二節 猜疑心1
◇
「今朝もまた日課の素振りかい? 適切に休息を取るのも仕事の一つだって教わらなかったのかい」
早朝、素振りから帰って来た俺を迎え入れたのは、品位の欠片も無くテーブルに足を乗せて寛ぐメアの姿だった。
「剣の道は一日にして成らず。急務だったとはいえ、一週間も剣を振らないでいたんだ。その分を取り戻すだけでも一苦労でな。それに、何もしないでいるのは、却って気が滅入る」
「相変わらず小心者だね、君は。だから殿下如きに使い潰されるような目に逢うのさ。あぁ、今は陛下、だったっけ?」
言って、湯冷ましを傾けるメアの言葉に俺は耳を疑う。
第三機竜小隊の頃からメアの口からもたらされるレオポルドの話題と言えば、美辞麗句を押し並べた綺麗事ばかりだった。そんなメアの口からまさかレオポルドを非難するような言が吐かれるとは思いもしておらず、俺は思わず仲間を得たような感慨を双眸に浮かべる。
「なんだい? 僕がこんなことを言うのは珍しい、みたいな顔をして」
「いや、てっきり、お前はレオポルドに心酔しているものだとばかり思っていたから」
「ははは、やめてくれよ。僕はただ、どこに聞き耳を立てている奴がいるかも分からない場所で取り入ろうとする相手の悪口を零すほど愚かじゃないってだけさ。火のない所に煙は立たぬ、って言うだろう? その点、君ってば面白いくらいに陛下への愚痴をこぼしていただろう? それがどこからともなく陛下の耳に入ったから、虐められていたのかもね」
振り返ってみれば、メアはレオポルドに心酔していたと言うよりも、取り入ろうとしていたと言う方が正しい言動ばかりだった。
あの時の軍規違反も、俺とメアが侵した領域は同じであるはずが、耳を裂かれ異動を命じられた俺に対してメアは減給で済んだのを鑑みるに、あの時点で既にメアはレオポルドの懐深くに入り込んでいたのだろう。
そんなにも重用されていた立場であるのに、そのポストを捨ててでも俺に手を貸してくれるメアの腹を探るほど、俺はメアを信用していないわけじゃない。
ただ、それでもメアが俺たちに付いてくる理由に思い当たらないのもまた事実。
そんな重要な立場を捨てる価値が俺にあるのかは、疑問視できるもので。
「今更だが……メアは、本当に良かったのか? メアの立場は、相当なものだったはずだ。それを捨ててまで俺に賭ける必要は、本当にあったのか?」
「本当に今更だね。もう戻れないところまで来てそれを聞くのかい? そいつは野暮ってものじゃない? でも、それに答えるとするなら……、陛下の傍に居ても僕の望むものは手に入らないって分かったから、というのもある」
「望むもの……。お前の、夢のことだな」
「そう。皇族の血筋に伝わる幻の秘術……『姿性転変』。書物にそう記されていたからこそ陛下に取り入ろうとしていたんだけども、恐らく……いや、間違いなく、失伝されているだろうね」
姿性転変。
それは、自分の理想の姿になれる魔法。
不老や不死、時流を司るに相応しい夢物語な能力。
それこそがメアの欲する夢であり、目標であり……彼の本懐であった。
──女の子になりたい。
使い果たせぬ無限の富、誰からも湛えられる名誉、勝るもの無しと謳われる無敵の強さ。
この世に夢と呼ばれるものは人の数だけ存在しているけれど、メアの語った夢は、夢と呼ぶには余りにお粗末で、けれども夢と呼ぶに相応しい壮大さを併せ持ったものだった。
零すつもりの無かった彼の夢を耳にしたのは、お互いの顔も名前も知らない、帝都の場末の酒場でのことだった。
その日は、なんだか無性に酒が飲みたかったのを覚えている。
とは言え、士官学校に通う傍ら、自由に使える金を得る機会などほぼなく、俺が選ぶことができたのは寂れた酒場だった。
そこでお互いに一人で酒を飲んでいるところで、そこでは見慣れない小綺麗な格好のメアに周囲の客が酔って絡んでいたのだ。酔っぱらい達が大声で笑い転げたせいで、俺の耳にも入ってきてしまったわけで。
『君も、笑っていいんだよ』
『人の夢を笑うものか。変わってはいるが、素敵な夢じゃないか』
決して酔っぱらっていたわけでは無い。
