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クレミア・ジェネヴァレッタという女傑。

 


 ◇




「木々も木の葉も鬱陶しくて堪らないな。なあ、ジェイ。いっそのこと焼き払ってしまった方がいいんじゃないか?」

「口を慎めよ、トール。こんな森でも、皇帝陛下の所有物であることに違いはない。お前は今、それに火を放とうと口にしたのだぞ。ジェネヴァレッタ様に聞かれでもしたら、近衛としての資質を疑われるぞ!」

「……家名などお飾りの、たかだかジェネヴァレッタ伯の後妻というだけの女だろう。何を恐れるものがあるか」


 メトロジア大森林の奥深く。

 人が踏み入れる領域を超えた奥地へと踏み入る一団の姿が確認できる。


 森の恵みにあずかることのできる外縁部より少しでも奥に進めば、そこは人の手が入らない未開拓の土地。メトロジア大森林はただでさえ植生の密集性が高い上に、足場が不安定。更には出現する魔物も脅威度が高いうえに自然の地形を活用して死角から襲う程度の知能を保有しているため、部隊での連携のことごとくが封じられる。よって、この森の奥地へ踏み入れることが出来るのは個人でも魔物の対処が可能かつ、未開の地を歩くだけの技量を併せ持った人員のみである。それは並の兵士では話にならない規模であるため、必然的に人数の規模は絞られてしまう。それ即ち、人探しの基本である人海戦術が封じられてしまうと言うことになる。とは言え、メトロジア大森林に逃げ込んだ人物の捜索など、干し草の中の針を探すような所業。ただでさえ困難を極めるそれを少人数で行うなど絶望的と言う他無い。

 そのため、目標がメトロジア大森林に逃げ込んだとの報告を受けて派遣されたのは精鋭中の精鋭。絶望的な状況さえもひっくり返す実力を保有すると言われる、皇帝直轄私兵、近衛騎士が率いる一部隊。

 近衛騎士において最も美しき剣技の持ち主、『舞踏剣姫』クレミア・ジェネヴァレッタを部隊長に、トラカル・コンクス、ジェイ・エマヌエルが副隊長、以下騎士団のメンバーと共にメトロジア大森林に派遣された。しかし、事前の報告にあったような妨害も無ければ、魔物の襲撃もほとんどない、嵐の前触れを思わせるかのような嫌に静まり返った無害な森に誰もが警戒を巡らせていた。


「ジルヴァ殿の妨害があったとの話だったが、こうも何も無いと、却って……」


 鬱蒼と茂る森を、先団切って枝を切り払いながら突き進んでいくクレミアは思案の海に没頭しつつも、彼女の身に纏う近衛を示すぺリースには傷も汚れも一つ無い。

 ただそれだけで彼女の立ち居振る舞いが尋常ならざるものであると分かると同時に、同じものを身に着けているはずなのに副隊長の二人のぺリースには傷や汚れが付着しているのは、後を追う騎士たちの目にどのように映っているのか。


 鬱屈に思える森の中に居てなお気品すら感じさせる彼女の元に、一人の人物が近付いていく。トラカル・コンクスである。


「部隊長。斥候が言うには、この先に人が暮らす村があるとの事ですが……ジェネヴァレッタ夫人はどう思われますか?」

「……聞き間違いか? トラカル・コンクス。次に舐めた口を利けば、その舌を引き抜くぞ。もう一度聞く。今のは、聞き間違いか?」


 不躾な物言いに、足を止めたクレミア。

 貴族としても、副隊長としても、そして何よりも人としてあまりにも配慮の欠けた、礼の失した口の利き方に、クレミアから静かなるプレッシャーが放たれる。

 その迫力は圧倒されるべきもので、小動物であれば巣に籠り、魔物であれば身構えるほどの圧。背後に控える騎士たちの顔付きが険しくなったことを知るのは、不遜な態度を演じているジェイ・エマヌエルただ一人だけであった。


 そんな中で、目の前から吹き荒ぶ猛吹雪をものともしない様子のトラカルは、クレミアの領域に土足で踏み入るような態度を崩さぬまま言葉を続ける。


「おお怖い、怖い。ローガン卿のように、俺に手を下すつもりですか? まだ首が痛むんですよ。あぁ、悔しいなぁ……。俺に下手なことをして困るのは、あなたの旦那様であるジェネヴァレッタ卿では? ああ、もしかして……、女主人を気取っているのでしたら、勘違いも甚だしいと言うものですが」


 クレミアの気品を曇らすような汚泥の如き眼差しで、上官を上官と思っていない態度を見せるトラカル・コンクス。


 しかし、彼の実家であるコンクス家は帝国でも有数の侯爵家であることに加え、クレミアはジェネヴァレッタ伯爵家当主の後妻という立場。爵位の観点から見ればクレミアがトラカルに物言える立場でないことは正しいのだが、ここは帝都の外。政治の関与しない戦場であり、トラカルはクレミアの旗下にあるため、彼の不遜な態度は軍規違反に類するものであった。

