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真実のパン  作者: asklib
ジャパ
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地下会議

 ジャパ国。今や地図の片隅に、小さく文字だけが残される国となった。敗戦、賠償、国力の枯渇——いくつもの要因が折り重なり、国の名は文字通りの存在に変わっていた。

 慢性的な飢餓、崩壊した通貨、断続的な電力供給——そして、何より重くのしかかるのは、過去の戦争で科された国際賠償義務だった。その義務は、声を上げることもできないほど静かに、確実に、国の息の根を締め上げていた。

 巨大な賠償金の前では、教育も医療も、そして人々の希望さえも後回しにされていた。そんな時代のなかで——ノエマという若者だけに、奇跡のような機会が訪れる。

 国費による海外留学。

 「なぜ私が?」と問うたノエマに、担当官は答えなかった。ただ書類を黙って差し出すだけ。特別扱いされる理由も、選考基準も明かされないまま、彼は国外へ飛ぶことになった。

 荒廃しきった祖国の空を背に、ノエマはひとり、静かに旅立った。背負うのは、希望ではなく、祖国の沈黙だった。無表情の母親との別れ際、彼女はただ一言だけ囁いた。「帰ってきても、何も変わらないよ」

 彼が通った海外の大学には、滅多に誰も近づかない古い文献室があった。埃の匂いが染みついたその空間で、ノエマは一冊の「本」とも呼べない束を見つける。

 表紙すらなく、数枚の紙を紐で無造作に綴じたその束。だが、そこに書かれていた内容に、彼は目を疑う。

 それは、"独裁者リョウ"にまつわる断片的な記録だった。ジャパの歴史教育では、リョウは「独裁者リョウによるウルス人迫害」と教えられてきた。しかし、その古びた紙片には違う物語が記されていた。

 ノエマの目にまず飛び込んだのは、選挙演説の一節だった。「私たちには、生きる権利がある。パンを手に入れる権利がある」と、リョウは何度も叫んでいたという。

・貧困者への食糧保障を提案したが、その案は与党に奪われた。

・ウルス人への暴動について、彼自身が出した命令の証拠は一切見つからない。

むしろ彼が外交中に起きた混乱が手に負えなくなり、帰国時にはすでに収拾がつかなくなっていた。

・そして、何より、リョウは民主的な選挙で選ばれた議員だった。

 夜遅くまで文献を読み漁るノエマの指先は震えていた。自分が知っている「悪魔」リョウと、ここに描かれる「人間」リョウの間には、埋められない断絶があった。

 ジャパ政府が教育し続けてきた「独裁者によるウルス人迫害」とは、明確に異なる印象。ノエマは、文字の隙間に宿る違和感を逃さなかった。

 「本当に……この人が、人殺しだったのか?」

 胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。それは彼が信じてきた歴史の音だったのかもしれない。

 帰国したノエマの目に映ったのは、沈黙する飢餓の風景だった。

 列を作り、配給を待つ人々。だが、配られるものは何もなく、空腹のまま倒れる老人や子ども。政府はただ繰り返す——「戦争に負けたから、仕方がない」と。

だがその戦争は、もう何十年も昔の話だった。

 ノエマの視線は、かつてと違っていた。海外の豊かさを知った目は、祖国の貧しさをより鮮明に捉えるようになっていた。それは単なる経済的な貧しさではなく、魂の貧困だった。誰もが下を向き、声を潜め、明日のパンだけを考えている。

 ノエマはふと思った。「もしリョウが今の指導者だったなら、何よりも先に、パンの確保に走ったはずだ。それを否定する者がいれば、ためらいなく"人間の敵"と呼んだかもしれない。」

 ノエマは大学時代の旧友と酒を交わしている席で、海外で見つけた資料について語ろうとした。しかし旧友の目には、恐怖の色が浮かんだ。

 「そんな話、誰にもするな。聞いているだけで罪になる」

 旧友の言葉に、ノエマは初めて気づいた。この国では、「記憶」さえも統制されているのだと。

繰り返される歴史

 そんな折、ジャパにも移民出身の起業家が現れ、小さな成功を収めはじめる。食糧輸入ルートの開拓に成功したその若者は、街角に小さな食料品店を開いた。

 町の掲示板には、たちまち嫉妬と怒りの張り紙が貼られた。茶屋や集会所では陰口が絶えなかった。

 「外国人が私たちの食べ物を独占している」

 「貧しい時に儲けるなんて、不道徳だ」

 ノエマはその張り紙や噂話を見聞きしながら、戦慄した。これは歴史の中で読んだ、リョウ時代の言葉と酷似していた。

 そして案の定、その店は三日後、夜半、怒号と共に石が窓を割った。群衆が押し入り、棚をなぎ倒し、商品を奪っていく。通報も助けもなく、翌朝にはただ空っぽの店と血の跡だけが残されていた。店主の姿は、二度と見つからなかった。


