私のためにあなたを。
◇
「……元気、ありませんか?」
隣から、こちらの顔を覗き込んで様子を伺う声に、私はハッとして慌てて取り繕う。
「えっ、だ、大丈夫ですよ! うん、元気。……元気、だから」
自分でも分かるくらい上の空だったことを思い出して笑みを張り付けるが、どうしてもぎこちなく引き攣った笑みになってしまう。
男爵家として貴族の振る舞いを学ぶために招かれた家庭教師に一番初めに教わるのは、姿勢と表情筋のコントロールである。とりわけ愛想笑いは上手いに越した事が無いと言われる程で、貴族の社会は見栄と矜持と余裕で作り上げられているものだと教わった。
だからどんな苦境でも笑顔は浮かべられるよう訓練されているはずなのに、今だけはどうしてか、表情筋が言うことを聞いてくれない。
今の私は、到底人には見せられないような顔をしている。
隣を歩くブランから向けられた気遣うような視線が、痛いくらい。
「少し、休みませんか? 私も、疲れたので」
「えぇ……」
ウェイドさんから完全なる拒絶を突き付けられた日から、早くも五日が過ぎた。
あの後から今日に至るまで、ウェイドさんとは目も合わせてもらっていない。
今日も合わせてもらえなかった、今日も謝れなかった、と夜毎に反省を繰り返す日々は、私の精神を摩耗させていた。
メアさんはメアさんで、あの日から四日後、即ち昨日の時点で、同行を申し出ることを決意した村人たちに向けてイムさんの小屋で語られた内容をそっくりそのまま諳んじるかのように条件の開示を行っていた。結果、村人たちは大層に猛り狂い、同行の意を示していた村人たちでさえも手のひらを返して拒絶し始め、ウェイドさんに怒りの矛先を向ける始末。
そんな中でも、ウェイドさん達に付いて行くと表明する人たちはいて。あの場でことごとく反発する素振りを見せていたエディさんや、初めから協力的であったイムさんやウォルマンさん、ウェイドさんに救出された女性たちや、メアさんに師事するような看護助手の女性たちなど、村人の中でもほんの一握りの人物たちが条件を飲み、付いてくることになった。同行者となった彼らの心の内は分からないけれど、それだけの人数からウェイドさんが認められたという事実は素直に喜ばしいもの。
けれど、住人の総数から見れば同行を表明したのは僅か四割。
追手の脅威を知る私からすると、「それだけ」と言う感想を抱かずにはいられなかった。
村を発つのは、今日から三日後のこと。
余りにも性急過ぎると言わざるを得ない日程だけれど、元より荷物の無い村の住人の多くは準備に手間取らないで済む一方で、彼らには踏むべき段階が存在していた。
それこそが、私とウェイドさんに隔たりを生むに至った、彼らの『再覚醒』である。
今現在、ウェイドさんはほぼ休みなく、同行を申し入れた人々に忌々しいはずの右眼の力で彼らの呪いを進行させている。
右眼の力を使う度に、彼は傷付いているのだろうけれど、その有様を私は知る由もない。
何故なら私は、ブランを含めたデゲントールによる被害を受けた女性たちの補助をメアさんから言い渡されたから。
追随を申し出た以上、彼女たちもベッドの上で寝ているばかりではいられない。時間が無い中で少しでも森に慣らすためにこうして踏み入っているのだけれど、これはつまり、情緒の不安定な私は体よくウェイドさんの元から引き離されたのだと言える。
「リリスさんは……私たちのことが、お嫌いですか? いえ、正確には……私たちのことが憎い、ですか?」
「ええっ?! だ、断じてそんなこと無いですよ。どうして、急にそんなことを?」
木漏れ日溢れる場所にある腰掛けるに丁度いい木の根に腰掛けた途端、ブランの口から聞かされた問いに、私は意図が読めずに目を見開きながら否定する。
