一節 邂逅4
◇
「……っ、あっぶな──」
飛来したナイフの刃先をつまんで受け止めた指先が熱を持つ。
最後に聞こえたメアの忠告が無ければ、今頃は天幕の布地が俺の鮮血で彩られていたことだろう。しかも、ここで俺が無難に避ける選択をしていれば、通り過ぎたナイフは背後にいるメアたちを襲う、という最悪の未来が待ち受けていた。
実に嫌らしい、漲る殺意に満ちたナイフの投擲であった。
と、ナイフを受け止めたことに安堵して胸を撫で下ろした、次の瞬間。
「ぐぁっ……?!」
腹部に走る衝撃。
天幕越しに見えた鉄のブーツによる一撃は一切の反応すら許されず、襲い来る衝撃に目を白黒させるばかり。
胃が空っぽになっていたお陰で吐しゃ物に塗れるということはなかった、という至極どうでもいいことに感謝をしつつ起き上がろうと顔を上げた、刹那。
再び迫るは、銀の刃。
「つぁあ!」
傍に転がっていたナイフを手に取り反応出来たのは、ほぼ奇跡と言ってもいい。
ギィン、と鉄同士がぶつかり合って耳障りな金属音と共に火花を放つ。
地面に転がる俺目掛けて突き刺すように下ろされた剣先を辛うじて横にずらすことに成功したものの……、頬が裂ける。
薄皮一枚どころではなく、かなりの深手と言ってもいい傷が出来る。この様子だと、耳まで裂けているかもしれない。
起き上がって傷の具合を確認したいが、それは許されない。
傷を作り出した剣を振り下ろした当人が、それを許してくれそうにないからだ。
「……よくもまあ、のこのこと帰って来れたものだ。……平民というのは、往々にして面の皮が厚いのか? その上、無様にもこの俺に殺される栄誉を阻んだというのか。たかだか平民の分際で。お前の紛失した機竜一機とお前の命。どちらが重いかなど言わなければ分からないのか? 分からないのであれば教えてやろう。機竜は俺の命よりも重い。当然、平民のお前の命程度では賄えるはずないが、お前に払えるのは命だけだ。墜落した時点で死んでいれば良かったものを、生還などを夢見るからこうなる。勝手な行動を起こし、お前を連れ帰ったガルメア・エディクレスは一年間の減俸で済ませたが、お前は別だ。この俺の覇道を邪魔したことは、大罪に値する。平民が犯した罪としては、最上のものとなろう。誇れよ、愚民。罪状は軍規違反。機竜……帝国の有する兵器をみすみす敵国に置いて逃げ帰るなど、下愚の極みだ。お前がどれだけ悶え苦しもうとも足りぬ償いは、その命でもって足しにしてくれよう」
淡々と。そう、非情なまでに淡々と罪状を羅列し、少しでも傷を深くしようと力を込めるのは、第三機竜小隊の隊長にして、帝国の皇族……次期皇帝として名高い皇太子様。レオポルド殿下、その人であった。
カタリナとは似て非なる無感動の眼を前に、俺は押し入ろうとする刃をギリギリのところで押しとどめることで精一杯。
……これならまだカタリナの方が人間味のある目をしていると言えよう。
レオ殿下の俺を見る目は、正しくゴミを見るような目だ。
俺という個人の尊厳や人権ということごとくを無視したような目は、常に人の上に在るよう教育を施された皇族にだけ許されたような、そんな眼光。
帝国貴族の上位の人であろうとも震え上がる目を前に、ただの平民でしかない俺は委縮させられ、言葉の重みで押し留めていた刃が少しずつ俺の首に食い込んでくる。
間違いなく死そのものが近づいてくる感覚に、汗が止まらなくなる。
胸に膝をめり込ませ、肺が圧迫される。人間味の無いレオ殿下は、俺の首を刎ねる行為をまるでただの作業だ、とでも言わんばかりの冷徹さを見せる。
血も涙もない様を見せつけられた俺の身体は、芯まで凍えるような怖気を前に、ナイフを持つ手が震え出す。
──本気で、殺しにかかってきている。
