終節 決別
◇
「──今さらですけど、陽動が一人だけって言うのは、本当に良かったんですか?」
「本当に今更だね。でも実際、僕たちはすんなりと西門を抜けられたでしょ? それが全ての答えだよ」
「……お前はもっと感謝をしなさい。ハリス様自らが動いて下さったんだから。このありがたみを享受できる事に感謝しろよな、愚図が」
「ちょっと~。フォークレアさん? あなたの部下が非常に勤務態度と口が悪いのですが、そこのところ、どのようにお考えですかあ?」
「この場にハリス様はいらっしゃらない。ゆえに、多少の無礼は目を瞑ろう。殺さなければ、何でも良い」
「ちょっと、ちょっと?! それは流石に暴挙が過ぎるってぇ。僕ってばぁ、君たちにそんな嫌われるようなこと、したかな?」
「胸に手を当てて三秒間じっくりと考えてみるといい」
「………………じっくり三秒。うん。何も思い当たらないや!」
「そういうところだ」
賑やかな、声が聞こえる。
「──」
……どこだ、ここは。
息苦しい。視界がぼやけてはっきりとしない。
思考も、靄がかかっているかのようにままならない。
全身に針が刺さっているのかと錯覚してしまえる痛みは、現実か否か。
それすら判別できない程に、頭が働かない。
瞼は重く、指の一本すら動かすことが叶わない。
どうしてこんなことになっているのかさえ、分からない。
だがそれでも、俺の体は渇きを訴える。どんなに働かない頭でも、このまま何も出来ないままでは死ぬしかないことだけは分かる。
──本能だ。
本能が。生きろと叫んでいる。
だから俺の体は、渇きを訴える。声を、上げるのだった。
「……ぅ、ぁ……」
しかし、出るのは掠れた蚊の鳴くような声。
会話に興じる外の誰かには、決して届くことはない。
だがそれでも、声を上げ続けるしかないと、半開きになった口から吐息が漏れる音を吐き出し続ける。
「そう言えば、その男はまだ眠っているの?」
「それはもちろん。まるで死体のようにぐっすりさ!」
「ちょっとメアさん! 不吉なこと、言わないで下さい!」
「でも、意識を失ってから今日で三日、経つからね。そろそろ目覚めないと、本当に死体になってもおかしくないかもしれない。治療院でなら点滴も受けられるのだろうけど、何の設備も無い森の中じゃあね……。まあ、ウェイドの体なら死体でも有効に活用させてもらうけど」
「……ぁ、う、ぁ……!」
「……おい、今、その袋、動いたか?」
誰かが、気付いた。
とにかくこの狭苦しい空間から這い出なければならないと、必死で藻掻く。
「ジルヴァ様。時期も時期とは言え、怖い話は後にしてもらえませんか。せめて私のいないところで……」
「……ぁ、ぁ、ぅぁ……」
「──っ! いいや、決して怖い話なんかじゃないよ! リリスちゃん! 袋を開けて! これ、飲ませてッ!」
「は、はい!」
包まれていた袋が剥がされ、瞼を閉じていても眩く感じる光に眉間にしわが寄る。
俺はただ、声にならないような声を上げて渇きを訴えると、誰かに頭を持ち上げられ、途端に口腔内に水が流れ込んでくる。
「──うっ、けほっ、がほっ!」
死にたくない、と本気で希った先で流し込まれた水も、渇いているはずなのに受け付けられずに吐き戻してしまう。どこまでもわがままで、自分勝手な体である。
それでも、頭上から聞こえてくる声の主は、俺を生き長らえさせようと丁寧に水を運んでくる。
「落ち着いて、ゆっくり飲んでください! いくらでもありますからね……! 大丈夫です、助かりますから、慌てないで飲んでください!」
その献身的な態度のお陰か、手や指、顔や四肢よりも早く、一番最初に力を取り戻したのは、喉であった。少しずつ流し込まれる水を、こくこく、と嚥下していく。
「んっく、はぁ、はぁ……!」
どれだけ飲んでいたことか。やがて渇きを訴えなくなった体は満足し、地面に寝かされる。未だに開くことを拒む瞼と、力の入らない手足は、まるで俺自身が目を覚ますことを拒絶しているかのようであった。
「また、寝た?」
「メアさん! ツンツンしないで下さい!」
一方で、新鮮な空気と水を摂取したことで冴え渡っていく頭は、耳から取り入れられる情報だけを頼りに、状況を整理していく。
思い出すのは、気を失う直前の記憶。忘れるなど、決してあってはならない記憶だ。
「……ぅあ、うぅっ」
それを思い出して、歯噛みする。
確かに覚えている。
最後の記憶。