そんな素振りを取った記憶も、感情さえも抱いた記憶がなくて、私はどこか勘違いさせるような行動を取っていたのかと自分の行動を顧みていると、ブランも慌てた様子で否定する。
「ち、違くて……! ええと、ブランが言いたいのは、ええと……」
「ゆっくり、落ち着いてからで良いですよ」
自分でも言いたいことが分からなくなっているのだろう。隣で慌てふためく様子の彼女を見て、ふと思ったことがある。
……彼女のような可愛げがあれば、ウェイドさんはもっと私を意識してくれたのかな。
なんて、不毛な感想だ。
孤児院で育ち、同じ境遇の年下の子を多く抱えていたウェイドさんは、子供が好きだ。それが転じて、ブランのような柔らかく、幼さが残る雰囲気の方が彼は好きなのではないかと、こちらを見向きもされない度に、つくづく思う。
貴族の女子たるもの、強く在らねばならない。
列強たる帝国貴族の一員になるためには、誰かに愛されるのではなく、誰かを愛し、守るために力を振るいなさいと教わって育てられたからこそ、帝国貴族の社会には強き女性が多く存在している。それこそ、フュリーズさんや、ライラさんのように、芯ある強さこそが帝国の女性であると言われてきた。
けれども私には強き者に比肩する程の逞しさは無く、かと言ってブランのような柔らかく、守ってあげたくなるような可愛げも無い私には元より、誰かに愛してもらうことも、誰かを愛することさえも分不相応だったのではないかと、痛感させられる。
他にも、街に一歩出れば可愛らしいだけでなく愛想も良い酒場の看板娘を始めとする女性がたくさん目に留まる。
私のような、街娘にもなれなければ貴族の女主人にさえ手が届かない中途半端な存在は、彼女たちを羨むことしか出来ないのだ。
そんなことを考えていると、ブランは穴が空くくらい私の顔をジッと見つめてくる。
「……今です」
「へ?」
「今のようなお顔を、リリスさんはブランたちと一緒に居るとき、良く浮かべておられましたから、ブランたちのことを良く思っていないのかと……」
言われて、ぺちぺちと自分の顔を触る。
帝都の邸宅に置かれた大鏡を覗く機会などすっかり無くなってしまったが、今再び覗けば、そこに映り込むのは変わり果てた自分の姿だろう。
食べる物にも困る環境のお陰で肌は荒れていて、日の光が出ている間にしか活動できない環境により少し焼けているかもしれない。化粧をしている余裕はなく、荷物の奥に押し込められた化粧道具も、すっかり埃を被っている。
貴族として褒められた立場では無いことも分かっている。お父様が、お母様が宝石のように育ててくれた白磁の肌も自慢ではあったけれど、私が今ここに居ることを後悔したことは、一度だってない。……しそうになることは何度もあった。今だってそうだ。
「違うの。ブラン達のことで思い悩んでるわけじゃないの。勘違いさせたなら謝るわ。ごめんなさい」
「あ、謝らないで下さい。ブランが勝手に邪推しただけですから。となると、考えていたのは……やっぱり、救世主様のことですか?」
一言で言い当てられたことに息を飲むがしかし、分かりやすかったであろうことは容易に想像がつく。
救出されてからずっと、私はブランの傍に居た。
専門的な知識も無く、看護助手の方々の手伝いをする程度の一週間だったけれども、その間ずっと、ブランとは多くの時間を共有していた。
お陰で「ブラン」、「リリスさん」と呼ぶ仲に発展しているが、いつも私は彼女の悩みを受け止める側だった。
そんな立場の私がいつだって暗い顔をしていれば、そう受け止められてもおかしくはないだろう。
「……」
デゲントールによる被害を受けた女性たちの中で、最も回復が早いのはブランである。