ただの本心のつもりで言ったのだが、不思議と気に入られてしまい、その場の酒をご馳走になったのが縁の始まり。
気が付けばメアは俺と同い年なのに士官学校の教官として赴任してきたかと思えば、同じ機竜小隊に入隊する羽目になったり、今ではこうして揃って帝国から追われる身だ。
片や辺境田舎の孤児と、片や三男坊とは言え帝国貴族の変人代表だ。
本来であれば決して交わることが無い関係。それが今や、共犯関係。
振り返ってみると、本当に奇妙な縁である。
たった一つの酒場での出会いを繋げてくれた夢の話。同時に、彼を突き動かす唯一のファクター。
それのためなら、地位も名誉も捨て去れる。
それだけ、メアはその夢に本気だということなのだろう。
「たった数世代の一体どこで失われるのかと判明した時には、唖然としたよ。それとも、初めからそんなものは存在していなかったのか……。今となってはもう分らないことだけどね。そして、その必要性が無くなれば陛下に用が無くなるのも同じさ。陛下はカリスマある御方だけど、所詮はそれだけの人だ。人を導くには優秀な面だけで足るけれど、国を率いるには何もかも足りない人。あのまま国に留まっていれば僕は腐っていくだけだっただろうね。そんな折に君がやって来たんだ。それも、新たな可能性の種子を引っ提げてね。そんなの、乗り換えるなって言う方が難しい話だよ」
「だから、俺に賭けた、と?」
「うん、そうだけど? なんだか納得していない顔をしているけど、もしかしなくとも……友情だとか信頼だとか、その線を期待していたのかい?」
「……悪いかよ」
「ハハハ、君ってば可愛い奴だね。でも、その要素がほんの僅かも作用していないと言い切れないのが、人間の心理における面白いところだ。こんな僕でも、君に情を傾けている節が少なからずあるんだ。奇妙な話だと思わないかい?」
言いながら、メアは遠い目をして彼方を見つめる。
時折、メアはこうして自分は普通とは違う事を再認識するみたいに零すことがあった。伯爵家と言う高貴な身分に生まれておきながら、普通とは異なる感性で生きる自分が腫れ物のように扱われていることを自覚していながら、そう生きることしか出来ない自分を納得させるために生きている。
人間離れしているくせにそんな風に生きる彼は、きっと誰よりも人間らしい。それを言うときっと否定されるだろうが、俺はメアよりも人間というものを遂行している人を見た事が無いくらい彼は人間代表だ。夢に貪欲で、欲に直球。そんなメアが受け入れてもらえない貴族社会など、最早政治の化け物の社会になっているのかもしれない。
とは言え、常識外れなメアと普通以上に常識的なメア。
その二面性を知る俺からすれば随分と窮屈な生き方をしていると思えるが、彼は彼なりに苦労を重ねているのだろう。だからこそメアはメアのまま、ありのままに振る舞うのが最も彼らしい生き方なのではないかと思えてならない。しかし、それを口にするのは、過去のメアを否定しているかのようで、彼に直接言うことはしない。そんなこと、メアが一番分かっているだろうから。
なんて考えながら黙り込んでいると、メアは俺の心配も他所にケロリとした顔で立ち上がり言った。
「──さて。昨日はゆっくり休めたかな? 今日からまた休みなく働いてもらうけど、いいね?」
「昨日は外が随分と騒がしくてな。まともに眠れなかったよ」
「まともに眠れてないのは、いつものことだろうに」
「その通りだな」
くつくつ、と沸き上がる笑みを堪えるように肩を揺らすメアに俺も笑って応える。
「それじゃあ会いに行こうか。デゲントールの置き土産に、ね」
◇
「おはよう、リリスちゃん。中の子達の様子はどうだい?」
「おはようございます、ウェイドさん、メアさん。最近の中では、一番良好かもしれません。一応、それぞれの子に担当をつけていますが、心配は余り無さそうです」
メアに連れられて向かった先で待っていたのは、変わらぬ様子のリリスだった。
彼女とは昨日、一悶着があった仲なので顔を合わせづらいと思っていたのだが、当の本人は何事も無かったかのように挨拶を口にする。それに返す形で「おはよう」と零すと、彼女は嬉しそうに目を細めるものだから思わず顔を背けてしまう。
「……君さぁ」
