一節 共犯4
◇
「……朝、か」
小鳥の囀りと、微風に揺れる草木の擦れる音。
まだ日が昇る前の、小動物だけが活動を始める時間に目を覚ました俺は、静まり返る診療所から音を立てずに出て行く。もちろんその手には、素振り用の木剣を持ちながら。
今日は、完全休養日。
回復するためという名目で設けられた今日であるが、結局俺はほとんど眠れなかった。
精神的、肉体的疲労を自覚していた昨日は入眠自体は順調であったものの、夜の間に何度も目が覚めてしまった。
罪悪感との向き合い方も変わり、少しずつ割り切れるようになってきたとは言え、習慣づいたような眠りの浅さは改善されることはなかったらしい。夜半も患者たちの些細な寝言やいびきに覚醒を繰り返す羽目になった。
睡眠活動だけを取り上げて見るのであれば、恐らく昨日までの一週間の方が良好だったと言える。何せ、強制的に気を失えていたのだから、途中での覚醒も無かった。
今朝も耳を澄まさなければ聞こえないような音で目を覚ました。気持ちの良い朝を迎えたのも、最後に熟睡したと言えるのは、果たしていつだったか。
「それでも、朝の空気というのは存外、悪いものではない」
朝と言うには早すぎる時間の澄んだ空気を、胸いっぱいに吸い込む。
これまでの軍生活はおろか、セナ村での暮らしの中でさえ、朝の陽気など気に留めたことは無かった。朝が来れば起きて働かなければならないし、夜が来れば疲れ果てて眠る。毎日がその繰り返しだった。だから夜の長さも朝の美しさも、こんなことにならなければ一生知ることも無かっただろう。
それが良いことなのか悪いことなのか、俺には分からないけれど。
「フッ、フッ──」
隙間の時間を見つけて義務的に行っていただけの素振りも、今では手持ち無沙汰な朝の時間を潰す有意義な行為になりつつある。
士官学校時代に一度だけ、皇帝陛下に納める剣舞の練習風景と言うのを見させてもらったことがある。
それは、隊列を組んだ精鋭の騎士らが一糸乱れぬ剣舞を披露するというもの。
剣が振るわれる度に空気を裂く音が重なり、指の先端までを研ぎ澄まされた集中力で満たされていた。
脱力しているかのようなしなやかさは、しかしその体幹の強さは見るだけでも圧倒されるもので、あの美しさは師匠の武骨な剣とは全くの別物だったことを覚えている。
あの剣舞には、身体強化は必要ない。
必要なのは、剣舞の美しさのみ。
しかし、いつかあの剣舞を学びたいと強く思えたのも束の間、俺にはあんな風に流麗な動きは無理だと悟った。
俺の培ってきた剣筋と、儀礼用の剣舞のような特殊な動きはまるで異なるのだ。もし仮に剣舞を修めるとなれば、俺の動きは実戦にも奉納にも扱えない中途半端な出来になると言われ、俺は諦めざるを得なかった。
『剣舞は戦うための道具ではない。あんなもので戦えるのは、本物と呼べる天才だけだ。そしてお前は、天才ではない』
それでも、と剣舞に魅了された俺を引き留めてくれた師匠の言葉に歯噛みしたのを覚えている。
身体強化も使えず、毎日教練過程で貴族らに滅多打ちにされる日々に嫌気が差していた俺は新しいものに手を出せば何かが変わると思っていたのだろう。そこで引き留めてくれた師匠に感謝こそすれど、恨む筋合いはない。
結局、俺には師匠の武骨な剣を、更に泥臭くした剣の腕しか持ち得なかった。
だが、その剣が今までどれだけ俺の命を救ってくれたか。
……きっとこの先、俺の往く道の先で、師匠と交わる時が来るかもしれない。
その時に、俺に何が出来るのか。何をすべきか。
それはきっと、その時にならなければ分からない。
だからそれまでに、俺は俺に出来ることを全て果たさなければならない。
そう思って、俺は剣を振る。
縦に、横に。足捌きを加えて、宙を舞う。
「ふぅ……」
吐いた息が、熱い。
日課のようなルーティーンが終わる頃には、朝日が昇り始めていた。
時期も夏に差し掛かる頃か、軽く素振りを終えただけなのに、じっとりと滲んだ汗が気持ち悪い。その汗を流すために、俺は傍を流れる川へと踏み出していく。