あの男の最後の被害者ということで、被害を受けた期間自体が短いと言うことは必然的にデゲントールによる精神干渉も深くなかったということになる。お陰か、彼女はそう時間を掛けずに出会ったばかりの頃のような溌溂さを取り戻していった。
それでも、彼女はまだ異性を前にするとすっかり縮こまってしまう。あのウォルマンでさえも、前にすると彼女の意思に反して手が震えるのだそう。ブランであってもそうなのだ。他の女性たちに至っては、夜に明かり一つ無い森を歩く方が安心できるという人もいるくらい。
そんな彼女たちが面と向かっても怯える必要の無い存在こそ、救世主と呼ばれるウェイドさんだ。
村人の救いでもあったデゲントールを排斥したことに加え、メアさんの開示した条件も相俟って、彼が救世主などでは無いことは村の中で周知の事実と化した今でも彼を救世主と呼ぶのは、彼女たちだけ。彼女たちにとって、ウェイドさんは、救世主で間違いないのだから。
女性たちの中ではウェイドさんとメアさんとで救世主と呼ぶ相手が変わるようだが、ブランは初めから一貫してウェイドさんを救世主と呼んで慕っていた。
「……あぁ、そっか」
ウェイドさんは、自分が必要以上に持ち上げられることを厭う。
特別騎兵の役職で機竜小隊に所属したときも、自分はただの一兵卒だから、と言って謙遜を憚らなかった。
だから救世主と呼ばれるのを拒否するところを、彼は彼女たちには呼ばせることを許していた。
それが必要だからと言うのは頭では分かっていたのだが、悪意を感じさせない様子でこちらを見上げるブランを見て、気が付く。
彼女を見て私に無いものを夢想するのも、つまるところ、天真爛漫で庇護欲を駆り立てる女性的な魅力あふれる彼女に、私は嫉妬していたのだ。
羨ましく思うだけならまだしも、私はこんな限界極める環境の中で仲良くしてくれたブランに対して、あまつさえ嫉妬と言う醜い感情を抱いてしまった。
自分が上手くいかないことを、人の所為にしようとしていたのだ。
輝かしいほどに純粋なブランを前に、自分の影は余計に濃く見えてしまって。
「私は……。私は、ウェイドさんが好きなんです」
ポツリと零した声に、ブランは「知っています」とだけ返してたおやかな微笑を携え、私の聞くに堪えない独白のようなものに黙って耳を貸してくれる。
「……あの人の、決して無類の強さを誇るわけではないのに優しさだけで強く在ろうとしたり、その優しさもちょっと不器用だったり、そのくせ、笑うと年相応で可愛かったり、一途なところが、愛おしくて。普段は周囲に心開かないように見せているのは自衛のためで、一度懐に入れれば、国を敵に回しても良いくらい甘くなるところが好き。そんな家族思いなところが、本当に大好きなんです。……そんなウェイドさんが、堪らなく、好きで。でも、私の失言でウェイドさんには失望されちゃって、もう、長い間まともに会話も出来てなくて……。それなのに、こんな状況でも好き、っていう気持ちは溢れるばかりで、ずっと胸は苦しくて……。彼にいくら冷たくされても、彼が好きって気持ちだけは無くなってくれないんです。どうしようもなく好きで好きで好きで、堪らないくらい愛しているんです。だから……素直に彼に好意を伝えられるブランが羨ましくて、顔に出てたんだと思います」
言いながら、両手で顔を覆い隠してしまう。色んな意味で、人に見せられる顔ではないから。
それに、一度でも口にしてしまえば、彼への思いはこんこんと湧き出る湧き水の如く溢れ出て止まらない。
それゆえに、現実とのギャップを前に打ちのめされてしまう。
拒絶を突き付けられ、頑なに無視をされても尚、彼への恋愛感情は収まるどころか増すばかり。そんな時に想い人を慕う相手が現れれば、口にしなくていいことまで口にしてしまう。