そう思うと、鼓動が早くなる。呼吸が荒くなる。全身が、熱くなる。
現状、時間が経てば経つほどこの鍔迫り合いにおいて俺は不利になる。だが、この状態を抜け出す策は、何も考え及ばない。少しでも気を逸らせば、瞬く間に顔が裂かれるから。それでも「まだ死ねない!」、と強く念じて奥歯を噛み締めた、次の瞬間──、
「──殿下! やり過ぎです!」
「っ?!」
「……離せ、フュリーズ。こいつの首を斬り落とすのを、黙って見逃せ」
俺へと向けられていた殺意が、一瞬途切れる。
ようやく生まれた一瞬の隙を逃さずに、上体を起こす。息を、整える。
「はぁっ、はぁっ……」
粟立つ肌に泡立つような汗が滲む。気持ち悪い。粘り付いて離れない殺意と一緒に、シャワーで一刻も早く洗い流したい。
今更になって傷付けられた箇所に痛みを感じるも、今もまだ続く死の感覚に加え、目の前で起こっている光景から目を離せないでいる。目を離した次の瞬間、自分の首が飛んでいる光景が幻視出来るからだ。本当に、恐ろしい。気味が悪いほどの、執着とも言える。今もほら、抑えつけられているにもかかわらず俺への敵意は相変わらずだ。
「……」
唾を飲み込んだ傍から喉が渇きを訴える。貴族の矜持から来る敵愾心というものには慣れたつもりだったが、レオ殿下のものは他のと比べて、一線を画す。これが貴族と、皇族の違いというわけか。できることなら、そんな比較、知らないままでいたかった。
「落ち着いて下さい、殿下!」
駆け付けてくれた人物は、フュリーズ。フュリーズ・グノーシア。
彼女は、レオ殿下の傍仕え兼、第三機竜小隊の副隊長。
帝国の由緒正しき伯爵家の出身でありながらも平民である俺に対しても貴賤なく接してくれる、寛大な人物。メアと合わせて、小隊において平民である俺が口を利くことのできる数少ない貴重な人物でもある。
天幕の奥から急いで駆け付けてくれたのか、羽交い締めをするレオ殿下の抵抗が激しいのか、ようやく上体を起こした俺の目にも彼女が息を切らしているのが見えた。
しかし、フュリーズからしてもレオ殿下の行動は許容できなかったのか、彼女が俺の味方をしてくれているわけでは無いとは言え、俺を守ろうと動いてくれた事実に思わず口元が緩む。
「黙って見逃せ」
「いいえ……、いいえ! 見逃せません! 仰る通り、機竜は帝国の財産ですが、兵士もまた、国の財産! 勝手に手を出しては、いくら殿下と言えども罰は免れません!」
「だから見逃せと言っている」
「なりません! 人材を所有しているのは帝国そのもの。殿下は未だ皇太子の身分であらせられます! 今はまだ貸し与えられているのみ。そのことをお忘れですか! 陛下のモノに手を出しては、殿下にお仕えする身としても庇い切れません!」
「…………チッ。……分かった。分かったから、離せ。いい加減しつこいぞ」
フュリーズの決死の説得により、レオ殿下の殺意は完全に俺から逸れる。ようやく嵐が過ぎ去ったかと安堵の息を吐き出す。
……だけど、少しおかしい。
今まで止まっていたかのように静かだった鼓動が、大きく動き出したのだ。
それがやけにうるさく感じたときには──、既に遅かった。
ようやく訪れた安息が見せかけに過ぎなかったということを知ったのは……、斬られた後だった。
「分かっていただけたよう、で──ッ?! で、殿下! 何を……!」
「ぁ、ぐ、うぅ……!」
突如として、右耳に走る激痛。
今度は腹ではなく、耳だ。右耳が、熱い。その熱さが切り裂かれた耳から噴き出す血潮だと気付くのに、そう時間はいらなかった。
レオ殿下は巧みな体重移動だけで剣を振り抜き、俺の右耳を斬り落としたのだ。
……剣閃が、見えなかった。