しかして流れる水の冷たさは気温には左右されないのか、心地良さを伴って火照った体の熱を冷ましてくれる。
セナ村の頃も、夏の暑さの盛りには弟妹たちとよく川で遊んでいたのを思い出す。初めはアキやシグたちと一緒に釣りを楽しんでいたのだが、いつも決まって最後にはお互いに水を掛け合って遊んで終わる。地位も名誉も、剣も魔法も必要のない、ただただ楽しかった過去を思い返して、それがもう二度と見ることのできない景色だということを自覚する。
それは俺が奪った未来であり、過去である。
殺された弟妹たちは、同じ過去をもう二度と思い出すことも、同じ未来を共に描くことすらできないのだから。
この記憶すらも戒めとして記憶の奥に刻み付けていると、背後から声が上がった。
「だ、駄目です、ウェイドさん! 早まっちゃ──」
きゃあ、という悲鳴と共に、がらんと大きな音を立てて空の水桶をひっくり返した音が聞こえたかと思うと、何を勘違いしたのか、青褪めた顔色のリリスが駆け寄ってくる。
膝まで浸かる深さの中を懸命に駆け寄ってくる姿に圧倒される。
「駄目です! お願いします、死なないで……、生きましょう……! 死なないで、下さい……!」
嗚咽交じりに言いながら、縋るように俺の体を強く引き寄せるリリスの迫力に圧倒された俺は言葉を紡ぐことすらできなかった。
一体彼女の細腕のどこにそんな力があるのか。俺を逃がさんとがっちりとホールドされた腕は固く、背中に顔を埋めて「嫌です、いかないで」と繰り返し泣き喚くリリスと二人、川の真ん中で立ちすくむことしか出来ない。
「……おい」
「いやです! はなしません! かんがえなおしてください!」
話しかけようとすれば、幼気な態度で強情ぶる。頭を押し付けてくるのに苛立たしさすら感じられて。
それでも、勘違いとは言えここまで人のことを心配することができて追い縋ろうと思える彼女を振り解けるほど、俺は人間を辞めたいわけではなかった。
「……好きに、してくれ」
そう言って、俺はリリスの気が済むまでそうさせておくことにして、遠くを見つめるのだった。
◇
「──ご、ごめんなさいッ!」
それから間を置かずして、俺はリリスの腕から解放された。
目的の汗を流すのも終わり、濡れた服を乾かしている隣で、リリスは誠心誠意を示すかのように深く頭を下げていた。
「朝起きたらウェイドさんの姿が無くって……。心配しながら水を汲みに来たら、その、ウェイドさんの横顔が深刻で、身投げするみたいに見えてしまって……」
「いや、勘違いさせるような真似をした俺が悪かっただけだ。謝る必要は無い」
思えば、あの時は過去を振り返って沈んだ横顔をしていたのかもしれない。そんな顔で川に入って行く人物を見かけたら、確かに慌てて追い縋るのも分かる。似たような光景が目の前にあれば、俺だってそうするかもしれないから。
そう言い切るとすっかり会話が途切れてしまい、服を乾かす焚火の小枝が弾ける音だけが二人の間を流れていく。
「き、昨日も、ごめんなさい。空気を、悪くさせちゃって……」
「メアも気にしていなかった。だから問題無い」
「……」
気候が温暖だと、やはり濡れた服が渇くのは早い。
濡れたまま帰ると昔はシスターフィオナに叱られていたし、今では隣のリリスに叱られる。
謝ってばかりのリリスを横目で確認すると、彼女は膝を抱えて頭を埋めていた。
表情は伺えない。
彼女の合格ラインを見定めたいところだが、わざわざ声を掛けるような事でも無いだろう。
そう思って完全に乾くまでもう少し待っていようと炎の揺らぎに視線を落としていると、隣からくぐもった声が掛かる。
「……ウェイドさんは」
俺の名を呼ぶ声が聞こえて振り向くと、そこで言葉が途切れる。
声の主であるリリスもまた、炎をぼんやりと見つめているようで微動だにしていないのを見て、空耳だったかと思い視線を元に戻すと、彼女の口からもう一度俺の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「ウェイドさんは」