瞼の裏に焼き付いた光景を、鮮明に覚えている。
シャーリィ。スキウ族の、シャーリィだ。彼女と出会い、そして彼女を──石に変えた。他でもない、俺がやったことだ。
だが俺は、自ら頭を割ろうとしていた。それがパニックゆえの判断だったとしても、落ち着いた今でも俺はそうするべきだと思えるが、今はどうだっていい。
あの時、確かに俺は気を失ったはずだ。頭に血が上り過ぎたか、精神的負荷のどちらか、それとも両方か。詳しいことは思い出せないが、俺は確かにあの時、気を失った。気を失う直前、人が駆け付けてくる足音は聞こえていた。あの足音は、兵士のものだったはずだ。牢から逃げ出した逃亡犯なだけでなく、人を石に変える化け物である俺は、兵士に捕まれば最後、処刑まっしぐらだったはずだ。
レオポルドなら、喜んで政治の道具として処刑するだろう。
──だというのに。俺はまだ、生きている。
聞こえてくる声からして、メアが助けてくれたのかと考えるが妥当だろう。
だがしかし、メアが単なる親切心くらいでわざわざ俺を助けるとは思えない。あの男は、そういう男だからだ。そもそも、メアはあの家に居たはず。まさか後を付けてきたのかと思ったが、そちらの方が現実的じゃない。あのメアが母親のようなムーブをするとは思えないからだ。あの男は、常に万人を見下ろして高笑いをするような性格の持ち主である。人の弱点を探して書き留めるのが趣味のような男の脳内には、「他人の心配」などという言葉は存在しない。
だからメアじゃない、なんて答えに辿り着くと、次第に思考が明瞭になっていく。まるで、靄が晴れて視界が開けるような感覚だ。未だに瞼は固く閉ざされたままだが。
気を失う直前の記憶。
胡乱でおぼろげな記憶としか認識できないそれに宿った、人影。
俺はそれが誰か、知っている。
あの日、あの瞬間、あの場所にやって来た人物を、俺は覚えている。
記憶は頼りにならなくとも、俺の体は確かに記憶していた。
体に染み付いた声を、肌が焦げるような不快感を。
「このままじゃ気持ち悪いでしょうから、汗を──」
──忘れるはずの無い、絶望を。
「──どうして、お前がここに居る? ……リリス」
……その絶望を、俺は確かに、覚えていて。
「ッ?!」
体に触れようと手を伸ばして来たリリスの──否、……嘘つきの、裏切り者の手を、掴んだ。
ゾッとするような声は自分が出したのかと驚く程に悍ましく、リリスを見る目は冷め切っていた。
軋む体を起き上がらせ、リリスの体を地面に敷く。
狼狽える人の体を押し倒すのは、寝起きの俺でも容易く、青さを通り過ぎて土気色になったリリスの顔を睨み付ける。
「……黙っていないで、なんとか言ったらどうだ? ……お前の目に、俺はどう映っていた? お前は、どんな気持ちで俺に言葉を投げかけていた? 単純で、扱いやすかったか? それはさぞかし、滑稽だっただろうなあ。自分の言葉で一喜一憂する俺は、どこまでも愚かしかったことだろうなぁ……」
冷え切った身体に、熱が灯る。
帝城で見たあの時の光景が、感情が、フラッシュバックする。
このままでは、腹の奥底から発火してしまいそうな勢いに、俺は頭に巻かれた包帯を引き千切って、両の目で裏切り者の姿を捉えて吐き出す。
掴んだ華奢な手首を圧し折らんばかりに力を込めて。
「今度はなんだ? またあの男に言われて、メアを騙して付いて来たのか? 俺程度、簡単に騙せると踏んで! 簡単に裏切れる男だと嘲って──!」
「ち、違うんで──」
「──はい、ストップ」
掴んだ手首からミシリ、と耳障りな音が鳴った直後、俺の体は二つの方向から引き剥がされる。
一つは、背後から羽交い締めにされる形で、メアによるもの。
もう一つは、見覚えのある女騎士が間に割って入ったことであった。
「離せ、メア」
「悪いけど、周りを見てくれるかな。君の癇癪に付き合っていられる程、余裕がある訳じゃないんだ」
「……あんた達は確か、近衛の」
「最低ね、あなた。この子、ずっとあなたのことを心配していたのに」
メアの視線誘導に従うと、ここがどこかをようやく認識する。森の中だ。
どうしてこんな場所に、と疑問を抱くより早く、リリスを守るように立つ近衛騎士リザに軽蔑の眼差しを向けられる。一方で、リリスは悲痛な顔を浮かべたままで、それが却って俺の苛立ちを煽る。
どうしてお前がそんな顔を浮かべるのか。浮かべられるのか。
俺には、理解できなかった。