殿下の御前がゆえ、辛うじて悲鳴を上げるのを押し殺したのはいいが、突然の出来事に頭の中は白黒するばかりで、俺に出来るのはみっともなく地面に這いつくばって止血を試みることだけだった。
「チッ、叫ばなかったか。利口なことだ。……何を、だと? こいつは、俺の許可なく頭を上げた。罪状はそれで十分だろう。おい、オリバー。こいつの傷口が早く塞がるよう、ポーションをかけてやれ」
「かしこまりました。……ほら、手をどけろ。貴族様の手を煩わせるつもりか? ええ? 下賤な血が俺の手に付くだろうが」
もう一人の傍仕えであるオリバーは、フュリーズとは違って悠然とこちらへ歩み寄ってくる。まるでこうなることを予測していたみたいに低級のポーションを俺の耳に垂らしていく。
「うっ、ぐぅ……!」
垂れ流れてくる液体が、傷口に激しく染みる。
この光景を見て、もしも彼らが親切だと言う人がいるのなら、この絶望を三日三晩かけて教え込みたいと思う程に、俺の頭は絶望に満ちていた。叶うのならば、許されるのならば、今この場で慟哭してしまいたいほどに。
「あっ、あぁ……! 殿下! おやめください!」
「黙って見ていろ、フュリーズ。最近のお前の行動は、目に余る」
ポーション。紛れもなくアーティファクトの一つであるそれは、本物であれば瀕死の重傷すらも治す回復能力をもたらしてくれるし、欠損した四肢すらも復活させるという伝説の品である。
しかし、現代の技術で『再現』されたポーションは、傷を塞いでそれ以上の悪化を抑え、再生可能な部位であれば再生力を増してくれる、という程度のモノでしかない。言わば、量産可能な劣化品、という奴だ。当然、殿下にもしものことがあってはならないから、第三機竜小隊には貴重な本物のポーションが何本か配備されていたはず。だというにもかかわらず、劣化品のポーションを使ったのには理由がある。俺にも思い付くだけの、理由が。
「なんて……、惨いことを……!」
一度塞がった傷は、例え本物のポーションでも蘇ったりはしない。
例え本物のポーションであっても、何十年も前に大きな傷を負って戦線を離脱した戦士を再び戦場に戻すことはできないのだ。
それはつまり、ここで量産品の疑似ポーションを浴びれば、斬られた右耳は今後一生、半分欠けたままの姿となる、ということだ。
今からでも急いで衛生兵の天幕に駆け込めば本物のポーションを譲り受けられるだろうが、フュリーズと同じ伯爵家のオリバーが見せる俺を嘲笑うかのような親切心を振り払うことなど、平民の俺には出来るはずがなかった。
それをすれば、今度こそフュリーズが止める暇もなく、俺の首は飛ぶ。
だから俺は、注がれる屈辱に奥歯が割れんばかりの圧力で歯を食い縛りながら、黙ってポーションを浴びることしかできなかった。
「くくっ。罪人に相応しい耳の形になったな。いかがですか、殿下」
「良い出来だ。出しゃばった平民には、お似合いの形だろう。……ああ、それと。お前の連れ帰った子供とやらだが、明日までにお前が責任を持って処分しろ。小隊には見かけ次第殺せと、命を下しておく。そもそもの事の発端は、お前がオペレーターとの通信を遮断したことによる作戦妨害でもあるのだがな?」
「ッ……!」
「何か、言いたげな目だな? 烏滸の沙汰だろうが、聞いてやろう」
「…………っ、なんでも、ございません……!」
「フン。腑抜けめが」
空きビンをぶつけられながらも俯くことしか出来ない俺には、殿下の姿が見えなくなるまで首を垂れ、地面の土を固く握り締めることしか許されない。
そして、オリバーが言ったように、半分欠けた耳は、罪人の証。
刺青と合わせて帝国ではそう決め付けられている。俺はこれから先、罪人では無いにもかかわらず、罪人として周囲から見られることだろう。その屈辱こそが罰であると、殿下は言い定めたのだ。
