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真実のパン  作者: asklib
リョウ
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影が総理になる日

 リョウの人生は一変していた。かつて影のような存在だった彼が、今や政治の世界に足を踏み入れていた。とはいえ、軍事工場勤務の頃と同じように日が落ちた後に窓際の机に向かい一人で思考を巡らせていた。なかなか考えがまとまらないときは、国内外の論文を読み漁った。これは議員だからアクセスできる情報であり、非常に参考になる。また、国内の議論より広い目線で理路整然としており非常に心地よい。

 時折不安になり自らの選択を問い直す。これは本当に自分の道なのか。胸の奥で恐怖と緊張が渦巻いていたが、同時に決意も揺るぎなかった。あの日、路上で息を引き取った老人の閉じた瞼が、今も彼の記憶に焼き付いていた。この街で飢えて死ぬ人を、もう二度と見たくなかった。

 議会に入ったリョウは、まず「最低生活保障法」の草案に取り組んだ。すべての国民に最低限の食料へのアクセスを保障する内容だった。与党議員たちの冷ややかな視線を浴び、話すら聞いてくれない。彼らの多くは戦前から政界にいる古参政治家たちで、威厳に満ちた灰色の髪と皺の刻まれた顔が、彼らの長い政治経験を物語っていた。その目は若く無名のリョウを眼中にも入れず、まるで空気を見るかのようだった。

 「若造の理想論だ」「現実を知らない」そんな声が、議会の廊下でこだまし、リョウの背後で囁かれていることを彼は知っていた。ある老議員など、わざと聞こえるように「この子は母親の乳も飲み切ってないうちに政治を語るのか」と嘲笑した。しかし彼は動じなかった。拘置所で味わった無力感と、街で見た飢えの現実が、彼の精神を鋼のように強くしていた。彼の目には今、政治家たちの豪華な昼食会と、路上で飢える子供たちの姿が重なって見えた。

 草案はシンプルだった。すべての市民が最低でもパンを買えるだけの基本所得を保証する制度。複雑な官僚制度を必要とせず、直接市民の手に届く仕組みだった。リョウは政府の構造そのものを理解し、無駄を省いた効率的な仕組みを考案していた。図書館で夜を徹して学んだ知識が、今、生きていた。

 「このままでは、民衆の不満が爆発する」

 リョウは静かに、しかし確固たる意志を持って演説した。彼の声は小さくても、その言葉には力があった。その瞳には、留置所で見た絶望と、路上で息絶えた老人の姿が宿っていた。彼の言葉は単なる脅しではなく、実際に目撃した現実だった。そして今、同じ光景が街のあちこちで展開されていることを、彼は痛いほど理解していた。

 しかし、議会の反応は変わらず冷淡だった。年長の議員たちは、明らかに不快感を示した。彼らの多くは、戦前からの特権階級の出身で、一般市民の苦しみを本当の意味では理解していなかった。国民の希望が議会の希望ではないことを、リョウは骨身に感じた。

 支持者はまだ過半数には届かず、議会では孤立無援だった。法案を可決するまでの道のりは遠かった。いや、正直なところ、法案提出すらできていなかった。リョウは時に孤独を感じ、押し寄せる無力感と戦った。夜、一人アパートに帰ると、かつての自分—誰にも見向きもされない透明な存在—に戻るような感覚に襲われることもあった。しかし、翌朝には必ず決意を新たにし、議会へと向かった。

 そして、世の中が一変した。

 国の通貨価値が一気に下落したのだ。その理由は実にシンプルだった—政府が新規に発行した通貨を議員同士で分配し、市場の需要を超える通貨が流通していたことが海外から指摘されたのだ。インフレーションが猛スピードで進み、すでに乏しかった市民の購買力は一層減少した。

 「イシ条約」での賠償支払いは外国の通貨で行う契約だったため、国内通貨の下落は賠償額を実質的に膨れ上がらせる結果となった。街にはパニックが広がり、食料品店の前には長蛇の列ができた。怒りと恐怖に駆られた市民たちの声が、議会の壁を揺るがし始めていた。

 この危機の中、与党は世論を少しでも味方につけようと判断し、リョウの提案をそのまま横取りした形で法案を提出、即座に可決させた。彼の名前で法案が出されたわけではなかったが、リョウにとって第一目標は達成された。国民の命が救われることが最優先だったのだから。

 効果はすぐに現れた。配給所は姿を消し、人々は自らの手でパンを購入できるようになった。街からは飢えて倒れる人々の姿が消え、子供たちの顔にも少しずつ活気が戻り始めた。またインフレーション下でもパンを基準に給料を上げる必要があったため、労働者の額面給与は増えていた。彼らは初めて、明日への希望を持ち始めていた。

 リョウが提出した法案ではなかったが、当初彼が構想していた内容と同一であり、それが与党に横取りされた形だと草案を一緒に作った人々が声をあげ、いまや国民の多くが知るところとなった。与党への批判的な声が広まる一方、リョウへの支持は急速に高まっていった。ただでさえ新規通貨を分け合っていた与党には明らかに不利な状態である。それに加え法案の横取りがばれて怒りが与党に向いた。通りを歩けば「リョウさん、ありがとう」と声をかけられることが増え、彼の歩く道には自然と人だかりができるようになった。

 権力の味を知ったリョウだったが、彼の胸中は複雑だった。成し遂げた喜びと共に、次への焦りがあった。パンの問題は解決したが、根本的な問題—「イシ条約」による過酷な賠償金—は残ったままだった。そして政治の世界に足を踏み入れたことで、彼は権力の複雑で暗い力学を目の当たりにしていた。それは留置所での体験とはまた違った形の闇だった。