「なんだ」
「……ウェイドさんは、私のことが……嫌い、ですか?」
精一杯の思いで振り絞ったような震えた声で問いかける彼女は、一度は上がった顔が再び膝に顔が埋まっていた。
その姿は、さっきよりもずっと、小さく見えた。
「どうしてそう思うんだ」
「……教えてくだ、さい」
スンスン、と鼻を啜る音まで聞こえてきて俺も居心地が悪くなる。
ここでもし、「嫌いだ」と言えば彼女は傷付くだろうか。もっと泣かせることになるのだろうか。
帝都を発つ前夜、俺は彼女に告白された。それはもう、愛のこもった熱烈な告白だった。俺のこれからの人生において、あそこまで誰かに求められる日は今後一生訪れることはないと思えるくらい、大切な思い出だ。そう思えるということは、きっと俺はリリスのことは嫌いではない。
では、彼女のことが好きかと問われれば、それも否だと言えよう。
リリスは、俺を裏切ったのだから。
それが真実で無いにしろ、事実である事には変わりない。
彼女は、俺を弄んだのだ。
だからと言って、それが許容できないから嫌いな訳では無い。あの状況で人の心を弄ぶような真似が出来るという人間性に、嫌気が差しているのだ。
あれから流れで同行しているが、俺は彼女が俺の怪我を心配したり、俺を気遣う様子を見る度に苛立っていた。お前はそんな人間ではないだろう、と口に出さないでいるだけで、その態度は甚く俺の癇に障るものだった。
「嫌い、ではない」
リリスに対する感情を整理して答えを出すと、この一言に尽きる。
彼女のことを嫌いと言えるほど嫌いになれなくて。
でも、好きだと言えるほど好きにはなれない。
かと言って、好きではないと言えるほど好意的にも見られない。
いっそリリスが悪女であれば、どれだけ良かったことか。
だが悲観することに、彼女は、良心の塊のような女性だった。
そうなると必然的に、消去法的にその答えに辿り着く。
果たしてそれは彼女が望んだ答えだったのか、否か。それは、俺の答えを聞いてようやく顔を上げた彼女の顔を見れば、分かることで。
「嫌いじゃ、ない……!」
そこにあったのは、泣き腫らして腫れぼったくなった目元を限界まで開いて、パアッ、と花咲くような笑みを浮かべた少女の姿。どうやら、彼女からすれば俺の消極的な答えは正解だったようで。
それがどこか納得いかないのは俺だけだろうか。
「嫌いじゃないって言うことは、嫌いじゃないって言うことですよね! 嘘じゃないですよね?! それってつまり、まだ好きになってもらえる余地があるってことですよね?!」
「近い、うるさい、声が大きい」
「あっ……! ご、ごめんなさい」
「謝ることじゃない。控えてくれればいいだけだ。……ポジティブなのかネガティブなのか、良く分からないな」
目の前でシュンとして小さくなっている少女、リリスに関しては、分からないことの方が多い。
彼女は、貴族だ。
貴族の中でも下位の男爵位ではあるが、立派な貴族として帝国に名を連ねる貴族の一員である。
領地を持ち、家名を名乗ることを許された貴族なのだ。
それが、機竜小隊特別騎兵という称号を得ているとは言え、農民の孤児である俺のような人間を構うなど、何か裏があるとしか思えない。利用するために近付いてきているのだとすれば、彼女は余りにも……優し過ぎる。
ワーグナーのように友誼に熱い男であったり、メアのように利益を優先して俺と関わるのとは違う。彼女は純粋な好意でもって接してくるのだ。一般市民である俺としては、それが何よりも恐ろしくて。
むしろ、悪意を携えて遠ざけようとしてくる他の貴族の方が、ずっと関わりやすい。関わらなければ良いのだから。
それを彼女の方から距離を詰めてくるのだ。やりにくいったらありはしない。
──貴族とは、ほんの些細な無礼で市民の首を刎ねる権利を持っている恐ろしい存在。