「なんだよ」
「いや、何も言うまいさ」
「なんなんだよ」
メアからジトっとした視線を感じて振り向くも、メアは何か言いたげな眼差しを残したまま目線を外し、被害者女性らが療養する区画へと踏み込んでいく。訳も分からずリリスの方を見ると、彼女もまたメアの言い分が分かるとでも言いたげな微妙な表情を浮かべた後でそそくさとメアの後に続いていく。
言葉にしてくれなければ伝わらないこともあるんだぞ、とまで考えた辺りではたして俺にはそれが出来ているのか悩ましくなる。悩ましいという時点で出来てない証拠だ。
元より口数の多い方ではない俺は口で人を動かすことよりも、行動によって態度を示す方が多かった。そのお陰で帝国軍の貴族連中からは厭悪され、軍規違反を侵して辺境に左遷を食らう羽目になったのだ。
いい加減顧みた方がいいと言われているような気がして足を止めていると、仕切り板から顔だけを覗かせたメアに「早くおいでよ」と促され、ようやく彼女たちの待つ空間へと足を踏み入れる。
その先で待っていたのは、普遍的かつ、ありふれた診療所の光景であった。
「さて、全員揃ったね」
診療所の一角。
そこは決して広い空間ではない。
元よりこの建物は診療所を目的として建てられたものではなく、掘っ立て小屋を良くした程度のものでしかない。そのため、清潔感を保つのが最優先のこの場所でも患者の多くは雑魚寝が基本だ。
そんな空間の中で、被害者女性の六名には、あの小屋で回収された高価な絹の敷物が使われているのであろう藁を包んだベッドが支給されており、その上で上体を起こした一人が俺たちを出迎えてくれた。
「……救世主様」
その人物は、ようやく会えた、とばかりに安堵が滲み出るような微笑みを浮かべて久しく聞いていなかったその呼び名に、俺は足を止める。
彼女の名は、ブラン。
ウォルマンと共に俺たちをこの村に迎え入れてくれた少女だ。しかし、彼女の行方が分からなくなる前にその姿を見たのは、いつのことだったか。
メアやリリスの話からすると、被害者女性たちは異性に並々ならぬ恐怖と嫌悪を抱いているはず。
例えこの中で彼女が一番回復が早いと言ったって、中性的な見かけのメアとは違い、まかり違っても女寄りには見られない風貌であることは自覚している俺は忌避の対象になる。
そう。俺は彼女たちに一生消えぬ傷を負わせたデゲントールと同じ、男である。
そのせいか、俺が仕切りの内側に姿を現した瞬間から空気が張り詰めたように感じられている。
俺を呼んだブランの表情も、硬い。
ゆえに彼女の元へ歩み寄るのは──とまで考えて、頭を振る。
まただ。
また、俺はリリスの時と同じことをしようとしている。
優しい、賢い振りをして彼女たちからさりげなく目を背けようとしている。
つらつらと雄弁にも言い訳を垂れ流し、近付くのを恐れている。
逃げるな、と自分に言い聞かせて視線を向けると、そこにいたのは、以前のような明朗快活な様子をすっかり失ったブランの姿。
ベッドの上で療養する彼女は儚げな印象すら纏っているようで。
それがどれだけ残酷なことを意味しているか、俺は知っている。
「……っ」
「ウェイドさん? 大丈夫ですか……?」
だから思わず俺はブランに背を向け、口元を押さえて天井を仰いだ。
彼女の前で、吐き気を催さないためだ。
「大丈夫、大丈夫だ……」
何度も唾を飲み込み、息を漏らして吐き気を押し止める。
そうして自分に言い聞かせるようにして平静を取り戻そうとするのだが、俺はまだ、あの時の悪夢を振り払えないでいる。
加えて彼女は一週間以上、あるいはそれ以上もの間苦しんでいたと言うのに、俺はこの一週間何をしていたのか。
……デゲントールの処断についてはやらなければならいことだと言うのは理解している。
だがそれ以上に、俺は彼女たちに寄り添ってやるべきだったのではないかと、彼女たちの異性に怯える姿を目の当たりにして強く思う。少なくとも、何か出来たことはあったのではないかと考えていると、先にメアが動いた。
「……まずは、謝罪を」
「謝罪、ですか?」
メアは、良く通る声で言葉を選んで話し出す。