 ノエマの胸に、再びあの"既視感"が蘇る。


 政治家は「暴徒化は予測不能だった」と繰り返す。

 新聞や公営放送はそれを「感情的な暴発」と矮小化する。

 誰ひとり責任を取らず、総理は「名誉ある引退」を飾る。


 ノエマの拳が、震えた。暴動の本当の原因は、パンの欠如であり、嫉妬ではない。そして嫉妬を煽ったのは、政治家たち自身だった。

 「リョウは、死んでまで罪を引き受けた。……それなのに、今の政治家は、死ぬどころか引退後も贅沢に暮らしているのか?」

 誰かと話したい。この苛立ちと、疑念と、痛みに近い直感を、共有したい。

だが、「リョウ」の名を思い浮かべて公共図書館で調べても、一般の書架に一切の資料がない。闇市の古本屋を訪ねても、"旧宅に行っただけで消息不明になった"という噂話が耳に入るだけだった。

 ノエマの胸を恐怖が締め付けた。友との会話は、密告されていたのか?彼も消されるのか?しかし、恐怖以上に燃え上がったのは、怒りだった。

 言葉の地下会議

 ノエマは悟る。

 この国は、問いそのものを禁じる国だ。街角の監視員、手紙の検閲、そして冤罪。

 大学の歴史の教室で、彼は教師として立っていた。「今日は平和条約と賠償の歴史について学びましょう」と、レジュメ通りに語る。

 その晩に研究室のなかでも信頼できる友人だけ集まった。

 ”なぜ賠償はまだ続いているのか?なぜ私たちは問うことを禁じられているのか?ジャパでは、「問いを発すること」そのものが、罪とされる。”か語りたかった。

 だからこそ、ノエマは選んだ。紙も使わない。声だけで語る、言葉の地下会議を。

 夜。信頼する仲間たちと物理学研究所の防音室に静かに集まる。懐中電灯だけを頼りに、盗聴の可能性を排除した。手を伸ばせば触れられる距離。互いの声だけを頼りに、語り合う。

ノエマは一瞬、言葉を飲み込んだが、やがて絞り出すように言った。「……俺は、リョウが"悪"だったとは思えない」

暗がりの中で眼鏡が光った。「証拠はあるのか?」低く、年長の研究員が問うた。

「……ない。だけど、あの人だけがすべてを背負ったのは、間違いない。他の連中は……逃げた」

 部屋の空気は重く、湿っていた。誰もが声を潜め、壁の向こうの気配に耳を澄ませながら言葉を選んでいた。

 照明はなく、机の上の懐中電灯だけがぼんやりと輪郭を照らしていた。 灯りの外側で、顔の見えない誰かが言った。


「……でも、リョウが生きてても、あの暴動は止められなかったんじゃないか」声は若かった。震えるような細さがあった。

「パンの備蓄も尽きてた。当時の状況見れば、暴動は避けられないさ」別の声が、やや苛立ち混じりで呟く。

「パンの匂いひとつで人間は変わるんだ。冷静でいろって方が、無理だよ……」壁にもたれた長髪の影が呟く。

「正義より、まずパン……それが現実ってやつだ」最後にぽつりと、声が沈んだ。


と議論が進んだ中、

 ノエマは「……じゃあ、正義は、いつ語れる?」と問いかけた。

 静寂が流れた後、一番若い参加者が答えた。「たぶん……死んでからだよ」

 夜の沈黙に溶けていく。誰も記録を残さない。だが、その言葉の一つ一つは、ノエマの胸に深く刻まれていった。これが本当の「歴史」だと感じた。教科書ではなく、生きた言葉の歴史。

声を上げる決意

 ノエマの地下会議は、少しずつ広がっていった。最初は数人だったメンバーも、今や数十人に増えていた。

 ある日、消息不明になっていた一人の研究員が現れた。見るからに痩せ、目の下には深い隈があった。拘留されていたという。

 「何かを知りすぎると、消される。でも、黙っていれば消されないわけでもない」

 その研究員の言葉はノエマの決意を固めた。

 次の地下会議で、ノエマは提案した。「リョウについて語るときは、『あの人』と言い換えよう。名前を口にするだけでも危険だ。」

 皆が頷く。

 そして続ける「私たちは声を上げるべきだ。賠償協定の再交渉を」

 「狂気だ」「自殺行為だ」と反対の声が上がる。

 「だが、パンを求めるだけでは、永遠に奴隷のままだ」

 「正義なきパンは、永遠の隷属を意味する」

 「パンがなければ、正義は語れない。だが、パンのために正義を殺せば——未来は、また空腹になる。」次々と議論が進んだ

 リョウが辿った道を、彼らも辿ることになるかもしれない。しかし、今度は一人ではない。

 あの人は、何を殺し、何を救おうとしたのか。

 その答えは、まだ誰の口にも乗せられてはいなかった。だが、それを探す旅が、ノエマたちの中で始まっていた。静かな革命——それは声を取り戻す闘いなのだ。

 「考えることを放棄した民は、真の奴隷だ」——それは、あの人の演説の一節だった。

 夜の闇の中、ノエマたちは筆と紙を持ち寄り、手書きのビラを作り始めた。印刷機は使えない。だが、一枚一枚、手で書き写すことで、彼らの言葉は確かに広がっていくだろう。それは遅い伝播だが、確かな種まきだった。

2025.4.25 初稿

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