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真実のパン  作者: asklib
プロローグ
1/29

灰色の空の下で ―飢えと戦争の狭間で生きる者たち―

 「パンをお父さんに届けなきゃ」

 十六歳の少年リョウは崩れかけたビルの横を駆け抜けていた。胸の中には父親を思う不安と責任感が交錯している。そこで突然、軍服を着た体格のいい男性が振り向いた。その鋭い眼差しに少年の足はすくんだ。

 「おい、そのパンを俺によこせ。俺は国のために働いているんだ」

兵士の声には疲労と苛立ちが混じり、拒否の余地を与えない威圧感があった。気の弱いリョウは内心で反抗心が湧きながらも、抵抗する勇気はなかった。「お父さん、ごめんなさい」と心の奥で何かが軋むような痛みに耐えながら呟いた。震える手で差し出すパンは、まるで自分の尊厳ごと差し出すようだった。その瞬間、胃が縮む思いだった。

 リョウの父親は足を怪我している。この怪我は戦場で敵に撃たれたわけではない。敵の姿を見て我先に逃げる際、崩れたビルのコンクリートに躓いて転倒したのだ。完全な自己責任による負傷だったが、父はその事実を自嘲気味(じちょうぎみ」)に語ったが、その笑顔の奥に、悔しさと恥じらいが(にじ)んでいた。それでも彼は、弱さを笑いに変えることでしか、家族を守れなかったのだ。弱さも含めて人間らしい優しい父親を リョウは心から愛していた。今日は少ない配給のパンを受け取った帰り道、兵士に奪われてしまったことで、空腹の父に何と伝えればいいのか、少年の心は重くのしかかっていた。

 国中で飢えが蔓延している。栄養失調で頬がこけた人々が街を彷徨い、死者を(とむら)う余裕もなくなっていた。飢えて死ぬか、敵の攻撃で死ぬか、どちらが先かもわからない絶望的な状況だ。人々の目から希望が消え、ただただ今日を生きるだけの毎日に変わっていた。道徳心さえ失われ始め、食べ物を奪い合う光景も珍しくなくなっていた。

 母親は遠くの軍事工場で働いている。たまに手紙が届くが、ほとんどが検閲で黒く塗りつぶされており、どこにいるのかさえわからない。「私は元気だよ、リョウも元気で...」とだけ読めるが、他は判読不能だ。黒塗り以外の部分も水濡れで読みづらくなっているが、それでも手紙が届くだけでありがたい。(にじ)んだインクの奥に、母の涙と、懸命に生きる力を感じた。彼女もまた、遠い場所でリョウと同じように闘っている。それは彼の宝物であり、希望の象徴だった。

 リョウは夜空の星を見上げながら思った。この星々は戦争のない国々でも同じように輝いているのだろうか。早く戦争に勝って、せめてパンを取られないようになってほしい。しかし同時に、本当に勝つことができるのかという疑念も心の奥に潜んでいた。

 同時刻、軍事最高幹部は敵国と密談を行っていた。彼の肩には国家の運命という重圧がのしかかっていた。

 「今ここで降伏すれば、賠償も請求もしない」と相手国は言う。その言葉には勝者の余裕と、わずかな慈悲が混じっていた。

 軍事最高幹部は自国の戦局が明らかに不利なことを冷静に分析していた。長引けば民が死に、短期決戦も兵士の数が明らかに少なく勝ち目はない。国民の命と尊厳、そして自らの名誉との間で、心が引き裂かれそうになりながらも、最後まで戦うか、条件を受け入れるか、判断に迷った。

 「大統領に相談します。明日の同刻までお待ちください。それまで我が国への攻撃をお控えください」と伝えると、相手国も「指定時刻までに報告がないと分かっているよな」と脅しながらも、大統領への相談時間は確保できた。そこには敵ながらも一定の敬意があった。