手を伸ばせば空を切る右耳。それがやけに虚しく感じられて、俺の目に涙が滲む。
悲しいからではない。惨めだからだ。
腹立たしいからではない。無力だからだ。
「ウェイド! 大丈夫、ではないよな。……すまなかった。殿下の蛮行を止められなかった私にも、責任が──」
「フュリーズ、お前が謝ることじゃない。……むしろ、感謝する。あの時、助けてくれてありがとう」
「助けた、なんて……」
「殿下が待ってるだろ。早く行けよ」
「あ、あぁ……」
駆け寄ってきたフュリーズの顔を、俺は見れなかった。
いつものような笑顔を張り付ける自信が、無かったからだ。
そのくせ、一端に強がってみせるのは、俺の弱い所だ。こんなになってもまだ、虚栄心が俺を動かす。いや、こんなになっているからこそ、強がりたいのだろう。
同情するような表情を向けられるのが、一番怖いから。同情されるということは、つまりそれは、哀れに思われているということだから。
俺は罪人じゃない。だから哀れむな。そんなプライドだけが矢面に立ってしまった末にきっと、今の俺は、俺を哀れむ相手に当たり散らすに違いない。
いつも良くしてくれるフュリーズに恥も外聞もなく当たり散らかすような真似など、したくなかった。だから、突き放した。
それだけが俺に出来る、俺に許されたたった一つの選択肢だっただろうから。
彼女の足音が遠のいていくのが聞こえて、溜飲が下がっていくのを感じる。
体の熱が引いていく。
すっかり見慣れた地面であったが、不意に、そこに影が落ちた。
「っ、どう、して」
「……ウェイド君」
俺を覆うように差した影に釣られるように頭を上げた先で、立ち去ったはずの深紅の瞳とばっちり目が合う。
その深紅の瞳は、熟れた柘榴の実のように赤く、目の色と同じ、黒みがかった赤い毛髪と相俟って、非常に好戦的に見える。帝国では柔和な女性が好まれることから、彼女はよく、自虐的にその目を細めて「強気な女だ」と笑う。けれど俺は、それを綺麗だと言った。お世辞ではない、本心からの訴えだ。帝都で一番美しい女性が誰かと問われれば、俺は迷う暇なく彼女の名を上げるだろう。帝国随一の魔法の使い手。フュリーズ・グノーシアの名を。
「顔を上げて、ウェイド君」
代々皇帝に仕える騎士の家の生まれにして、異端の魔法士の道を往く、彼女。
この場を離れたはずの彼女が今、俺の目の前に立っていた。
情熱を体現したかのような美貌を持つ彼女は、俺と目が合った途端、地面に膝をついて手を取る。騎士の礼だ。俺如き、平民に対して使うには、大仰すぎる行為。
あまりに突然の出来事がゆえに理解が追い付かずないまま呆気に取られていると、フュリーズは固い意志をそのまま声に乗せたかのように力強く宣言し始める。
「──決して。決して君を、殿下に殺させはしない。約束しよう。……いいや、誓おう。我がグノーシアの名に誓わせて欲しい。絶対に、君を守って見せると。だから殿下のことは私に任せてくれ。ウェイド君のことは、私が守るから!」
「あ、あぁ……」
「例え殿下と言えどもこんな所業は、許してはならない。いや、将来この国のトップに立つ御方だからこそ、矯正せねばならない。だから安心して待っていてくれ。陛下は話せばわかって下さる御方だ。君は、絶対に私が守る」
その押しの強さを前に、俺は曖昧に頷くことしか出来なかった。
ただでさえ、間近に迫った彼女の端正な顔を真正面から見ることさえ緊張してしまうのだ。彼女が使える皇族に異を唱えるなど、彼女の立場が危うくなるかもしれないことを、俺がお願いできるはずもなくて。