そうやって反省を繰り返していると、隣からやけに熱い視線が注がれているのに気が付く。ともすれば「何言ってんだ」と呆れられて、冷たい視線だって覚悟していたのに。
「──」
「ご、ごめんなさい、急に変なことを言って。忘れてちょうだ──」
「す、素晴らしいです!」
眼前を覆っていた手を払って隣を見ると、そこにあったのは瞳に無数の星を浮かべて文字通り目を輝かせているブランが。
彼女は私の手を取り、自分の傍に引き寄せた。
「救世主様を思うリリスさんのお気持ち! 実に素晴らしいです!」
「……相手にされない恋なんて、気持ち悪いものでしょ?」
「そんなこと、そんなわけがありません! 人を好きになる気持ちに、悪いと思える世界は淀んでいます。ブランには、リリスさんの気持ちはとても澄んでいるように聞こえましたよ。ブランも、お父様とお母様をお慕いしているから分かります。例え離れているとしても、思いが消えることは決してなく、むしろ時間の経過と共に募っていくばかりですもの」
「そう……そうなの! それで、少しでも彼のことを考えていると胸が苦しくなるんだけど、でも、やめられなくて」
「そうなると、安心するための共通点を探したりしますよね。ブランの場合は、この髪留めです。これは、ブランが十になった時にお父様が買ってくれたもので、それからずっと、今に至るまで、肌身離さず一緒なんです。これを付けていると、お父様の愛を傍に感じられて……」
この村にいる呪い人の人は皆、総じて家族や仲間に敬遠され、迫害され、追い出されるように世界から爪弾きにされた人達。そんな環境の中でも、ブランは父親の愛を疑わず、いつか必ず取り戻せると信じている。
──羨ましい程、純粋で、可憐な女の子。
知れば知るほど彼女の魅力に惹きこまれると同時に、自分の醜さが嫌になる。
ウェイドさんから贈り物をもらったことは、当然ある。彼はそういう人だから。でも、貰ったものは、全て消え物。移り気な気配一つ感じさせないウェイドさんの一途な姿はそれだけで胸を高鳴らせたが、今になって思えば無理を言ってでも何か一つでも強請っておけばよかった。
だって、あんなにもブランが幸せそうなんだもの。
彼女は、敏い子だ。私の抱く思いに気付いているのか、ブランは軽々しく触れるような真似はしない。私とは違って。
「……お揃いの物を何か、探してみては? それがあるだけできっと、安心できるかもしれません」
躊躇うように言葉を選んだブランに頷き返すのが精一杯の私は、そのまま彼女を診療所へと送り届け笑顔で別れた後、覚束ない足取りで村の中を彷徨い歩く。
村の中ではウェイドさん達に付いて行く随行組とこの村に残る残留組とで分かれ、ギスギスした空気が漂っている。
その空気にあてられた、という訳ではないけれど、胸の中に立ち込めた暗雲が広がりを見せているのが分かった。
「……私と、ウェイドさんを繋ぐ、もの」
これまで私とウェイドさんを繋いでいたのは、いわゆる関係性だった。
士官学校時代は学生、同級生としての繋がりが。
学徒としての繋がりは卒業して一時は切れたものの、間もなくして機竜小隊の一員として、しかも彼は騎兵、私はそれを導くオペレーターとして繋がっていた。
騎兵とオペレーターは、一蓮托生。
古代の遺物であるアーティファクトを操る以上、互いに求められるのは特殊な技能。
私の担うオペレーターの業務は、数多の機器を操作し、天候、風向き、周囲の反応など、機竜の周辺状況をつぶさにチェックして随時機竜の動向を伺う。そうすることによって、頼るものなど無い上空で機竜を真っ直ぐに飛ばすことが出来るようになる。
オペレーターの存在しない機竜とは無目的に空を飛ぶ鳩のようなもので、簡単に打ち落とされる。上下左右三百六十度全てを感知可能な超感覚でも持ち得ない限り、まともに飛翔することすらもかなわないじゃじゃ馬なのだ。オペレーターがいて初めて、機竜はエルフの竜騎兵を凌駕する動きが取れるのである。
