百年目の亡霊
政治的陰謀と暴動の責任を背負わされたリョウの死体は、森深くの中で発見された。即座に公営放送で伝えられ、「独裁者の末路」として広く喧伝された。真偽の判断すら困難なほどの速度と量で人々のもとへ届けられた。町の掲示板や集会場は自己表現の場であると同時に、断罪と評価が即座に下される場へ変わっていた。
もはや一般市民が情報の真偽を判断することは不可能であり、各種分野別に細分化された専門家による「情報の信頼性を検証するという仕組み」が制度化された。
それは「自由」ではなく、「信頼できる解釈を与えられる」ことが重要視される社会だった。教育もまた変質していた。思考よりも即答、深い疑念よりも効率的な成果。深く掘り下げたり、疑問を抱く余裕すらなかった。
歴史の教科書には、こう記されていた。「独裁者リョウによるウルス人迫害」すべての資料は、リョウが意図的にウルス人を差別し、虐殺を黙認したとする内容で統一されていた。彼がかつて提唱した「最低生活保障法」についての記述は一切ない。それもそのはず、その法案は後に与党が「独自の政策」として再提出し、あたかも自らの功績であるかのように歴史に記された。
わずかに、リョウがその法案に「関心を持っていた」という文献が残っているが、必ず前置きがつく。「彼の非人道的行為は決して擁護できないが」すなわち、彼が何を思い、何を為そうとしたかは関係ない。「リョウ=悪」という前提に基づき、歴史そのものが構築されていたのだ。
ある日、哲学者ユウキがこの「前提」に違和感を覚える。彼は線が細く、いかにも頼りなさそうな男だった。話す声はかすれて聞き取りにくく、議論の場ではほとんど発言せず、対話を避けるように暮らしていた。だが、彼の内側には、消えない問いがあった。
彼は"一つの問い"に取り憑かれる。
「なぜ"リョウ=悪"は、反論の余地すら許されないのか?」
きっかけは、大学図書館の奥に積まれていた旧時代の公文書の断片だった。そこには、リョウが迫害の最中、海外会議に連日出席していたという記録が残されていた。
そして、ほとんど消えかけた手書きの一文。「内政は信頼できる議員に一任した。」この"信頼された議員"は、戦後裁判で一切証言せず、死刑判決後にすぐ処刑されている。なぜ、彼は語らなかったのか?
なぜ、それが調査されなかったのか?ユウキの中で、何かが噛み合わないまま、静かに回転を始めた。
ユウキは思う。「もしリョウが直接関与していないなら、何があったのか?」調べれば調べるほど、不可解な"空白"が浮かび上がる。
新聞、官営放送、学術論文、すべてが、"リョウの有罪"という一点からしか語られていなかった。そして、反対の視点を持つ文献は、短期間のうちに焚書・訂正・紛失しており、アカデミックな場でも「リョウ再評価論」は即日却下される。それはまるで、見えない壁が社会全体を支配しているかのようだった。
ユウキは、ひとりリョウの旧宅跡へ向かう。雨が降っていた。リョウが最後に立ったという官邸のバルコニーを思わせるような天気だった。邸宅はすでに風化し、今にも崩れそうな廃墟だった。だがユウキの胸には、掘り起こしてはいけない過去に触れるという、どこか滑稽な冒険者の陶酔があった。玄関の鍵は形だけで、朽ちた壁はまるで紙のように脆かった。その一角、小さな木片――かつての机の破片だろうか。そこに殴り書きされた言葉を見つける。
「ウルス人も我が国民だ。暴走を止められない私の価値とは何か」
それは怒りでも涙でもなかった。ただ、自らが何か巨大な嘘の中に立っている、という感覚だった。その言葉には、自己弁護も抗弁もなかった。あるのはただ、自責と、虚しさと、諦念だった。
彼はその文字を記録しようと、カメラを取り出した。
だが、すぐに警笛が鳴り響いた。
「立入禁止区域です。あなたは法律に違反しています」
見知らぬ男たちが現れ、カメラを没収し、フィルムを引き出して光にさらした。
彼が自宅へ戻ったとき、自宅前には警察車両が並び、家の中は捜索の真っ只中だった。到着した瞬間、彼は問答無用で拘束された。理由は明かされなかった。ただ、胸にある問いだけが、彼を締めつけ続けた。「疑うことそのものが、罪なのか……?」
留置所で、ユウキは静かに目を閉じた。
「リョウが命じていなかったとしたら?」
「なぜ、真実に近づこうとする者が、次々と消されるのか?」
やがて彼の裁判は、非公開で行われた。判決も、処遇も公表されることはなかった。
そして数週間後、ユウキという名は、政府の公式記録から完全に抹消された。彼が所有していた書類や研究資料も、政府の手によって押収され、二度と日の目を見ることはなかった。