雨のバルコニー
賠償金の支払いを外貨通貨ではなく自国通貨に変更する交渉を行った。
外貨での賠償金支払いが続くと、自国通貨が暴落して経済がさらに悪化する。
リョウはその仕組みを変えようと必死に交渉したが、相手国は容赦なく拒否した。
リョウは外交に集中していた。まずは、イシ条約の支払いを外貨通貨ではなく自国通貨に変更する交渉を行った。外貨での賠償金支払いが続くと、リョウの国の貨幣価値が落ちると支払額が上昇するためである、特に海外から多くの規制があり貨幣価値が上がる見込みはなく賠償額がさらに高くなる。リョウはその仕組みを変えようと必死に交渉したが、相手国は容赦なく拒否した。
この主張は一定の評価を得た。それはこのまま外国通貨での支払いでは賠償額がさらに増えて経済にさらなる打撃が発生し、返済そのものが滞るというロジックだった。このロジックは研究者にも支持され、意外にも戦勝国の識者も同意した。しかしながら外交はロジックで収まるような単純な話ではなく、国が崩壊してもいい、国が崩壊するギリギリまですべての富を戦勝国に捧げるという意見が最終的に通り、結局自国通貨での返済は却下された。
さらに、最低生活保障法による経済の立て直しが気に入らないのか、関税を増やすという意見まで出てきた。いやはや、このような状況では今までの外交も国民から吸い上げた資金はすべて返済に注いでいるというのも納得がいくと思い、そのような中、議員自身の収入も危なくなるなか新規通貨にまで手を付けるのも少しは合理性があるかな、と旧組織に同情する感情も生まれそうになったが、それは国民の最低生活保障にはつながらないので心の中で捨て去った。
さて、どうしたものか、日々外交に頭を抱え、帰国すらほとんどできず、内政までチェックができない状態であった。
リョウが外交に没頭する間、街では新たな緊張が生まれていた。戦後に移住してきた「ウルス」と呼ばれる移民たちが、貿易分野で目覚ましい成功を収めていたのだ。彼らは勤勉で結束力が強く、困難な経済状況でも頭角を現していた。
ウルスは元々、イシ条約締結の際に中立的立場をとった隣国の出身者たちだった。戦争で荒廃した国土の復興のために、政府が積極的に受け入れた移民だった。彼らは独自の文化と言語を持ち、コミュニティを形成していた。彼らの多くは商業やサービス業に従事し、特に国際貿易での活躍が目立っていた。
パンは手に入るようになったものの、まだ生活に余裕のない多くの国民にとって、ウルスの成功は妬みの対象となっていた。彼らの異なる風習や、彼らだけで固まる傾向も、不信感を増幅させていた。ウルスは戦争で苦しまなかった「敵の友」という根拠のない噂も広まっていた。
リョウの不在の間、内政を担当していた副首相はこの状況を利用した。彼は元々リョウの台頭に不満を持っていた古参政治家だった。若い首相の人気に嫉妬しながらも、彼自身も国を良くしたいという願いは持っていた。彼の考えでは、強大な国を作るには、国民の団結が何よりも重要だった。そして団結には、共通の「敵」が必要だと信じていた。
「我々の貧困の原因は何か?誰か?それは、賠償金という重荷を負わされながら、私腹を肥やす者たちだ!」
副首相の演説は巧妙だった。ウルスの名を直接出すことはなかったが、誰もが「ウルス」を思い浮かべる内容だった。苦しい生活の中で鬱積した国民の怒りは、徐々に新たな方向へと向けられていった。彼自身、心の奥底では、これが危険な道だと薄々感じていたが、目の前の政治的利益に目がくらんでいた。
"ウルスに対する略奪事件発生、原因はウルスへの不満解消のため"
「なんだ、この新聞記事はっ」、副首相は恐ろしさを感じた。彼の意図は単に国民の不満を逸らすことであり、実際の暴力まで望んではいなかった。しかし、一度火がついた怒りの炎は、もはや彼の手には負えなかった。