また、それは逆も然りで。
オペレーター単独では機竜を動かせない。
どちらが欠けても機竜は十全に働かず。ゆえに、騎兵とオペレーターは一蓮托生。
それはこれまでも、これからもずっとその関係性で時は進み、やがては男女の関係に、と夢を見ていた私が現実を思い知ったのは、つい四ヶ月も前のこと。
いつまでも変わらずにはいられない。
動かずにいれば関係は終わっていくばかり。
私だけが以前の感覚を捨て去れずにいる中で、世界はどんどん変わって行ってしまって。
では、その変わった後の世界で私とウェイドさんを繋ぐものは何かと聞かれて、すぐに答えが出なかった。以前なら嬉々として、それこそ誇りだってあった関係性も、最早過去の産物。
今や私とウェイドさんの間にあるのは、歪な確執だけとなってしまっていた。
「繋がりが、欲しい」
髪留めを見て微笑んでいたブランのように、私もウェイドさんと繋がりを確かめられるような物が欲しい。彼女のように、見るだけで、身に付けているだけで安心感を抱ける何かが欲しいと、強く願わずにはいられない。
いくら荷物の底をひっくり返しても、彼との思い出の品は見つからない。当然だ。そんなもの、持っていないのだから。
いくら探しても見当たらないとなれば、余計に求める力は強くなる一方で。その勢いは、最早渇望と呼んでも差し支えない程に瞬く間に肥大化していく。
「……繋、がり」
貴族間での繋がりと言えば、血だ。
侯爵以上の爵位を持つ家系には、家系図を辿れば必然的に皇族の血が混ざり合っているのが分かる。それは、帝国と貴族の繋がりを担保する役目も担っていて、決して裏切らないという忠誠の証とも呼べるほど強固な繋がり。
また、それ以外の貴族であっても横の繋がりや結びつきは血で行われており、私の母、シャルル・アルバートは南の鉱山地権を保有する子爵家、ロッゾ子爵の末の娘である。そのため、アルバート男爵領では他領と比べて鉱物資源への関税が緩かったり、逆にロッゾ子爵領には物資の支援を行ったりなど、貴族の政略結婚とは横の繋がりを強固にするためのもの。上のお姉様二人の婚約が決まったのはつい一年前ほどのことで、いずれは私もそれに追随するものかと言われていましたが、私にはその時点ですでに心に決めたウェイドさんが居ましたから、お父様やお母様は大層困らせたことでしょう。
今もウェイドさんと一緒になりたいという感情一つで馬と共にここまで馳せ参じているのに、結果、拒絶されるという余りにも不甲斐ない現状。
どうすれば彼に受け入れられてもらえるのか。
どうすればウェイドさんがこちらを見てくれるのか。
いくら考えても望み薄な答えばかりがチラつき、胸の中で楽な方法が……邪が溢れてくる。
「お揃い、か」
右を見れば、呪い人が。左を見れば、呪い人が目に入る。
村の中には私とメアさんを除いて、全員が世界から爪弾きにされた人、その身に呪いを受けた呪い人ばかりがいる。
「呪い……」
呪いとは、紫晶災害の後遺症。
そして紫晶災害とは、ウェイドさんが巻き起こしたとされる人為災害。
──もしもこの身に、呪いを宿したのなら。
「ああぁ──」
そんな考えは、余りにも冒涜的だ。
呪いで苦しみを受けた、目の前の人々を愚弄するような考えだ。
好きな人に振り向いてもらうために、体に呪いを受けるだなんて。
そしてそれが現実的であることに、笑みを浮かべる自分の醜さに。
もし、もしもだ。
もしも、私が呪い人になったのなら。
──彼は……ウェイドさんは、ブランに向けるような慈しみを、私にも向けてくれるようになるかもしれない。