 しかし、中立の立場であるジェネヴァレッタ伯爵家と、レオポルド陛下を手中に収めるロウリィ公爵家の強硬派に属するコンクス侯爵家では力関係が明白であり、対立関係になることは誰も望んでいない。ましてや、前妻を亡くした後で娶られ、まだ子も成していないクレミアが問題事だけを担いでやってくるなど、ジェネヴァレッタの縁故にとっても望ましくないことだろう。最悪の場合、クレミアに全責任を押し付けて離縁を叩き付けられても文句は言えない。そうなればクレミアは晴れて曰く付きの女性となる。現時点で力を持つロウリィ公爵家に仇なす存在として社交界で噂が広まれば、多少剣の扱いが上手いことすらも仇となり、嫁の貰い手などなくなってしまう。貴族の世界では、剣の腕よりも、器量と愛想の方が重視されるのだ。

 ゆえにクレミアは己を律して溜め息を吐くのを堪えるのだが、そうして眉間にしわを寄せていると、クレミアが引き下がったことを理解したトラカルは増々調子に乗って顎を持ち上げる。


「言っておきますが、俺が忠誠を誓うのはあなたでも、ローガン卿でもない。ロウリィ公爵様こそが俺たちの主君であり、守るべき御方。間もなくこの国の頂点に立つ御方である。そんな御方に楯突こうなど、冷静なあなたには真似できないでしょう? もしそうなったとしても、貴族としての役目も果たせず、剣を振ることに人生を捧げた行き遅れのあなたなど、俺達は歯牙にもかけない。女だからと重宝されて、いい気にならないことだ。これはあなたの、ひいてはジェネヴァレッタ卿の為を思って言っているのさ。少なくとも僕のこの話は、アドバイスだと思って受け入れる最低限の素直さを持ち合わせた方がいいですよ。堅物さん?」


 トラカルの物言いは、汚い言葉を浴びせ掛けられているクレミアのみならず、彼女の気品に魅入られた後続の騎士たちからも物言いたげな目線を集めるものであった。


 彼の言うような男尊女卑は貴族優位の社会的思想と同じで、平民や女は出しゃばるな。黙って庇護される立場であれ。だから教育の機会すらも必要ない、という風潮は決して珍しいものでは無い。ましてや男尊女卑など、平民でも取り入れられやすい風潮であるため、女性だからと言う理由だけで仕事を断られるというのもよくあることだった。

 しかし、努力は男でも女でも、貴族でも平民でも関わらず、平等に機会を与えてくれる。


 クレミアと言う少女には剣の才能と優れた生得魔法があり、それを見込んだ両親は彼女に更なる努力の機会を与えてくれた。

 そうして積み重ねてきた努力によって周囲を認めさせ、最後にはこの国の頂点、皇帝陛下にも認められて近衛騎士にまで上り詰めた。クレミアの活躍を見て、心を躍らせた者がいる。魅了された者がいる。奮起するに至った者だっている。彼女の活躍は次世代を担う女性たちの躍進に一役も二役も買っている。

 現代社会を生きる上で、上を目指す全ての女性たちの向上心の傍らには、女傑クレミア・ジェネヴァレッタの影が必ずあると言ってもいい程の女性である。


 そんな女性を一つの価値観で差別するなど、論外だと言い切れる。


 現に、彼女を慕う騎士たちの中にトラカルの言い分に首肯し、今すぐ隊長を降りろと不平を口にする者は現れない。それは誰も意気地がないからという訳ではなく、誰もがクレミア・ジェネヴァレッタを尊敬しているがゆえの風潮。クレミアの努力によって築かれた信頼こそが、彼女の立つ地盤であった。

 その場所は、どんな風が吹こうと、どれだけ大きな波に襲われようと、誰も彼女の足を浚うことなど出来ない程に強固なもの。

 彼女の気品溢れる立ち居振る舞いは、決してトラカルの言うようにただ剣を振って来ただけで身に付けられるものではないことは、一度でも剣を握ったことのある者であれば誰でも分かる。分からない者は、分かりたくない者。信じたいものしか信じられない子供のような人物だけが、クレミアの本質を見抜けないのだ。

 彼女の実力に繋がる努力とは、選ばれし上級兵である騎士ですらも凌駕する程の努力が積み重なったものだ。それを貶された今、たちまち漂い始めるこの場の空気を前に、トラカルを止められる立場にあるジェイは渋い顔をしたまま動くことが出来なかった。彼の意見に同調することも、彼の意見や態度を制することも出来ない。

 それは偏に騎士たちの存在が大きかった。


 ──次に不用意な発言が飛べば首を狩る。


 とでも言わんばかりに牙を覗かせる騎士たちを前に、ジェイ・エマヌエルはただその場に縛り付けられたかのように固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。