しかし、フュリーズは俺にどうしたいかを聞いて来た訳ではなく、意思表示をしたかっただけのようで、それだけ言って立ち上がる。最後に、別れを惜しむみたいに俺の半分かけた右耳を指でなぞって、殿下の天幕とは違う方向に去って行く。
なぞられた俺は背筋を這い上がる感覚に身体を強張らせたまま、彼女の背を見送った。
「……っ」
それが、どこか悔しくて、俺は歯噛みする。
フュリーズは魔法士であるにもかかわらず、こんな惨めな俺にも生家である騎士としてのあるべき姿を見せてくれる。
実に正義感に溢れた人だ。
去り行く彼女の背は本当に輝いて見えて、そんな眩い輝きの前では、俺は惨めでちっぽけな存在でしかない。
……もちろん、分かっている。フュリーズが俺を哀れむためだけに先の言葉を送った訳ではないことを。彼女は、本気で俺を殿下から守ろうとしているということも分かっているつもりだ。
だが、どうしても俺は納得が出来なかった。
──俺は、かわいそうじゃない。
フュリーズの姿勢は、紛れもなく帝国貴族のあるべき姿なのだろう。だがそれは、俺という個人を庇護すべき「弱者」として認識されているに他ならない。
──俺は、弱くない。
そう、思わずにはいられなかった。
貴族からすれば吐いて捨てるような、平民の些細なプライドだ。何の価値にもならない、磨いても光らない、屑石のような矜持。彼女の親切を斜めからしか見ることが出来ないその矜持は、引っ込めて押し込めて見えなくするのが正解なのに、どうしても顔を出してくる。俺を見ろ、と。お前らの理想を押し付けたものではなく、本当の俺を見てくれと、顔を出す。そしてその度に、フュリーズのような眩さを放つ、『本物』の輝きに、俺は一生、平民としてしか生きられないのだと思い知らされるのであった。
「はぁー……。くそっ」
「いや~、盛大にやられたねぇ」
自分の血と泥に塗れた体を見下ろして何度目かになる溜め息を吐き出すと、今度は背後から呑気な声が掛かった。
打ちひしがれる俺を嘲笑うかのようなその声に思わずキッ、と睨みを利かせて振り向いた先で、声の主であるメアは半笑いで佇んでいた。
「フュリーズも大袈裟なんだよね~。……なんだい、その目は。なんで助けなかった、とでも言いたげな目だね。ただでさえ君を連れ戻しに行ったせいで減給処分を受けてるんだ。これ以上罰を受けるのはごめんなんだよ。むしろこの程度で済んでよかったんじゃない? 殺されなかっただけでもフュリーズに感謝しなよ~?」
「こんなのただの八つ当たりだってことくらい、分かってるよ。お前への礼も含めて、今度相談に乗ってくれ」
「……あの子には、一定の線引きをして接した方がいいってことだけは言っておくね」
「どういう意味だ……?」
別に慰めて欲しいとかではないが、ヘラヘラと笑って近寄るメアの態度には苛立ちを覚えてしまう。
……メアの言動にイラつくのはいつものことか、と冷静になってみると、俺は素直にメアの言葉を受け入れることができた。
だがしかし、フュリーズという「光」の貴族を前にして自分の影が濃くなったことを自覚した後だと、目の前のこいつもまた、帝国貴族の端くれ。
俺とメアもまた、生きる世界が違う。
これは生まれながらにして備わった確執のようなもので、きっとこの感覚は一生涯無くなることはないのかもしれない、と思うと、俺個人はメアやワーグナーとの関係は友情だと思っていたが、二人はそう思っていないのかもしれない。
俺が虫けらに友情を見出す事が無いように、彼らもまた俺に対して何の感情も有していないのかと思うと、頭の熱がサァッ、と引いていくような感覚を味わわされる。
「ま、生きてることに感謝しつつ、怪我を治してもらいに行こうか。ポーションも万能じゃないからね。化膿したら大変だよ。それに、カタリナちゃんも、見てもらわないとだしね」
手を引かれて、立ち上がる。