そう思うと、胸の高鳴りが抑えきれなくなる。
最早、呪い人になることを厭う感情など自分の醜さだけ。
そんなもの、振り払うの容易くて。
それ以上、悩む必要は無かった。
ウェイドさんとの繋がりを得られるのであれば、どんなことだろうと許容できる。私の覚悟は、初めから決まっていたから。
私が向かう先は、彼の元。
ウェイドさんは今、三日後の出立に向けて、希望者の再覚醒に必要な、呪いの進行を享けているはず。
そしてその目の力は呪いを進行させるだけでなく、呪いを生むとも言われている。
現に、呪い人では無かったデゲントールを呪い人に変え、呪いを第二段階にまで進行させたのだとそれを確認したメアさんから聞かされている。
ましてや、目の前でシャーリィさんが石に変えられた光景を私は目の当たりにしている。ウェイドさんの右眼の力がどんなものかなど、懐疑的な呪い人達よりも知っている。
「……隠匿魔法」
だから私は、小屋の前で己に課せられた生得魔法を行使することに、何の躊躇いも無かった。
デゲントールが使っていた小屋の、そのまた一室。
そこで、ウェイドさんは作業にかかりきり。それを知っている私は姿を隠し、誰かが出入りする隙間を縫って入り込むのは困難だが、出来ないわけじゃない。
──もう一度、ウェイドさんが私を見てくれる。
その為ならば私は、彼が傷付いてもいいとすら感じてしまっている。
私に傷を付けたことに傷を負ってくれるのであれば、むしろそれが繋がりになる。
そしてそれは一生彼に残り続ける。
そう思うと、恍惚な感情すら生まれてくる始末。
最早私のこの足を動かしているのは、繋がりを求める衝動そのものだった。
理性など、とうに置き去りにした。
「ふ、ふふ」
次にこの扉が開かれたら、私は──。
自然と漏れる笑みは、目先の欲求に駆られて生まれた笑みで、既に私は周りのことなど見えていなかった。
だから、背後に近付く陰に、気付けなかった。
「リリスちゃん」
「──ッ?!」
くんっ、と体が弾かれるように振り向いた先、そこに居たのは、人差し指を口先に添え、私の手首を掴んだメアさんだった。
「──」
……刹那、掴まれた手首を振り解こうとは、思えなかった。
メアさんの視線を受けた私は、先程まで我が身を包んでいた高揚感が嘘のように消え去り、サァッ、と血の気の引いた頭は真冬の白景色の中に一人ポツンと取り残されたような感覚に包まれる。
遅れて、私は自分の仕出かそうとした事態に理解が追い付き、唇を震わせる。
「ち、違う──」
「声を出すと、中のウェイドにも聞こえるよ?」
絞り出した声は耳障りな程に掠れていて、真っ先に出てきたのはみっともないくらい自己保身に走った言葉だった。
それを封じて、メアさんは私の腕を引いて外に連れ出す。私はそれに抵抗する意味すら見出せなかった。
「自分が何を仕出かそうとしたか、自覚はあるかい?」
「……はい」
「泣かれると困るんだよね。でもまぁ……彼にべた惚れの君を知っていながら知らない顔をしようとした僕にも責任の一端はある訳だけども」
人目に付かない小屋の陰で、メアさんと対峙する。メアさんは私を叱るわけでもなく、侮蔑の言葉を投げかけるわけでもなく、ただ、反省するように眉を寄せていた。
私はと言うと、喉を震わせ、濁声になった声で頷く。
泣いちゃ駄目だと分かっていながら、私の目からは涙が溢れて止んでくれない。
果たしてこの涙は、どちらの意味の涙なのか。
「羨ましいねぇ、そんな風に人を好きになれるってのは」
「怒って、ないんですか?」
「今回のは、あくまでも未遂だ。注意で留めるさ。賢い君なら、繰り返すとは思えないからね。それに、君の気持ちも分からないでもないのさ。もし君を罰するのであれば、それを見過ごそうとした僕も同罪だ。村人に傍観者としての罪過を論った身である僕が、責任を果たさないわけにはいかないのさ。だから、このまま見逃してもらえると僕としても責任を果たす必要が無く、面子が保たれるわけだ」