この新聞がきっかけか、たまたま不満が爆発した時期が一致したか、分からないが全国各地でウルスへの暴力行為が拡大した。もう止められない。
国民は「ウルス人は悪」とのスローガンの中、ウルス人なら暴力行為をしていい、むしろ排除していくべきだ、という過剰な行動まで出てきた。まずいのは、各地方の官僚や警察組織までその行動に対して肯定的な意見を発信して、「我々は国民の味方だ」という立場で自身の立場を有利に保とうとしたことだ。
リョウがようやく状況を把握したとき、すでに事態は制御不能だった。ウルスへの迫害は日常となり、ウルスというだけで暴行を受ける状況になっていた。リョウは急いで帰国し、ラジオ緊急放送で全国に訴えかけることにした。
「これは違う!私の目指した社会保障は、すべての人のためのものだ!ウルスも我々も同じ人間だ!」
しかし、ラジオが放送されることはなかった。ラジオや新聞はさらにこの騒動を助長するように、ウルス人の極めて小さなミスでも調べ、国民に伝えることに夢中になっており、いまさらリョウのメッセージを発信できない状態だった。
リョウは「国民は見えにくい海外からの賠償より、目の前の仮想の敵の方が分かりやすいのか…」と思った。
自分の行動が思わぬ憎悪を生んだという認識に、リョウは深く苦しんだ。彼は自分の留守中に起きたことすべてに責任を感じた。副首相の意図を読み取れなかった自分の不注意、国民の不満をより深く理解できなかった自分の浅はかさ、そして何より、ウルスの人々への暴力を止められなかった自分の無力さを。
国際社会からの非難も高まった。「人権侵害国家」というレッテルが貼られ、せっかく進展していた賠償金交渉も暗礁に乗り上げた。リョウが築き上げてきた信頼関係は、一夜にして崩れ去った。
彼は自室に籠もり、日夜解決策を模索した。副首相を更迭し、ウルス保護法を緊急で策定。ただ、議会で審議することなく却下された。
リョウの心は日に日に重くなっていった。彼が夢見た平和な社会は、憎悪と暴力の連鎖に飲み込まれていた。首相として、彼は表向き冷静を装っていたが、内心は激しく揺れ動いていた。
「私の理想は間違っていなかったはずだ。人々が飢えず、平和に暮らせる社会。なのにどうして…」
暗い夜、リョウは首相官邸のバルコニーに立っていた。あの政治家になるきっかけを得たえん罪で捕まった時と同じような雨の中、心の中で繰り返される問いに、答えは見つからなかった。
バルコニーへ落ちる雨粒が髪を濡らし、額を伝って冷たく流れた。手すりは冷たく、彼の指先に何も感じさせなかった。目の前に広がる街の明かりはぼやけ、まるで涙の中にあるようだった。暗闇の中で、滴る雨が彼の顔を濡らし、涙と混じり合っていた。
「すべての責任は私にある」
彼の静かな言葉は、雨音にかき消された。心の中では、様々な声が交錯していた。自分の失敗を認める声、それでも希望を持ち続けようとする声、そして…すべてから逃げ出したいという衝動。
彼は長い間、手すりに寄りかかっていた。雨は彼の体を容赦なく濡らし、冷たさが骨の髄まで染み通るようだった。それは彼の心の冷たさを象徴しているようだった。
リョウは深く息を吸い、目を閉じた。思い浮かんだのは、拘置所で見た老人の静かな顔。街角で倒れていた母子の姿。そして、笑顔で彼に手を振ったウルスの少女の顔。彼女は今どこにいるのだろう。生きているのだろうか。
「私には…もう…」
最後の悪あがき、「私の遺体が見つかればすぐに更なるウルス人迫害が進むであろう」との葛藤の中、二度と戻れない森の中に進む。進む彼の表情は奇妙なほど穏やかで、長い間抱えていた重荷から解放されたかのようだった。
その後の歴史は、彼を「人種差別と迫害を促した独裁者」として記録した。学校では「独裁者リョウはウルス人迫害を命令した」と教えられ、彼の名は忌み嫌われるものとなった。