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真実のパン  作者: asklib
プロローグ
2/29

裏切られた講和と指導者の覚悟

 白旗を上げてからちょうど一週間後、私は相手国の官邸に呼び出された。

 本来なら大統領が担うべき責務だが、白旗を上げた翌日から彼の姿は消えた。逃亡したのか、暗殺されたのか、自ら命を絶ったのか—確かなことは何一つわからない。ただ一つ明確なのは、私が国の代表として扱われているという現実だけだ。この突然の重責に対する心の準備もないまま、私は重厚な会議室へと案内された。

 テレビで何度も見た格調高い壁面と整然と並ぶ国旗。しかし画面越しでは決して感じることのできない威圧的な空気が、この広大な空間を満たしていた。中央の大きなU字型テーブルの下座に案内され、私はそこで自国の未来を左右する瞬間を待った。

 相手国の大統領が入室してきた瞬間、その存在感に息を呑んだ。我が国の大統領とは比べるべくもない圧倒的なオーラを放っている。人は最初の2秒で相手を判断すると言うが、この人物は2秒で相手の意思すら飲み込んでしまうかのようだった。

 そして、一枚の紙が私の前に置かれた。 「裏切られた……」 その瞬間、胃のあたりが強く締め付けられた。頭の奥でその言葉が何度も跳ね返り、呼吸すら浅くなる。まるで心が静かに崩れていくのを、身体が先に察知したかのようだった。

 紙面に並ぶ条件は、事前の約束を完全に反故にするものだった。


 ・戦争による直接的被害の賠償

 ・軍事行動費用の全額賠償

 ・民間人への補償

 ・軍備の80%削減および海軍・空軍の全廃

 ・エリッサ地方((地名、後に記載))の割譲


 白旗を上げる前提だった「いかなる賠償も請求しない」という約束は完全に踏みにじられていた。通常の戦後処理でさえ、これほど厳しい条件は稀だ。これは我が国を軍事的に制圧するだけでなく、経済的にも長期間苦しめる意図が明らかだった。

 国民の命を本当に守れるのか。戦争よりも多くの人々が飢えで命を落とすことにならないか。苦い思いが込み上げる。そもそもこの戦争は、他国の野心に巻き込まれた形での参戦だった。我々は自ら火種を撒いたわけでもない。それなのに、今や「敗者」として一方的な責を負わされる。これが国際秩序というものか。正義とは一体どこにあるのか。

 しかし、一度上げた白旗を取り下げる選択肢はもはやない。ただ前に進むしかないのだ。

最も心を締め付けたのは領土問題だった。エリッサ地方は我が国の東西を結ぶ中心地。この地域を割譲(かつじょう)するということは、国を完全に分断する意図以外の何物でもない。資源も少なく、それ自体に大きな価値がある土地ではない。ただ我が国を弱体化させるための戦略的な要求だと理解せざるを得なかった。

選択肢はない。渋々、私はこの不条理な条件を受け入れるしかなかった。

 合意文書にサインするペンを手に取ろうとした瞬間、突如として扉が開き、大勢の報道陣が入室してきた。あまりにも段取り良く進む様子に、全てが予め計画されていたことを悟った。

 万年筆を持つ手が震える。心の重みが、その小さな筆記具を何倍も重くしているようだった。相手はそれも予測していたのか、水とタオルが準備されていた。

 じっと見つめる大統領の冷徹な視線と、焦らすような報道陣のフラッシュの中、最後の覚悟を決めてサインした。シャッター音の波が部屋中に広がる。

 大統領の表情は変わらず、ただその補佐官が「サインの証拠として」と私を立たせ、写真撮影の配置につかせた。私の表情は敗北感そのものだったに違いない。

 撮影が一通り終わったと思った矢先、大統領が突然笑顔で近づき、握手を求めてきた。外交儀礼上、私も無理に笑顔を作って応じたが、それはほんの一瞬のことだった。しかし、その刹那的(せつなてき)な笑顔をカメラは逃さなかった。


 翌日の新聞の一面には「完全な合意の元の戦争終結」


 新聞の一面には、あの刹那の偽りの笑顔が堂々と掲載されていた。読者の誰もが、あれを“和解”の瞬間だと思うだろう。本当はあれが、国家の尊厳を完全に売り渡した瞬間だったというのに。

 この屈辱的な協定は後に「イシ条約」と呼ばれることになる。地名だけを取った無機質な名称が、この日の真実を覆い隠すことになった。


 ---


 妻は、まるで何も変わらなかったかのように、日常と同じ微笑みで私を迎えてくれた。

 温かい湯気を立てる朝のスープ、静かに整えられた食卓。

 それがどれほどありがたく、また同時に耐え難いほど心苦しかったかは、言葉にできない。

 窓の外に広がる風景は、昨日と寸分も変わらない。

 それなのに、私の目に映る世界は、まるで一夜にして裏返ってしまったようだった。

 私の署名は、文字通り何百万人もの運命に楔を打った。

 今日この瞬間から始まる賠償と飢餓、分断と失望は、永遠に私の名と結びついて記録されるだろう。

 「祖国を売った男」と呼ばれるのか。

 それとも、「最悪の状況下で最善を尽くした指導者」と評価される日が来るのか。

 だが、いずれにせよ、私はもはや過去の正当性ではなく、未来に対する責任の只中に立たされている。

 真の責任とは、選択の瞬間だけに宿るのではない。

 その選択の結果と共に、国民と苦しみ、考え、立ち上がり続ける覚悟のことだ。

 たとえ敗者であっても。

 たとえ、約束を裏切られた者であっても。

 私の戦いは、まだ終わっていない。

 否、ここからが本当の始まりなのだ。

 エリッサを奪われ、国土を二分された祖国。

 傷ついた国民の心と、信頼を失った国家の芯を、どうすれば再び一つにできるのか。

 この問いに答えることが、今や最高権力者としての私の義務であり、存在の意味そのものだ。

 あの日、白旗を掲げたのは私ではない。

 だが、その白旗を受け入れた国の未来は、今この手にある。


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