「……ですが」
「ですがもへったくれもないの!」
私のやろうとしたことは、恋する人の風上にも置けない悪事。自分さえ良ければいいという、相手の気持ちを無視した自分勝手な行動。
そんな私は責められるべきで、呆れた様子で壁に背を預けたメアさんにいっそ私を切り捨ててくれと口にしようとしたところで、彼は私の口に蓋をするように語り出す。
「僕はね、ウェイドと君に結ばれてほしいと思っているのさ」
「え……?」
「彼には、無条件で彼の味方になれる人が必要なんだ。今だからそう思ってるわけじゃないよ。こうなる以前から、彼はずっと不安定だったから。でも、君が傍に居る時は安定しているように見えていたんだ。僕以外の目からも、きっとね。ウェイドがそのことに気付いているかは微妙だけど、君は以前からずっと、ウェイドの役に立っているよ。だから、そう答えに急がなくてもいいんだ」
「でも、でも……、それなら尚のこと……!」
「今回はただ、ほんの少し間違えてしまっただけさ。人間関係ってのは、一度失敗したら終わりって程シビアな訳じゃない。今は少し、距離を置く事を優先すべきだと意見するよ。近すぎると、見るべきものも見えなくなってしまうと言うしね」
これで反省会はおしまい、と言うメアさんの優しさに触れ、私は肩を震わす。
メアさんとの初対面時、彼の言葉遣いは辛辣で、余り表情を動かす人では無いからか無感情で冷酷だと思っていた。初めて会った時からしばらくはそう思っていたのだけれど、オペレーターとしての日々を重ねていく内に、彼がウェイドさんやワーグナーさんが絡む時は良く笑う人だと知った。
ウェイドさんに振り向いてもらえない私を時折こうして私を励ましてくれることも何度かあって。その繋がりでウェイドさんのことで何度か相談したこともあって、メアさんが心優しいことは周知の事実だった。多くの場面で厳しく見えるのは、ただ単に英断で合理的な判断が出来る人だからだと、本人が自慢げに語っていたのを覚えている。
「それに、君にはまだ、やるべき事が残っているだろう?」
「っ、知って、いたんですか」
「まあね。……教会への疑惑を晴らすためには、街中に入り込む必要がある。その為には呪い人になっていては、君の本懐を達成することは不可能だろう? 冷静じゃない時こそ冷静に。士官学校でもそう習ったはずだ」
荷物の奥底に隠し持っているのは、セナ村の孤児院から持ち出した数冊の日記帳。そこに書かれているのは吐き気を催すほどに悍ましい内容であり、世界中に救済をと謳い救いの手を広げている聖神教にあるまじき存在だ。少なくとも、それを容認していた過去が存在することはここに記されていることが証明してくれている。
そんな呪物のような物を持ち出して如何するのか。如何したいのか。それは自分でも分からない。
これは決してウェイドさんに頼まれたわけでは無いし、彼も思い出すだけでも苦痛に繋がる存在。決して目に触れさせてはならないと分かっていながら持ち出したのは、偏に、自己満足のためでもある。
私のような個人が聖神教を揺るがすことなんて出来るわけがない。きっとこれを正規の教会に持ち込んだところで、教会側はいくらでもとぼけることができる。ともすれば、聖神教を貶めるために私が書いたことにされてもおかしくはない。それこそ、呪い人にでもなっていれば、メアさんの言う通りそうなっていた可能性の方が高いとすら言える。
あの悍ましき日記帳の扱いは、慎重に慎重を期さねばならないだろう。
むしろ、どうしてメアさんは私がそれを持っていることも、私の目的も透かしてしまえるのかと言う方に驚きを隠せない。