「昨日、僕は君たちを傷付けた男たちの人数、名前、それから所在を知っておきながら、彼らを見逃した。君たちからすれば、あの男……デゲントールと同じ目に逢わせてくれと願うかもしれないが、それを知った上で、僕は彼らに猶予を与えると同時に、君らに強いる形で与えてしまった。彼らを罰する、裁量権を。それらを強いてしまったことへの謝罪をここに。申し訳ない」
言って、メアは深々と頭を下げる。
デゲントール。
その名前を聞いて耳を塞ぐ素振りを見せる女性もいた。
改めて、その傷は大きく、そして深いものなのだと認識しなければならなかった。
メアの謝罪は目の前のブランだけに留まらず、奥でこちらに視線を向けているだけの被害者女性たちにも向けられていた。けれど、メアの言葉の意味を理解出来ているのはこちら側だけの様子で、ブランを含めた被害者女性らは総じて理解の及ばない様子を見せていた。
「……僕は、君たちがどんな風に傷付けられたか、知っている。忘れることのできない記憶だということも分かっている。その上で、君たちに彼らの謝罪を受け入れて欲しいと事後承諾の形を取ったんだ。こんな酷い話は他にないさ」
「それは、ブラン達に、その人たちを許せ、と言うことですか?」
純然に、純朴に、純粋に問いかけられたブランの声は、震えていた。
「──許す必要は、無い。ただ」
ここからは独白のようなものさ、と言ってメアは言葉を続ける。
「ただ、人間と言うのは難儀な生き物でね。怒りの感情と言うのは難儀なもので、燃料にしかならない。感銘を受けた感動とは違って、人の心の栄養素には成り得ないのさ。はたまた怒りの感情を昇華させ、別のものに変えることが出来る人物なんて、そうそう居ない。多くの人は、怒りの感情と共だって生きていくように出来ているんだ。今までだってそうだろう? 呪い人にされてから受けてきた屈辱や恨みが晴れたことは、今まで無かったはずだ」
「それは……」
「だからこそ君たちには、謝罪と言う形で自分の感情に一区切りをつけるべきなんだ。謝罪が無ければ、君たちは一生その消えぬ生傷を抱えて生きていくことになる。けれど、謝罪と言う一区切りがあることで、その傷にはきっと、カサブタができるようになるかもしれない」
メアの声は慈しみで満ちていて、真に彼女たちのことを考えたからこその決断だったと言うのがひしひしと伝わってくる。
それが、ブラン達にも伝わったのだろう。大粒の涙が、彼女の不自然に大きく見開かれた眼から零れ落ちるのだった。
「今はまだ、分からなくても……、きっと、みんなにも伝わると思います。本当に、ありがとう、ございます」
「……私は許した、私は許さなかった。その答えは、どちらでも尊重されるべきだ。そのための裁量権だ。もちろん、彼らの謝罪を今すぐに受け入れろと言いたいわけじゃない。いつでもいい。君たちが受け入れられる準備が出来るその時が来るまで、待たせればいい。君たちが後悔しない選択を、祈っているよ」
「はい……、はい!」
しゃくり上げて泣き出してしまったブランから離れたメアは、話の邪魔をして悪いね、と言って一歩下がった位置に立つ。
そしてメアの言葉は俺にも刺さっていて。
……謝罪と言う形で一区切り付けるべき、か。
俺は果たして、本当の意味で謝ったことはあるだろうか。
もちろん、謝罪を口にしたことは何度もある。それこそ、数え切れないくらいある。だけどその中で本当に自らの過ちを認め、頭を下げたことは何度あるだろうか。数えられる程度しかないのではないか。残る大半はきっと、その場凌ぎの薄っぺらな謝罪だったのではないか。そう思えてならない。
あの時、イムさんの存在を知って膝をつき、額を地面に擦り付けたのは何故か。
簡単だ。罪の重さから、解放されたかったからだ。シャーリィを石に変えたという罪悪感から、逃れたかったから。それに尽きるだろう。考えるまでもなく、不誠実な対応だったに違いない。
「救世主様」
「……」
リリスにも言ったように、俺は綺麗な人間じゃない。それは言葉だけの意味ではなく、痛切に思い知らされた現実を見てそう言ったつもりだったが、事ここに至ってもまだ、俺と言う人間からは汚れが見つかるものだ。
「救世主様……?」
「っ! 俺の、ことか」