 「リョウさん、私たちの党に来ませんか?」

 与党の幹事長が、にこやかな笑顔でそう持ちかけてきた。かつては彼を空気のように無視していた同じ人物だった。大きな体躯に高価な服を身にまとい、皮肉な笑みを浮かべるその姿に、リョウは内心で嫌悪感を覚えた。その笑顔の裏に冷たい計算があることを、彼は直感的に感じていた。彼らは民衆の支持を集めるリョウを利用し、自分たちの政治的生命を延ばそうとしているのだ。

 リョウは内心で苦笑しながらも、冷静に答えた。彼もまた、この提案を利用することを決めていた。留置所で学んだ教訓—自分の身は自分で守るしかない—を彼は忘れていなかった。

 「党首になれるなら、喜んでお受けします」

 幹事長の笑顔が一瞬で凍りついた。「冗談でしょう?」その声には、明らかな動揺が含まれていた。そして私は党首ならすぐ受けるという、一番にならないと政治は動かせないという理念をもとに即断したのだ。内心はびくびくしている。

 「真剣です」リョウはゆっくりと言葉を選んだ。「社会保障の理念は私にとって譲れません。もし本気で協力を望むなら、それだけの覚悟が必要です。もう一度言います、党首になれるなら、喜んでお受けします」

 リョウの目には、揺るぎない決意が宿っていた。拘置所で見た絶望を、二度と街に広げたくなかった。同時に、彼は自分の言葉が無謀な要求であることを承知していた。しかし、試してみる価値はあると思った。もしダメでも、彼には別の道があった。民衆の支持という最強の武器を持つ彼は、もはや昔の「透明な」リョウではなかったのだから。

 与党は連立政権で一党独裁ではなかった。リョウを党首にするには多くの障壁があったが、政治の力学は時に奇妙な展開を見せる。次の選挙での敗北を恐れた党内の若手から、リョウを迎え入れる声が強まった。老練な政治家たちは、彼らの挑戦を嘲笑したが、日に日に高まる国民の不満に、彼らも焦りを感じていた。連日の議論の末、「リョウを迎え入れた党は生き残れる」という計算が勝った。いや、彼らの中には新規通貨の横取りの批判を私が党首になればかわせるという裏の目的も感じられた。

 次の選挙を前に、与党は苦渋の決断をした。リョウを党首に据えることで、彼の持つ労働者の票を獲得する戦略だった。それは与党の幹部たちにとって、プライドを捨てる選択だったが、権力を維持するためには必要な犠牲だった。

 選挙は圧勝だった。リョウは首相となり、発言権は遥かに高くなった。彼は今、かつて自分を見下していた人々を前にして、命令を下す立場になっていた。これからは今まで以上の活動が可能になる。まずは、約束通り社会保障制度の構築に着手した。

 しかし、信頼できる情報を提供してくれる支援者が必要だった。同じ議員や閣僚は正しい情報をくれるか分からない上に、その後の行動方針にも政治力学というバイアスがかかってしまう。各分野の専門家が必要だと彼は感じていた。リョウに繋がれば深いパイプが結べると見込んだ学者たちから、次々と協力の声が上がったが、彼はそれらをすべて警戒した。

 彼が選んだ人材の採用方法は、過去に書かれた論文のみを評価基準とした。論文なら面接をするまでもなく、専門家としての資質と実際の成功事例も明確に示されている。最も引用される研究者を選んだ結果、国内外の優秀な大学教授たちが集まることとなった。彼らの中には、戦前からの権威もいれば、若くして頭角を現した新進気鋭の学者もいた。共通していたのは、社会的弱者への深い理解と、既存の権力構造に対する健全な批判精神だった。イシ条約の戦勝国側の教授も含まれていたが、これは都合がいい。相手国の内情も把握できる。

 リョウの社会保障政策は着実に成果を上げていった。すべての家庭に基本食料が行き渡るようになり、子供の栄養状態も改善された。医療へのアクセスも向上し、一般市民の生活水準は徐々に上がっていった。国民の多くは、彼を「パンをもたらした救世主」と呼び、その名は希望の象徴となっていた。

 しかし、彼の視線はすでに次の課題に向けられていた。社会保障だけでは、国の根本的な問題は解決しない。彼は首相官邸の窓から街を見下ろしながら、静かに呟いた。

 「根本的な問題はイシ条約による賠償金だ。これを解決しない限り、本当の繁栄はない」

 日が落ちて一人総裁室から外を眺め、窓ガラスに映る自分の姿に気が付き、リョウは微笑んだ。もはや透明な存在ではなく、国を動かす力を手に入れた自分がそこにいた。しかし、その力は目的のための手段に過ぎない。本当の戦いはこれからだった。

 リョウは内政を側近に任せ、自らは外交交渉に専念することを決めた。彼は信頼できる議員たちに集まってもらい、明確な指示を出した。

 「国民に飢えの不安を抱かせないことが最優先だ。細かい報告は不要だ。私が不在の間も、この国の民が再び飢えることがないよう、全力を尽くしてほしい」

 彼の言葉には、強い信頼と同時に、隠された不安が混じっていた。自分が不在の間、国内情勢がどうなるかの懸念だ。権力を手にした今、彼はその責任の重さを痛感していた。しかし、彼はその不安を打ち消した。今は国際社会との交渉に集中すべき時だった。

 「イシ条約」による賠償金の軽減か、少なくとも支払い条件の緩和—この目標のために、彼は国家元首として初めて海外への旅に出ることを決意した。窓の外に広がる街の灯りを見つめながら、リョウは誓った。

 「必ず成功して戻る。この国の人々が、二度と飢えることのないように」


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