透明な棘ー沈黙から目覚める声
国家が屈辱的な「イシ条約」を結ばされてから三年後、青年となったリョウは相変わらず"透明な"日々を送っていた。 誰も彼を嫌ってはいない。むしろ「優しい」と言われることは多かった。ただ、その言葉の裏にはいつも同じような響きがあった。「優しいけど…自己主張がなさすぎるよね」と。 彼はそれを聞くたび、うっすらと笑ってごまかす。それが最も波風を立てずに生きる術だと、ずっと信じていた。いや、波風を起こすような性格でもなかった言い訳である。
大学受験に失敗した後、ようやく見つけた就職先は兵器工場だった。「イシ条約」によって兵器産業は縮小傾向にあったが、設備の規模と過去の蓄積からして、ここが潰れることはない——そう信じた。
働き始めて一年、職場に慣れた頃には、退職者が次々と出始めていた。先を見越して動く者が去っていくのは当然だった。軍縮は止まらず、工場は徐々に"過去の産物"になりつつあった。給料は毎月のように減らされた。
「リョウ、また残業? もうやめなよ、次探しなって」 何度、そう言われただろう。
それでも彼は黙って机に向かった。減っていく人員の穴を埋めるように、毎晩ひとり、暗いオフィスの隅で事務作業を続けた。 窓の外から漏れる工場の灯りが、彼の書類を薄く照らす。天井から垂れ下がった電球が、かすかに揺れ、影だけが机に濃く落ちた。 その孤独な空間が、彼にとってはなぜか心地よかった。自分の呼吸音だけが響く部屋。埃の舞う筋が、まるで誰にも見えない彼の存在を祝福しているかのようだった。
彼は、うすうす気づいていた。「大企業だから潰れない」などという言葉に、根拠などないことを。会社が生き延びているのは過去の遺産にすぎず、未来には何の保証もなかった。 それでも彼は「最後まで残る」と心のどこかで決めていた。どこにも必要とされないなら、せめて"ここ"で生きようと。
残業を終えたある日、雨の中を一人歩いていた。帰宅途中、ふと視線を感じたその瞬間、警官に囲まれた。 冷たい金属の椅子に座らされ、尋問室でリョウは震えていた。寒さのせいだった。頭から足元まで濡れた体が、空調もない部屋の冷気に打たれていた。
強盗事件が近くで発生したという。目撃者の証言は曖昧で、「地味なスーツの男が逃げた」としか言われていなかった。リョウは、まさにその条件に当てはまっていた。 「服装が一致している」と刑事は言った。まるでそれがすべてを決定づけるように。 彼の灰色のスーツは、ごく普通の会社員のものだった。誰にでも似た顔立ち、誰にでもある体格。だが、それこそが彼を疑わせた——存在の希薄さが、今度は彼を犯罪者に仕立てたのだった。
「僕は…やってません」 その声はか細く、震えていたが、真剣だった。しかし、刑事の目はすでに彼を見ていなかった。捜査の帳尻を合わせるための「便利な駒」として扱っているのが、はっきりと伝わってきた。
かつて戦争が続いていた時代、警察は重犯罪に追われ、こんな些細な事件には手を出す余裕すらなかった。今、戦争が終わったはずのこの国では、代わりに"無実の人間を処理する"ことが、日常の一部になっていた。
留置場での二週間は、リョウの魂を内側から揺さぶった。 灰色の壁に囲まれた狭い空間で、彼は初めて「自分が何者でもなかった」という事実と向き合った。無力。無関心。無責任。それは社会の姿であると同時に、自分自身の鏡でもあった。
隣の独房から聞こえる叫び声が、心に焼きついた。
「赤ん坊が生まれたばかりなんだよ!俺、何もしてないのに…!」 声は怒号から泣き声に変わっていった。理不尽に拘束された男の絶望が、その壁を通して胸に突き刺さる。
えん罪。人の運命を弄ぶ仕組み。善悪の境界が崩れた社会。 その叫びはリョウの中に、新しい種を蒔いた。絶望という土壌の中で、小さな光の種が芽吹いた。
監視員が「お前の場所はもうない。早く出ろ!」と言い、いきなり釈放された。無罪が証明されたわけではなく、留置所が人であふれたため、強盗事件の犯人ですら軽微な犯罪として出されたのだろうか。
外に出ると、街はかつてと何も変わっていなかった。戦争は終わったはずなのに、配給は相変わらず十分ではなかった、復興は建前だけの飾りだった。
「今月の配給はさらに削減されます」 街頭スピーカーの機械的な声に、誰も顔を上げなかった。
駅前では、老人が音もなく倒れていた。駆け寄った時にはすでに冷たく、乾いた唇が最期に求めたのは、おそらく一口の水か、ひとつのパンだったのだろう。 リョウはその目をそっと閉じた。彼の死によって、誰かの配給が一つ分まわる。それが今の現実だった。 そして彼は、はっきりと自覚する。 「もう、黙っているわけにはいかない——」
留置場での囁きが、頭の中で再生される。
「上層部は国民の金を食い潰してるだけだ。賠償なんて口実だよ。自分の身は自分で守れって、そういう国なんだ」
当時は否定していた。が、今は違う。あの言葉が、街の現実と繋がった。 駅前の掲示板には、総統の満面の笑みが映し出され、「復興は順調です」の言葉が流れていた。その張り紙の下で、現実の人々は飢えて倒れていた。 「なぜ誰も声を上げない?」 そう思った次の瞬間、リョウは気づいた。 「それは、自分が今まで"声を上げてこなかった側"だったからだ」 独房で、初めて思考を始めた。疑問が問いに変わり、問いが怒りへと変質していく。
「誰かがやらなければならない。なら——その"誰か"は、自分かもしれない」
2025.4.26 改訂
- 「イシ条約」から三年が経ち、リョウは相変わらず"透明な"日々を送っていた。
+ 国家が屈辱的な「イシ条約」を結ばされてから三年後、青年となったリョウは相変わらず"透明な"日々を送っていた。