嫌と言う程に俺と言う人間がどこまでも薄汚れていて浅はかな人間だと思い知らされたところで、泣き止んだブランが俺の顔を覗き込む。
「お加減が優れないのでしたら」
「いや、問題無い。確か、話があるのだったよな?」
自分の生き汚さにどれだけ失望しようと、この場所には俺よりももっとずっと傷付いた人たちがいる。俺はそんな彼女たちを差し置いて「私は傷付いてます」などという顔が出来るほど面の皮が厚い男ではない。
話があると聞いて足を運んだは良いものの、彼女たちが何を求め、何を願うのかはまだ知らない。しかし、彼女たちが何を求め何を願ったとしても、俺にはそれら全てに応える義務があることを肝に銘じて、赤みの増した目元のまま真摯な眼差しを向けるブランに向き直るのだった。
「まずは、感謝を。あの地下室から助け出していただき、本当に、ありがとうございました。この場を代表して、心より、感謝申し上げます……」
「……その思い、確かに受け取った」
ブランがまず初めに感謝の言葉を述べるだろうということはメアからもリリスからも聞かされていた。その上で、彼女の感謝の思いは必ず受け止めるようにと言い含められていた。
俺には感謝される余地など無いから受け取れない、と抗議したものの、ブラン達のためだからと言われれば頷く他無いのであった。
「もしも後一日でも遅ければ、ブランは理性を奪われ、最も酷い女性であれば、自我を取り戻すのも難しかっただろうと、メア様が仰っていました。あの日、救出を決行させたのは救世主様だと、メア様から伺いました。いくら感謝の言葉を尽くしても、この思いは伝えきれません。本当に、本当に、本当に……ありがとう、ございました」
ブランの口から聞かされたのは、聞いたことも無ければ身に覚えもない真実だった。
俺の記憶では確か、一週間前のあの日、俺はメアの死を聞き付けて慌てふためき、イムさんと対峙することになって慌てふためき、長距離輸送転移魔方陣に乗るまでに慌てふためいただけだ。
策も無ければ、考えも無く、あたふたしていただけの男に過ぎない。そんな男がどうやって救世主と持て囃されるだけの成果を挙げることが出来るものか。
全てはメアの手のひらの上だったはずだと思い首だけで振り向くと、そこには「してやったり」の顔をするメアがいた。
「……どう言うことだ?」
「……ブランディングだよ、ブランディング」
ブランは感謝の言葉を繰り返すうちに感極まったのだろう。再び顔を埋め、嗚咽を零し始めた。
彼女が抱く感謝の思いは本物だろう。そこは疑っていない。だが、その経緯があまりに間違っているため、彼女が向ける思いの丈を受け止めるには余りにも躊躇のいるものになってしまっていた。
そのことに関してメアに事実確認を図るも、返ってきたのは訳の分からない内容で。
俺が聞きたかったのは「どうしてこうなっているのか」と言う話だったのだが、メアは自らの脚本の中で巻き起こるアドリブに喜ぶ劇作家のように愉快さを表情から溢れ返らせており、それっきり詳しい説明などする必要は無いとばかりに確認作業を打ち切るのだった。
「……」
とは言え、今も感涙して咽び泣く様子のブランに真実を告げるのも気分が進む話ではない。
彼女は、決して馬鹿ではない。
言葉遣いや所作からも上等な教育を受けたのだろうと言うのが見て取れる。
俺のような取ってつけた礼儀正しさではなく、彼女のそれは親からの愛が注がれた証だとも言えた。
だから、出会った当初から利発さを感じられる振る舞いが見て取れていたため、自由に動けるようになればすぐにメアの言っていることが嘘だったと分かるだろう。もしかしたら、もう既に気付いているのかもしれない。
「感謝の思いは受け取った。だから、これ以上の感謝する必要は、ない」
だから、その時の予防線をこうして張っておくしか俺に出来ることはなくて。
俺の言葉を受けたブランは顔を上げ、ポカンとした表情を見せる。
「……それは、どう言う」
「そのままの意味だ。メアの言葉を借りるなら、一区切り、と言う奴だ。お前たちは事に対する礼を十分に果たした。であれば、ここより先は、無理に感謝を抱き続ける必要など無いということだ。時が流れれば忘れ去る……その程度でいいんだ」