傷付いた俺を慮ってか、優しい言葉がかけられるが、その優しさに疑念を抱いてしまう。そしてその懸念は、続いたメアの言葉を聞いて、遠からず当たっていることを知ってしまう。
「殺されかけたのはショックだろうけど、殿下も殿下なりに、君の立場を考えた結果のあの行動だったのさ。上に立つ者の苦悩、ってやつさ。それも汲んであげなよ」
「は……?」
俺は一瞬、耳を疑った。
だが、これ以上蒸し返したところで何も生まれない、と言葉を飲み込み、自分の中で答えを出すことにした。
「……」
メアが言いたいのはつまり……、レオ殿下はわざと俺の耳を斬り落としたのだと言いたいのだろう。
第三機竜小隊の隊長は、殿下。その殿下の指揮下で機竜が一機消えたとなれば、責任の所在は部下の俺ではなく、統括するレオ殿下にある。ゆえに、殿下は俺の耳を斬り落とすという行為でもって罰を与えたという実績を作ったのだ。殺すのは簡単だが、それでも許した、という判断に周囲はどう受け止めるのか。寛大だと評価を得るのか、生温いと平民の排除に追い風がかかるのか。前者であれば皇太子としての格が上がり、後者としても俺を排除する大義名分を得ることになる。要は、俺はレオ殿下の政治的思惑の出しに使われた、ということだ。
そもそも、通信が意図的に遮断されていたことも、俺がまだ残っているのを知っていながら超極大砲を放ったのはレオ殿下に違いない。そのせいで機竜を失ったのも含めて、全てを俺の責任として処分しようとした、ということではないか?
例えどちらに転んでも、レオ殿下は良い思いが出来る。あの時の俺を見下す目が間違いなく本気だったことを知る俺からすれば、あわよくば俺を殺してしまえればそれでよかった、とでも言いたいのだろう。いや、あの時、レオ殿下の中で間違いなく天秤は俺を殺すことに傾いていた。
となると、命を拾ったのは儲けものだ──なんて考えられるほど、俺はのんきじゃない。まるで俺の命で遊ぶような真似。尊厳を、人権を弄ぶような真似をされて笑顔で済ませられるほど、俺は馬鹿じゃない。
そして、どちらに転んでも割を食うのは俺だけだということが分かると、殿下の取った行動を是とするメアと、俺に味方するように動いたフュリーズにも不信感が募る。
「……なぁ、メア」
「うん? なぁに?」
「お前と俺って──……。いや、やっぱなんでもない」
「なんだよ~。気になるじゃん!」
友達だよな、と続くはずの問いを、俺は聞けなかった。
どうしても今は、聞きたくなかった。
言葉によって明文化されたら、それこそ、誰も信じられなくなる。
メアとフュリーズ。二人の取った行動が仮に善意のものだったとしても、外から見れば俺たちは貴族と平民。俺が弱者で、二人は強者だ。決して対等ではない。それが全ての答えだと受け止めてしまえば楽になれるのだろうが、今はまだ、何も考えたくなかった。考えられるほどの、余裕が無いから。
今の俺には、善意を善意として受け止めることができない。フュリーズの握ってくれた手から熱が逃げていく。メアの笑顔の裏が、見えない。
もしかしたら、殿下と同じように見下されているんじゃないか。
もしかしたら、惨めな俺を嘲笑っているんじゃないか。
──だから、助けてくれなかったのか。だから、弱者として庇護されるべきだと言うのか。
そう思えて、仕方がない。
いくら考えても分かるはずが無いのだが、それでも俺は、考えてしまう。
分からない、は俺が思う最悪の想定ばかりが当て嵌まるもので、悪い方にばかり考えてしまえるのだった。
「……俺とお前たちじゃ、住む世界が違うんだな」
前を歩くメアには聞こえないように、独り言ちる。
もしも聞こえていたなら、今更そんなことに気付いたのかと笑われるだろうか。それとも、そんなことないよ、と慰めてくれるのだろうか。