「エディクレス殿。我々は彼の無事を確認できた時点で用が済んだ。私たちは陛下とハリス様と合流するため、ここから去らせてもらおう。私情のもつれまで面倒を見ろとは命令されていないのでな。……離れるとは言え、定期的に報告は行ってもらう。報告の手段は、我々の取る方法に従ってくれたまえ」
もう一人の近衛騎士、確か名前は……ジルヴァだったか。老練な騎士は、俺の背に立つメアに対してそう言い放ち、リザを伴って森の奥に消えて行こうとする。
「こんなところに僕たちを置いてけぼりかい? 野垂れ死んだらどうするのさ!」
「我々に課せられた任は、帝都からの脱出の支援のみ。本来であれば、帝都を出た時点で我々の任は解かれていた。追っ手を撒くのも、追手と対峙するのも、追手を警戒するのも全て、任務外のものだった。その男が目を覚ますまで守っていたのは偏に、ハリス様と陛下のためだ。……わざわざお前の有利な状況を捨ててまでも出発前にその男が重要だと話したのは、俺たちをこき使うためだったのだろう? しかし、男の無事が確認できた以上、ここから先もお前たちに付き合う義理は無い。行くぞ、リザ。……近衛をいつまでもお前の好きに利用できると思うなよ、道化が」
「あなたも、私たちと一緒に来る?」
「……いいえ」
「そう。それで後悔しないなら、いいけど。……言っとくけど私、あんた達のこと嫌いだから。陛下を戻す方法を見つけたら、一番に殺してやりたいくらいにね。だから、私に殺されるまで、精々益になるよう死ぬ気で生きなさいよ。ハリス様の期待に、応えられるように……」
尋常ならざる殺意を迸らせた二人は、そう言い残して去って行く。
背を向けているというのに一縷の隙すら感じ得ないのは、それだけの強者だということだ。
次に会うときは敵か、味方か。去り行く背中を見つめ、俺はそんなことを考えるのだった。
「……おー、こわ」
「メア、お前……あの人達に何をしたんだ」
「さぁね? こんなに可愛い僕のどこを嫌えるんだろうね? きっと心が貧しい人達なんだよ。あの人達は」
きゅるん、と目を瞬かせて精一杯可愛い子振るメアを振り解いて、俺は未だに震える足で立つ。
自分の体がこんなにも重いことを再確認しつつ、一呼吸挟んだお陰で少しだけ冷静さを取り戻した頭で俺はリリスに歩み寄っていく。
「ちょっと、ウェイド。これ以上は……」
「分かってる。……分かってるから、その手を離してくれ」
それを止めようとメアが俺の手を引いて止めるのだが、それを俺は振り返ることなく手を離すよう訴える。
先の一幕を見た後では俺の言動に信用なんてないだろうが、メアはもの言いたげな様子で溜め息を一つ吐いた後に、メアは俺を解放するに至った。
「……」
「ち、違うんです……! ウェイドさん、お願いだから、話を──」
痛む手首を押さえて涙ながらに訴えるリリスの姿というのは、その愛らしく潤んだ瞳はさぞかし庇護欲がそそられることだろう。
──弄ばれたと知らない人であれば。
誰かが言っていた言葉を思い出す。
この世で最も残酷なことは裏切りだ、と。
酒の席で聞いた胡散臭い話だが、いざその目に逢うとなると話は別だ。
しかし、どうして裏切ったのか、と聞くのは野暮になる。彼女には彼女の、やむに已まれぬ理由があったのかもしれない。彼女が俺を裏切ることで救われるのなら、俺如きがどれだけ傷付こうとも、構いやしない。
騙す奴が悪いのか。
それとも、騙された奴が悪いのか。
結果的に傷付いたのが俺だけならば、何を腹立てる必要があったのか。
……意識を失う前の感情が、残っていたようだ。
あの時メアに言われた通り、考えないようにしていたことも揃えて投げ捨てる。
こんな感情、罰を受ける俺には必要無いから。
彼女への想いも、彼女のへの執着もない。リリスはただ、上官の命に従っただけだという、理解のみ。
俺のように、喜んで軍規違反に興じる異端ではない以上、リリスもまた、帝国軍に籍を置く人間。上官の命令には絶対に従わなければならないのだ。
──だから、仕方なかった。
そう、仕方が無かったのだろう。
彼女が何を考えているとか、俺がどう思うとか、そんなことは関係ない。
だから、リリスを責めるなんてのは以ての外だった。
俺は、何を考えていたのか。
嗚呼、我ながら、実に愚鈍な頭をしていると言うものだ。
「……リリス」
「ッ!」
口を開きかけた彼女に声を掛けると、彼女は肩を震わす。
それもそうだろう。同年代とは言え、男女の対格差は明白。それに詰め寄られたら怖いに決まっているじゃないか。