実際に、セナ村の隣の町で、貴族の馬車の前を横切っただけで殺されたと言う話も聞いている。それを聞いて、誰が貴族と好き好んで近寄ろうなどと思うものか。ましてや、貴族相手から好意を向けられるというのは、絶対に断ってはならないものだ。それでも、俺はリリスの為人を知っているから彼女の持つ強権を行使されないだろうと分かっていて、断った。
その次の日には辞令を受けてどこか遠い場所に配属になるから、金輪際関わることはないと本気で思っていたから断れたのだ。これがもしフュリーズのような高位貴族であれば、俺の辞令に口を挟めたり、人権など無いかのように連れ去られでもしたかもしれないが、男爵家であり奥ゆかしいリリスにそんな真似は出来ないと踏んで断ったのだ。俺には好きな人がいる、と言えば、彼女は身を引いてくれると分かっていたから。
だが、それが今やこんなにも遠い場所にまで付いて来ている。危険な場面だっていくつもあった。それなのに、彼女はまだ俺に好きになってもらおうとしている。大逆人の俺に、だ。それが常識外れであることくらい、俺にだって分かる。
これが恋の為せる技なのか。それとも、彼女だけが特別なのか。
そんな彼女の時間まで奪うことに、俺は耐えられなかった。
「……何度でも言うが、俺に好かれようとする必要なんて無いんだぞ」
「ウェイドさん……?」
「お前は、ただ巻き込まれただけだ。今からでも帝国に帰るべきだ。きっと保護してくれるはずだ。それで、家族と一緒に生きるべきだ。俺のことなんて忘れて、お前はお前を幸せにしてくれる人を大事にするべきなんだ」
俺とリリスでは、釣り合わない。
他人の傷を自分のもののように受け止めることが出来、人のために泣ける彼女と。世界中から憎まれ、恨まれるような犯罪者では、まるで釣り合わない。
こんな俺と一緒になるよりも、リリスは、彼女のことを本当に心から愛してくれる人と一緒になるべきだ。
純粋で、花弁が零れ落ちるような笑顔が素敵で、嬉しいことがあれば共有してくれて、悲しいことがあれば寄り添ってくれる。そんな気持ちの良い性格で、魅力あふれる彼女ならそれこそ、引く手数多に違いない。
俺に縋らなくとも、彼女はその幸福を自分で掴めるだろう。
だが、俺と居れば、彼女は幸せにはなれない。
だから、はっきりと告げなければならない。
彼女の優しさにつけこんでいた俺が、もっと早く言わなければならなかったことを。
「──帝国に帰るべきだ」
「……どうして、そんなことを言うんですか?」
「……こう見えて、お前には感謝しているんだ。俺が一番辛かった時、傍に居てくれたのはリリス、お前だった。あの時、リリスが居てくれなければ、俺は今ここには居なかった。本当に、ありがとう。……だから、リリスには幸せになって欲しい。恩を仇で返すような俺のような男じゃなくて、本当に、お前のことを幸せにしてくれる人と一緒になってほしいんだ。俺じゃ、リリスを幸せには出来ない。俺と一緒にいても、不幸になるだけだ。だから」
今思えば、あの夜に彼女の告白を受けて俺のしたことは、卑怯な真似だった。
リリスが強引になれないことを知っていながら、あんな真似をしたのだから。本当は、もっとちゃんと向き合うべきだったんだ。あの時、きちんと彼女の恋を終わらせてあげられていれば、こんなところまでリリスは付き添わずに済んだ。……もしかしたら俺は立ち直れなかったかもしれないが、これ以上リリスを不幸にすることはなかったのは確かだ。
彼女のため、と言えば聞こえはいいだろうか。だが違う。これは、リリスのためなんかではない。徹頭徹尾、俺のための行動である。俺を忘れてこの世界のどこかで彼女が幸せになっている。それだけで、俺は救われるんだ。
「……」
そう思って口にした言葉に返って来たのは、重たい沈黙だった。
吐く息が下に落ちていくような重みを感じる空気の中、その沈黙を破ったのは、リリスの方だった。
「私は」
ふとすれば聞き逃してしまうような、消えてしまいそうな小さな声。