「いいえ、忘れたりなんてしませんよ」
「忘れた方がいい。その方が、幸せだろう」
「……忘れられたら、そうでしょうね。ですが、きっと、いえ、間違いなく、ブラン達は、ここで受けた屈辱を、悪夢を、一生忘れられる日は訪れないでしょう。一生、この傷と共に生きていくことになるのです。ですからブラン達は、救世主様に救われた……このご恩に感謝を抱くことで、その度に救われるのです。もちろん、メア様にも、リリス様にも、感謝を抱くことでしょう。ですが、一番に思い浮かべるのは、救世主様。あなたのことです。ブラン達を暗闇の中から引き上げてくれた時の感動を思い出し、幾度となく感謝の思いを抱きます。救世主様が望む望まずにかかわらず、ブラン達は貴方様に感謝を告げるのです。例えどれだけ遠く離れていても。救世主様は、それを拒みは致しませんでしょう?」
彼女の、ブランの言う通りだ。
忘れられるはずなど、無いのである。
心の傷には、特効薬など存在しない。一生をかけて治療に当たらなければならないことを、俺は身をもって知っている。
まるで、あなたもそうなのでしょう? と見透かされているかのような問いかけに、俺は頷く他無いのであった。
「……分かった。だが、無理は、するな」
「はい。救世主様は、お優しいですね」
メアとは違う意味でやりにくい相手だと認識して表情を崩していると、ブランは両手で俺の手を取り、自分の胸元に引き寄せる。その行動に誰よりもリリスがギョッとしているのが見えたが、この場所が診療所であることを思い出したからか声を上げずに済んだようである。
俺の手を掴んだブランの手が微かに震えていたことに加えて、彼女が祈りを捧げるような姿を取ったことで、俺も手を払うに払えず、伏せた目線の行き先を探るように彼女の言葉を待った。
「……救世主様が、どんな秘密を抱えているかはブランには分かりません。ですが、救世主様に救われたこの生命は、嘘偽りない本物なのです。ブランのこの限りある命を、この身体を救世主様に……捧げます。お役に立てることは少ないかもしれませんが、この身が果てるその時まで、ブランは救世主様のお役に立てるよう精進いたします──」
「ま、待て待て待て、待ってくれ」
余りにも突拍子もない宣言に、俺は思わずブランの肩を掴む。すぐに思い至って手を離したもののブランは俺の手を更に強く握って、決して放そうとはしなかった。
顔を上げ、開いた眼はやはり、不気味なほどに見開かれていて。
見るからに平常とは呼べない状態にあるのが分かる。それゆえに拒絶することも難しく、かと言って助けを求めたところで周りには泡を吹くリリスと、声を押し殺して笑い転げるメアしかおらず、救済の手が差し伸べられる可能性は絶望的だろう。
だから俺は、改めてブランの肩に優しく手を置き、彼女の緊張をほぐすように語り掛ける。
「……ブラン、良く聞いてくれ」
「はい」
「お前に必要なのは、その……人を信じることじゃない。人を信じて託す事じゃない」
頭の中から言葉を引っ張り出して、舌の上で言葉を転がす。
ああでもないこうでもないと逡巡を繰り返した結果、選び抜かれたのは、ブランの覚悟を突き放すような、冷たい言葉たちだった。
「お前のやるべき事を否定したい訳じゃない。ただ、その、まだ早いと言うか……いや、違うな、これじゃない」
感情を読み取れない無表情を宿したブランにすぐさま軌道修正のような言葉を吐き出すのだが、俺は途中で言葉を区切り、ゆっくりと頭を振った。
このままでは、伝えたいことが伝わらない。
そう、判断して。
「……ブラン。今お前に必要なのは、人を妄信することじゃない、疑うことだ」
「疑うこと、ですか……?」
「誰も彼もを疑え、という訳ではない。ここまで共に逃げ延びてきた同胞の中で、無条件に信じられる奴がきっといるはずだ。それを信じるように、俺たちを疑え。疑って疑って疑って、そうやって削れていった先でようやく、そいつを信じることが出来る要素というのがようやく見えてくるはずだ」
「救世主様を疑うなんて、そんな、失礼なこと……」