そんな簡単ことも、俺には分らなくなっていた。
「そう言えば……。カタリナはどこだ?」
「あれ。そういえばそうだね! 一体どこに──って、あそこにいるよ」
だから俺は、俺よりも弱い存在を庇護することで自分の脆い精神を守りたかった。やっていることはフュリーズと同じだ。そうすることでしか、惨めな自分を肯定してやれないから。
ここまでお膳立てされると、脆弱な心根を起こすために必要なのがカタリナであり、このために連れ帰ったとすら錯覚してしまえる。とんだ下衆以下の発想である。
正しくエゴとも言うべき邪念に導かれるようにしてメアが指差す先に目を向けると、カタリナはさっきまで俺がへたり込んでいた血と泥の上にいるのが見えた。
「あんなとこで何をしてるんだ?」
汚れた地面に腰を下ろして、何かを探しているように見える。
行くぞ、と声を掛ける俺と、カタリナに駆け寄るメア。そのメアが「何してるの~?」とカタリナの手元を覗き込んだ──直後、メアの足が止まる。
「は、ははっ。ただの子供じゃないとは思っていたけど、まさかここまでとはね……」
「……? なんだ、どうしたって言うん、だ──ッ?!」
メアに続いてカタリナに駆け寄った俺もまた、彼女の手元を覗き込んで絶句する。
カタリナが何をしているのかと思い覗き込んだ先で見たものは……、土と血で汚れたカタリナの手。それから、口元。
それは他ならぬ、この汚れた地面に落ちた何かを口に運び入れた痕跡であった。
そもそもこんな場所に食べられるものが落ちているはずがなく、俺は急いでカタリナを抱きかかえ、吐き出させようと試みた。
「吐け、吐くんだ! 口に入れたものを、出せ!」
「……んー!」
しかし、カタリナはそれを拒絶し、手の中で暴れ回る。
俺が指を喉の奥に入れようとするのを、手を使い、頭を使って抵抗する。
カタリナがこうも拒絶の意を示すのは初めてだが、保護した者の責任として、危険行為を止めなければならない。あのメアでさえも引き攣った顔を見せるほどの突飛な行動を前に俺も動揺を隠せなかったが、所詮は子供の体だ。
抵抗するカタリナを制して吐き出させようと口に手をかけた、その時。
「んっ」
ごくん、と口の中にあったものが少女の喉を下って胃に落ちる音がする。
「お前なぁ!」
「んあー」
カタリナが自慢するみたいに口を開いて見せる。
途端に漂う鉄錆のような臭い。加えて、カタリナの開いて見せてくる乳歯にべったりと土や小石が付着し、血が付着しているのを見て思わず眉をしかめる。
しかし、そこで諦めるわけにはいかない。
俺はカタリナと言う少女の将来を約束しなければならない。それが、カタリナを連れてきた俺の責任であるからこそ。
「悪いが、全部吐いてもらうぞ」
「ぁぐ」
「痛っ……! 抵抗するんじゃ、ない!」
「おごっ──」
カタリナは抵抗するように小さな顎で入り込んできた指に噛み付いてくるが、子供の噛む力なんかで侵入する大人の手指を止められるはずがない。そうして間もなくしてカタリナの喉が嘔吐き始め、胃の内容物が地面に撒き散らされる。
「はぁ……。地面に落ちたものを拾って食うな、ってところから教えなくちゃいけないか?」
「……すっぱからい」
「悪い、メア。衛生兵にここを片付けてもらうよう頼んでおいてくれ」
「え? あぁ……、うん」
「着替えさせてから、バッカスのところに連れて行くから」
野生児であることをありありと見せつけたカタリナは、口に残る胃液をペッペッと吐き出し繰り返した後、不服そうな顔で見上げてくる。
お前のためを思っての行動なんだから、少しくらい感謝しろよな。