彼女の下に一歩ずつ歩み寄っていく度に、冷静さを取り戻していく。
今では、凪のように落ち着いた心地だ。
思い返してみれば、俺は一体、どの立場でリリスを罵っていたのか。
何様のつもりで、彼女を責め立てたのか。
リリスは……アルバート男爵令嬢は、素晴らしい女性だ。俺なんかには、もったいないほどに。
彼女の下で膝をつき、痣の付いた手首を取った。
一つの答えを、出すために。
「……手を上げてしまって、すまなかった。目覚めたばかりで胡乱だった、などという言い訳はしない。全ては、俺に非があることだから」
「は……? え、いえ……何を、言って……?!」
「お前に……いや、お前たちにどんな思惑があるのかは知らないが、俺には、やるべきことがある。やらなくちゃいけないことが出来たんだ。だから、今すぐにこの身を差し出すことは難しい。だが、約束しよう。全てが終わった暁には、必ず、お前たちの望む通りの罰を受けると……」
今だけは、見逃してくれ。
なんて都合の良い言い分だろうか。世界を破滅に導いておきながら。
俺の謝罪を受け止めたリリスの顔が、更に白くなる。
……当然だろう。
彼女は、自身に課せられた任を達成することが実質的に不可能となったのだから。悪いことをしたと思っている。だけども、言葉の通り、俺のやるべきことを終えた後でなら、いくらでも協力しようと思う。体を切り刻もうと、嬲ろうと、好きにしてもいい。
だが、俺のやろうとしていることを邪魔するのであれば、その時は全力を持って抵抗させてもらう。道を阻む障害は、必ず乗り越えて見せる。打倒して見せる。
例え、その相手が、リリスであったとしても、だ。
けれども、それは今じゃない。
それに、謝罪とは別に、リリスにはきちんと伝えなければならない事もあった。
「……お前に救われたことは、紛れもない事実だ。死ぬことしか考えられなかった俺は、お前の言葉に、行動に、救われた。例えそれがお前自身の目的のためだったとしても、俺は確かに、生きる気力を持てた。罪と向き合おうとすることができたんだ。それは、紛れもない事実だ。だから今、俺はこうしてここに生きて立っていられる。……だから、これだけは伝えさせてくれ。──ありがとう、と」
感謝だ。
言葉の通り、俺はリリスに恩義を感じている。
これは、紛れもない事実。揺るがない真実なのだ。
……もしかしたら、好きだったのかもしれない。その感情が、寄る辺の無い寂しさから生まれたものだったとしても、俺の想いは、嘘じゃなかった。
だから、ここまで来れたのだ。
だけど、ここから先は、もう自分の足で歩けるから。
「なんで……、なんで、そんな……お別れ、みたいなこと──」
対するリリスは、言葉に詰まって泣き崩れる。
それが感極まったからではないことくらい、俺にだって分かる。
分かっているけれど、掛ける言葉は……無い。
会話の成立が困難になった状況を見かねて、メアが口を挟んだ。
「相変わらず君は、どうしてこうも間違った方向に思い切りが良いんだい? 彼女の肩を持つわけでは無いけど……、リリスちゃんは限りなく白に近いグレーだからね」
「……俺も、そうであってほしいと願っていたさ」
「どこに行くんだい?」
「……少し、一人にさせてくれ。色々なことが……そう、色々なことが、ありすぎたから。整理する時間が欲しい」
「おっと、それは確かに必要かもね。なんだったら、現状の説明はいるかい? 今なら紙芝居で披露して上げるよ。こう見えても、僕は銀幕のスタァに選ばれたかもしれない逸材なものでね」
「遠慮しておく」
「あんまり遠くに行かないでよ~」
それだけ残して、俺は背後から聞こえてくる嗚咽に足を止めることなく、その場を離れた。
補完と言う名の、言語解説。
【帝国の追手】
帝都より放たれた追手の数々。
陽動作戦によって帝都からの脱出に成功した一行を追いかけるは、兵士の数々。
そのいずれも手練れであるが、近衛騎士二人による抵抗や偽装工作に加え、帝国東部最大の森林、メトロジア大森林に逃げ込まれたことによって、完全に一行を見失う。
帝都西部、十三区での騒ぎに加え、第二次紫晶災害の兆候に騒ぎ立てる民間人の相手等でただでさえ少ない人手をさらに絞らなければならなかったことに加え、近衛騎士という鉄壁の守りがあったことで、メトロジア大森林に辿り着くまでに一行が追手に悩まされることはほとんど無かった。