「失礼なんかじゃない。これは、自分の身を守る手段だ。人を信じるってのは、怖いことなんだ。それは、神様も同じ。救世主だって、同じことなんだ。その先でもし、信じられるという人がいたなら、向こうからも信じてもらえるよう努めろ。……無条件で信じることから入る奴は、大抵が詐欺師だからな」
この村の人たちは皆、「いい人」なのだろう。それこそ、ブランは「いい人」を象徴するような人柄だ。だからこそ、デゲントールのような、人の善意につけこむ悪人に利用されてしまっただけだ。
だからこれは、帝都に初めて足を踏み入れた際に屋台のおっちゃんから教わったことの受け売りだ。そっくりそのままではあるが、きっと効果はあるはずだ。
そう思っていると、ブランは「疑うこと……」と呟きながら視線を斜め下へと移動させていき、肩や手に込められていた力が徐々に抜けていくのであった。
「でも、でも、ブランは……」
「そうやって人を信じようと思えるところは、お前の長所だ。いつの日か、武器にもなるはず、伸ばすべきところだ。だけど、それに頼っているだけじゃ、同じ目に逢う。二の舞いになるかもしれないんだ。いつだって俺たちが傍に居て、助けてやれる訳じゃない。ブラン、お前は自分の目で、耳で、肌で、心で感じたことから、自分の味方を探すんだ。それはきっと長い時間がかかるだろうけど、そうして見つかった味方は、必ずお前を守ってくれる。だから、疑うことに勇気を持て。……お前なら、出来るはずだ」
「救世主、様……」
受け売りだとしても、俺には到底似合わない言葉だ。
説得力も欠けていれば、威厳も無い。人生の酸いも甘いも見聞き知ったるようなあのおっちゃんだからこそ、俺のような人間にも感銘を与えるような言い方が出来たのだとすれば、この助言を口にするには俺には何もかもが足りていなかったと言える。
それでも、こちらを見上げるブランの両目の中で瞳が揺れていることだけは確認できて。それ以外の中から彼女の感情を汲み取るのは難しいのは、やはり、事件の後遺症に違いなく、俺は一度だけ彼女の手を取り優しく包み込んだ後で、立ち上がる。
「俺の名前は、ウェイドだ。覚えていたら、また呼んでくれ」
それだけ言って背を向けるとか細い声が聞こえたような気がしたが、俺は満更でもない様子のメアの元まで下がる。
「……随分饒舌だったね。珍しいこともあるもんだ」
「うっせぇ」
迂遠な言い方しか出来ないのかと思いつつ、メアのストレートではない褒め言葉に口元を俄かに緩める。
それから、メアは昨日村人たちに告げた内容と同じものを彼女たちに話した。
その上で、彼女たちの表情から察すことができる答えには決して耳を傾けることはしなかった。
「──短いだろうけど、四日後にまた足を運ばせてもらうよ。その時にまた、答えを利かせてくれたまえ。今度は君だけじゃなく、全員分の答えが聞けると嬉しいね。それじゃあリリスちゃん。後はよろしく」
「えっ、あ、はい……」
「さあウェイド、次の場所に行こうか。君が会いたがっていた人に会いに行こうじゃないか」
後のことをリリスに任せると、メアはやけに足早になって診療所を飛び出して行く。
彼に会う覚悟はとっくに決めている。
彼もまた、苦しんでいるはず。
そこに俺が行ってどうにかなるとは思っていない。
けれども、会いに行かなければと常に頭の片隅はあったの。
彼に……、イムさんに、会いに行かなければ、と。
補足と言う名の、言語解説。
【姿性転変】
不老不死に連なる、人の夢。
姿形、性別をも思うがままに変えることのできる魔法。
それらは人の夢であり、手の届かない夢として語られていたものの、アーティファクトと共に出土した書物に記された文言は、貴族たちを大いに震撼させた。使い方次第では時世を掌握することのできる術がこの世に存在するのだと、人は知ったから。
中でも、男神オリアから初代皇帝へ【姿勢転変の術】が授けられ、皇族に伝わっているとされているという話が最も有力で、書物にすれば焚書にされることから、その話は非常に信憑性の高い話とされていた。ゆえに、帝国がアーティファクトを求めるのは繁栄のみならず、本当の意味で時世の掌握の鍵となる片割れ、【不老不死の術】を求めているのかと、噂されるのであった。