流石に、こんな汚れた状態で衛生班の世話になるわけにはいかないし、何よりもこれ以上ジッとして嫌なことばかりを考えたくない。このままだと、不安に押し潰されかねないから。
「…………あんな場所に落ちていた『食べ物』、なんて──」
背後でメアが何やら思案しているようだが、既に走り去る俺の耳には内容までは届かない。大方、今後の身の振り方でも考えているのだろう。
恐らくだが、俺はもう第三機竜小隊にはいられなくなる。だから、遊撃隊として残るメアとワーグナーの二人で、今後のことを考えていくのだ。
そのことを寂しく思う反面、俺自身が殿下やその他の連中から受けるやっかみだらけのこの環境に嫌気が差していたのも、また事実。これもいい機会なのかもしれない、と俺は気楽な考えを巡らせる。
それが、ただの現実逃避であることは分かっている。分かっているが、機竜という俺の才覚を生かすことのできる相棒を失った今の俺がこのまま機竜小隊に残っていたところで、俺に出来ることは何も無い。
何も出来ない俺を引き留めてくれる奴も、機竜小隊にはいないだろうから。
「これからどうする、か……」
あるのはただ、愛すべき弟妹たち、それからシスターとの未来。
弟妹たちが何不自由なく暮らして行けるように今まで孤児院の教会に給金の半分を仕送りしていたが、それも途絶えてしまうことになる。
特別騎兵として選抜される前も後も、才覚を見出されて帝都に招聘されてからというもの、今まで折れずに頑張って来られたのは、偏に田舎に残した弟妹たちのため、と言うのが大きい。
機竜を失い、惨めな気持ちを味わったとしても、その気持ちが無くなることはない。俺は今後も弟妹たちを守るために、働いて行かなければならない。
一人、増えたわけだしな。
「……うん?」
弟妹のことを考えていたからか、手ごろな頭に自然と手が伸びてしまい、カタリナが「なにしてんだ?」と首を傾げる。目隠ししているはずなのに視線を感じるのは、その布切れの下にある無機質な瞳を無意識に思い出しているからか。
とは言え、俺個人の問題をこんな小さな子供に聞かせるわけにもいかず、俺は明後日の方向を向いて適当に誤魔化す。
「いや。俺たち酷い匂いだな、ってな」
「……くさい、くさい?」
「あぁ、臭いな」
そう言って誤魔化すと、カタリナは鼻をぷひぷひと鳴らして「臭いね」と繰り返す。表情に笑みは浮かばないが、喜んでいるのが良く分かる。
そんな子供特有の素振りを見ると、眼球が変わっていても、多少気味が悪くとも、カタリナは子供なのだと分かる。出会った時から分かっていたことだというのに、その事実は俺の肩に重くのしかかる。忘れていた、とでも言うのか。
多量の惨めさと無力さに加えて多少の罪悪感を背負いながら、現実から目を背ける目的で一つの天幕へと逃げ込んでいく。
その先で、溜め込んだ恐怖と、不信感からました孤独が綯い交ぜになった感情から、滂沱の如く溢れる涙を止められなくなるとは露知らず。無機質で無感動な瞳が俺を見ていることも忘れて、俺は慟哭を噛み殺して泣いたのだった。
補完と言う名の、言語解説。
【レオポルド殿下】
オリア帝国皇帝の長男にして、皇太子。あらゆる側面において秀でている超優秀な皇太子。
その為には努力を惜しまない人間であるが、唯一、人間関係においてのみ不得手。
皇族として、生まれた頃より常に自分が上で相手が下という環境で育った影響で、自分に歯向かう存在に対して容赦がなく、自尊心の塊。そんな一面を知らない国民からは、その顔の良さと耳障りの好い彼の華々しい功績の数々によって評判は高い。
第三機竜小隊の隊長を務めている理由は、公務の一環。皇太子として帝国軍で小隊を率いるという実績を得るため。数ある小隊の中で機竜小隊を選んだのは、最も価値ある経験を積めるからと言う理由。