守っている。
(嫌味な女だと思ってたが……良いこと言うじゃねぇか)
思わずヴァルドは、ロイクのペアを見直した。
「守られるんじゃなくて、もっと強くなって、私がヴァルドさんを守りたいの」
そこで続けて聞こえてきたティニアの言葉に、ヴァルドは心臓を撃ち抜かれたように立ち尽くした。
「俺もそう思っている!」と馬鹿みたいに叫びたくなった。
喉まで出かかった言葉を、必死になって飲み込んだ。
こんなところで、いきなり告白などしたら、ティニアを驚かせてしまう。
ティニアの大きな動揺は、あの厄介な天才をすぐに呼び寄せてしまうだろう。
(ひとまずここは退散だな)
そう考えて、ヴァルドはティニアの本音を引き出してくれたロイクと、そのペアに心の中で感謝をしつつ口を開いた。
「じゃあな、ロイク。……と、そこのペアの女。俺たち、『今日は家に帰って反省しろ』ってイザーク先生に言われてるんで、もう帰るわ。試験を潰して悪かったな」
気分がいい時は、らしくなく挨拶のひとつもしたくなるものらしい。