けれども確かに耳に届いたその声に振り向くと、そこには意を決したような、怒気を孕んだ眼差しを向ける彼女がいた。
「私は!」
次いで上がる、大きな声。
彼女の拳は音が聞こえてくるくらい固く、強く握り締められていて。
「私は! ウェイドさんが好きです! 愛しています! ……この気持ちは、私の宝物なんです。例え、ウェイドさんであっても、それを否定してほしくなんて、なかったのに……。私は、わたしは、間違っているんですか……?」
女の武器は涙。
感情の爆発によって目に浮かぶ涙を見て、串焼き屋台のおっちゃんが言っていたのを話半分で聞き流していたのを思い出す。
けれど、リリスのその目に浮かんだ涙を拭うことのできる権利は、俺には無かった。その涙に込められた彼女の思いを受け止められるのは、俺じゃない。そんな綺麗な感情を向けられるだけの価値は、俺には無いから。
涙が頬を伝い、地面に落ちていくのをむざむざと見ていることしか出来ない俺は、鉄面皮を装いながら内心では彼女の涙の前にたじろぐばかり。
「……どうして、そこまで」
「好きだからです。あなたのことが。……もしも念願叶って、ウェイドさんと結ばれたとしても、きっと、今みたいに、些細なことでぶつかり合って、喧嘩したりすることもあるかもしれません。でも、私がウェイドさんを嫌いになる日は、今後一生、訪れません。断言出来ます。それくらい、あなたのことを、私は愛してしまっているんです」
涙で濁った声だが、芯ある強さの声だった。
いつもの彼女であれば、照れくさくて言えないようなことも、意を決した今の彼女なら難なく言えるのだろう。真摯に向けられた愛情のこもったその言葉を受け、俺は面映ゆい心地になってしまう。
だが、俺がそれを受け取るわけにはいかない。
俺がリリスを縛る鎖になってはいけないから。
「……」
だけど、喉の奥でつかえた言葉の数々は舌の上を転がるばかりで音にはなれない。
例え嘘でも、嫌いだと言えたらどれだけ楽だったか。
言葉に悩みあぐねる俺に反して、リリスは堰を切ったように自分の思いを言葉に変えてスルスルと吐き出していく。
「ウェイドさんは、私を幸せに出来ないって言いましたよね。私がいつ、ウェイドさんと居て幸せじゃないと思ったんですか? 私がいつ、ウェイドさんと一緒に居て不幸だなんて言いましたか? 私はどんな時でも、あなたといる時が一番幸せなんです。拒絶されるのは少し……いえ、かなり寂しいですが、こうして傍に居るだけで、私は心が満たされるんです。簡単な女でしょう? でも、こうなれるのは、あなたの傍だけなんです。あなたの傍に居るときが、一番安心できるんです。……信じられませんか? 私は、ウェイドさんの素敵な所を幾つも知っています。あと幾つ言えば私のこの想いを、ウェイドさんは信じてくれますか?」
「っ、もういい。もう、十分だ」
冷たい川の流れの中で追い縋った時のような震えた声音に込められているのは、恐怖だ。突き放されたらどうしよう、俺の隣にいられなくなったらどうしようという思いが、人を見る目のない鈍感な俺にもはっきりと伝わってくる。
だからこそ、彼女を受け入れるわけにはいかない。
リリスは、俺に執着し過ぎている。
俺はリリスが思うような男ではない。
リリスを幸せに出来るような男じゃないんだ。
しかし、癒着した部位を剥がすのは慎重でなければならないことを知っている。ゆえに、下手に突き放すわけにもいかなくて。
「……何度でも言います。私は、ウェイドさんが好きです。あなたのためなら、何でもできます。ウェイドさんが私のことを嫌いじゃ無ければ、この宝物を持ち続けることを、許してください。この想いは、絶対に手放したくないんです」
恋愛経験と呼べるものは疎か、同年代の女性と関わり合うことすらほとんど無かった俺には、なんと言って彼女に冷静さを取り戻させるべきか分からずに答えに困窮してしまう。その隙を突くように、リリスは胸に手を当て、潤んだ瞳を向けてくる。