「それに、だ。ともすればそう遠くない未来に、呪い人には簡単になれるようになるかもしれない」
「……どう言う意味ですか?」
「研究塔が何を考えているかは分からないけど、奴らが未知を未知のままにしておけるような人間で無いことくらい、僕だって分かる。奴らは間違いなくサンプルを欲しがるだろうね。既に呪い人を街から排斥した後になって、今更。そうなると数が限られている呪い人を増やす方針を取る。これは必ずと言っていいくらい起こる未来だ」
「それって、健常者を呪い人に変える手段を用いる、ってことですか?」
「ああ、そうさ。少なくとも現段階ですらも彼らの欠片を体内に取り込むだけで呪い人になれるんだ。研究塔の奴らがそれを試さないわけがない。そしてその技術は、きっと軍事転用される。紫晶の光を撒き散らす兵器すら編み出しかねない連中だ。世界はこれから、もっとずっと混沌と化すよ。そう遠くない未来にね」
「そんな……! そんな酷いこと、誰も止めないのですか?」
「止められていたさ、これまではね」
「っ、もしや、ロベリア陛下……?!」
「その通り。前陛下は研究塔にの開発内容に関して平和的利用を原則付けていたのさ。周囲からは甘いと評価されがちだったけれど、こうして世界が変わってみれば、彼の賢帝たる所以が良く分かるというものさ」
メアさんがそう言ったからには、恐らく彼の頭の中には既にその研究塔が編み出しかねない兵器の設計図があるのだろう。
言葉にしないけれども、メアさんは研究塔の一員に匹敵するだけの知能を有している。きっと今も、この会話すらも彼の手のひらの上かもしれないと邪推してしまえるのは、己が防衛本能が働いているからなのか。
メアさんの言葉に耳を傾けながら唾を飲むと、こちらに気付いた彼は目を細めて笑った。
「っとまぁ、堅苦しい話はこのくらいにして、今はゆっくり休みなよ。時間を置いて、落ち着くのを待った方がいい。それと、僕の方からもウェイドにそれとなく伝えておくよ。もう一度君と向き合うべきだ、ってね」
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
聞こえは悪いが、私とメアさんは互いにウェイドさんを介しての関係でしかない。
ここまで気を遣ってもらっていて失礼な話だが、メアさんの親切には必ず裏があるように見えてしまうのは彼の普段からの態度が原因でもある。
そんな私の考えを見透かしているかのように私の目を覗き込んだメアさんに警戒するも、彼は流れるような動作でこちらに背を向けた。
「……相棒の恋路を応援するのは、何も特別なことじゃないだろう?」
顔だけを振り向かせてそう零したメアさんの横顔は、年相応に見えて。
「なんですか、それ。もっと詳しく聞かせて下さいよ」
「やーだよっ」
それだけ言って肩を竦めて逃げるように去って行くメアさんの背を見送る。
「……いつか、ちゃんと、謝らないと」
胸の内にあった自分を苛む欺瞞が詰め込まれた黒い感情はすっかり晴れていて。
私は濁った空を見上げ、一人呟くのだった。
補完という名の、言語解説。
【ロベリア皇帝の治世】
ロベリア・ムル・オリア・ヴァレンタイン。
彼の「賢帝」と呼ばれし皇帝の治世は、「無血の治世」と評される時代だった。
それは過去の皇帝による過度な侵略行為によって残された禍根に苦しめられた経験を経ているため、侵略には暴力や非道を用いず、アーティファクトは防衛力の強化にのみ費やしていた。結果、これまでとは格段にペースが落ちる侵略速度であったものの、内政においては全ての者に平等に行われることとなり、歴代のどの皇帝よりも人間以外からも支持の厚い皇帝として君臨していた。