 しかし、自分のことでそんな空気が漂っていることなど露知らず、当人であるクレミアは、格付けは済んだとばかりに背を向けようとするトラカルに一つ、声を掛けるのだった。


「……人を、斬ったことはあるか?」

「は? 何を急に」

「その手で、人を斬ったことがあるか、と聞いている。上官の問いに、貴様は問いを返すのか?」

「なッ……?!」


 ロウリィ公爵の推薦によって人数の減少した近衛の補充に、人員として割り込んできたトラカルやジェイと言った面々は、騎士の正規手順を経ていない。


 本来であれば兵士として戦場に駆り出され経験を積んだ後に、騎士の従卒に任命されて騎士としての心構えを学び、そしてやがて騎士に叙任され陞爵されるというのが正規の手順なのだが、彼らは生得魔法の特異性と騎士となるべく英才教育を積んだ実力だけが評価された人選であるため、騎士任命の最少年齢を大幅に更新したことだけが取り柄の存在である。その実力も、合格規定の最低ラインだ。ここにいる騎士と試合をすれば、勝率は二割を切るだろう。

 それ即ち、勲章であるはずの近衛騎士なのに戦場に立った経験が欠落している、というアンバランスな立ち位置にあるのが彼ら新規入隊の近衛騎士なのであった。

 当然、それらの事情は近衛騎士であるクレミアらには共有されており、彼女はそれを知った上で問いかけたのだ。


 経験値が欠けていることは彼らにとって突かれて痛い腹であることは周知の事実であり、それを隠すかのように家柄と自分達の背後をひけらかしているのであれば、彼らの物言いがまるで子供の言い分のように聞こえてくる。

 しかし、どれだけ卑怯な手順だとしても近衛騎士としての身分を手にした以上、子供のままでいられるのは困る訳で。


「肉を裂く感覚。袋から噴き出す血の臭い。斬り付けた己が身に跳ね返る敵の血飛沫。刃にこびりつく血と脂。溢れ出る臓物。体が裂け、臓物が漏れ出しても、それでもなおも動く敵……。お前は、それと対峙する覚悟があるのかと聞いているんだ」

「っ……、ハッ! 俺を脅す気か? だとしても生温い! 獣や魔物の狩りなど、いくらでも積んできた! 今更人を斬ることに怯える程、初心では無いんでなぁ。そうだろ、ジェイ!」

「あ、あぁ。そう、だが……」

「そうか。ならば期待している。……斥候、道案内を頼んだぞ。総員、村らしき場所まで、突き進むぞ」


 当然ながら、二人に人を斬った経験など、無い。

 けれどもそれが弱点だなどとは思っても居ないトラカルとジェイがそう啖呵を切ったのを見届けた後でクレミアは一瞥し、森の中を草木をかき分け、突き進んでいく。


 足を止めていた部隊は、クレミアの合図で動き出す。


「期待してるぜ、新入り」

「腹に物詰めない方が身のためだ」

「ここじゃ誰にも甘えられないから」


 まるで一杯食わされたかのように呆然と立ち尽くす二人の横を、通り過ぎていく騎士隊の面々から声がかけられる。

 そのどれも、とても助言には聞こえなくて。


「どいつもこいつも……っ。後悔させてやる……! 行くぞ、ジェイ!」

「ああ。俺たちの実力を、分からせてやろう」


 トラカルが歯噛みする音は行軍の足音に掻き消されていく。


 クレミアと長年共にしてきた騎士隊の誰からも期待されておらず、むしろ軽んじられているという事実は、家柄だけでのし上がって来た二人には何よりもプライドを傷付けられるもので、彼らの憐憫を含んだ声音や視線が何よりも腹立たしく思えて仕方が無かった。


 結局、クレミアの言いたかった内容が分からずに苦々しい顔を見せるトラカルもまた、盛大に舌打ちを一つした後、その一団に紛れて森の中を突き進んでいく。


 そうして歩き出してから間もなく。一団は人の活動が知れる拓けた土地へと踏み入れる──。





補完という名の、言語解説。


【騎士過程】


帝国国軍の上層職に就くための過程。

佐官の兵士が昇格すると、騎士となるために従卒の立場に上がる。騎士に従するのは名誉とされているため、一般兵士よりも遥かに格の高い立場である。従卒として騎士の心構えを学び、帝国への忠誠を強固なものとした者から、正式に騎士の身分を与えられる。それと同時に騎士は一代限りの爵位である騎士爵を与えられるため、平民が貴族の仲間入りを果たす唯一の手段がこの騎士過程でもあった。

また、騎士の更に上の立場である近衛騎士であるが、近衛騎士もまた騎士と同じ立場であるため実質的な上下関係は無い。しかし、近衛という名誉ある称号を保有する者は傅かれる立場であることにも違いは無い。

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