俺への思いを宝物、とまで評してくれる人間は、この世でリリスだけだろう。そんな物好きは世に二人と居ない。……もう、いないんだ。
だからだろうか。彼女を拒絶するべきだと分かっていながら、俺は苦い顔を浮かべてリリスから目を逸らすことしか出来ないのであった。
「俺は、お前にしてやれることは何もない。何もしないし、何も期待しない。信用もしないし、俺から何かを望むこともない。それでも、いいんだな」
引き離すべきだ。
そう思っていても、俺は言いだせなかった。
臆病で、卑怯。俺はそんな男なのだ。
リリスと話していると、自分の嫌な部分に気付いていく。それがどうしようもなく嫌で。
それに加えて、彼女の恋心を知れば知るほど、虚しい思いが胸に募っていく。
身に覚えがあるのは、シスターフィオナ。あの恋は、俺の知らぬ間に薄汚れた大人の手によって破滅させられていた。そんなことも知らずに呑気にセナ村に戻って来た俺を、彼女はどんな思いで迎え入れてくれたのだろうか。彼女の幸せを願うどころか、俺は激情に狂い、全てを無に帰してしまった。
そんな屈辱に塗れた思いをさせると分かっていて、俺はリリスに選択肢を与えてしまう。
傷付けるのが怖いからと言って、お互いに不毛な関係を切り捨てられずにいる。
だと言うのに。
「もちろんです! 私は、ウェイドさんの傍に居られれば、それだけで幸せなんです」
リリスは曇った瞳で微笑む。
その様子を目の当たりにして、俺は今の発言が人として、男として、どこまでも落ちぶれた人間であることを突き付けられたような気がして、リリスから逃れるように彼女の姿を視界から外し、頭を抱える。
──困ったことになった。
ただでさえ純粋だった彼女のことを、こんな風に歪ませるつもりは無かったのに。
突き放すべきだと分かっていながら手放すのを惜しく思うなど、余りにも子供じみている。これではリリスのことを言えないではないか。これじゃあまるで、俺がリリスに執着しているみたいではないか。
……いや、事実、リリスに執着しているのかもしれない。
口では言いながら、彼女が見知らぬ誰かの隣に並ぶのを、俺は許容できないだけかもしれない。
そんな子供じみた独占欲が黒い油のようにこびりついて拭い去れない。
俺は自分のことをもっと大人だとばかり思い込んでいたが、その実、違うのかもしれない。
ただ、大人ぶっていただけの子供。それが長引いた果てに、子供の頃の感情に別れを告げられていないだけなのかもしれない。
ああ、つくづく思い知らされる。
俺は、どこまでも身の程を知らぬまま生きてきたのだと。
「……メアに、相談するか」
「何か、言いましたか?」
「いや、なんでもない。先に戻る」
邪な思考を振り払うように頭を振って、立ち上がる。
分からないことはメアに聞こう。あいつなら、どうすればいいかも教えてくれるだろうから。
まるで俺の意気地なさを示しているかのように織火となった焚火を始末する。
リリスには笑っていて欲しい。
それは純粋な思いではあるが、いつかこの思いにも別れを告げる日が来るのだろう。
そしてそれは、きっとそう遠くない未来なのかもしれない。
そう思うと、俺は意気揚々と返事をしたリリスの方を振り返ることも出来ずに、来た道を戻って行く。
素振りをして汗を流したことですっきりとした感覚もとうに消え失せており、一人では抱えきれない程の悩みを抱えて戻る帰り道は、そう遠くないはずの村までの距離が途方もなく感じるのであった。
補完という名の、言語解説。
【奉納】
毎年一年の最初に行われる奉納の儀。
そこでは皇帝と女神ポラスに対して二種類の奉納が行われる。
剣舞はそのうちの一つ。
帝国では聖神教の女神ポラスを崇めるものの、女神ポラスは唯一神ではない。聖典には女神ポラスの弟である男神オリアも記されており、オリア帝国皇帝は男神オリアの名を受け継ぐ者として女神ポラスと同等の待遇を受ける。また、聖神教が本拠を構える北部領域では皇帝を「現人神」と呼ぶ事もある。