 最高幹部は急いで大統領の自宅へ向かった。相手国に気づかれないよう巧妙に隠れたルートを選ぶ、内心では直線距離なら一時間もあれば到着するが、敵をはぐらかすため十二時間かけて移動することにした。その間、彼の頭の中では様々なシナリオが駆け巡っていた。

 無事、追跡されることなく大統領邸に到着した。最高幹部が状況を説明すると、大統領は「お前はどう思う?」と問うた。その声には責任回避の意図が透けて見えた。

 「私の一存では決められませんが、今決断しないと約束の時刻までに相手国に結果を報告できません。条件を受け入れないと、圧倒的軍備で一気に制圧されると思われます」と最高幹部は事実を淡々と述べたが、その声には僅かな震えがあった。

 大統領は眉をひそめた。「それは私に責任を負わせる詭弁(きべん)ではないのかね。はっきり言え」

 最高幹部は心の中で、ここで降伏を受け入れないと、どちらにしろ自分の命はないと悟っていた。しかし、それ以上に多くの無辜の民(むこのたみ)が犠牲になることへの倫理的責任感が彼を突き動かした。「白旗を上げるしかありません。さらなる犠牲を防ぐためです」

 「分かった、責任はお前が取れよ」と大統領は言い放った。その言葉には臆病さと自己保身が滲んでいた。

 最高幹部は責任の押し付け合いにやり切れない思いを抱きつつ、歴史の審判は自分たちにも下されるだろうという覚悟を胸に、交渉場所へと急いだ。大統領の部屋を出る際、一刻も早く相手に報告する姿勢を見せながらも、ドアを開けっぱなしにして退室した—これが彼のできる最大限の反抗だった。些細ながらも、権力者への小さな抵抗の証だった。

 もはや敗戦は決まっている。来る時は相手をかく乱するために壊れたビルの隙間を巧みに利用して時間をかけたが、もうその必要はない。一直線に交渉場へ戻り、来た時の十分の一の時間で到着した。その道中、彼は自国の廃墟と飢えた民の姿を直視し、自分の決断の正しさを確信していった。

 交渉場所で相手国に伝えた。「我が国として条件を受け入れます。白旗を宣言します」その言葉を口にする時、最高幹部の心は複雑な感情で満ちていたが、表情は毅然としていた。屈辱ではあったが、これ以上の国民の犠牲を避けるための決断だった。

 国内の放送手段はラジオが主流だった。テレビはあったが、庶民のほとんどはテレビを持っていない。軍事物資への転用のために没収されていたからだ。情報統制の犠牲となった国民に、真実をどう伝えるべきか、最高幹部は思案した。

 大統領にラジオを通じて国民へ白旗を上げたメッセージを即座に出すよう要請したが、この場に及んでも大統領は「そんなことをしたら私の責任になるではないか」と渋った。その姿に最高幹部は深い失望を覚えながらも、驚きはなかった。

 しかし、最高幹部はこうなることを予測していた。自ら放送機材の前に立ち、歴史的瞬間の重みを感じながら、力強く宣言した。

 「我が国は本日一三時に相手国に対し敗戦を宣言しました。我が国は本日一三時に相手国に対し敗戦を宣言しました。各種部隊は直ちに攻撃を中止せよ、各種部隊は直ちに攻撃を中止せよ。なお、ラジオが聞けない者もいるため、軍部だけでなく市民もこの情報を拡散せよ」

 その声は感情を抑えていた。熱や激情ではなく、重さと事実のみによって成り立つ宣言だった。それが、この国の最後の矜持(きょうじ)だった。

 最高幹部は放送スタッフに言った。「少なくともこの音声を一週間は繰り返し放送し続けてくれ」それは命令ではなく、一国民としての最後の願いだった。

 そして、この知らせはすぐにリョウの元にも届いた。

 これで、もうパンを取られずにすむといい。

 そう思いながら、彼は今日も配給所へ向かった。

 今日、パンがなければ父は倒れるかもしれない。

 自分も、明日を迎える体力が残らないかもしれない。

 それでも行くしかなかった。

 戦争が終わっても、空腹は続いていた。



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