四節 致死量の暗闇
◇
「なんで、無視したりしたんですか」
「色々と、あってな……」
買い出しの帰りだというシャーリィに捕まり、十三区から移動し、隣接する貧民街に連れて来られた俺はシャーリィに詰め寄られていた。
ここで生まれ育った彼女が言うには、ここは昼でも夜でも関係無く滅多に人が来ないのだそう。話をするにはもってこいの環境らしい。
買い出しの荷物を横に置いて、自分の尻尾を抱くようにして隣に座ったシャーリィに、俺は恐る恐る声を掛ける。
「お店、戻らなくていいのか?」
「あー、いいんですいいんです。ちょっとくらい寄り道したって、親方は怒りませんし」
「その……あの後、大丈夫、だったか?」
「あの後? あー……。まあ、その……ぼちぼち、ですかね」
あの後、とはもちろん、機竜に俺とカタリナを隠して飛行させたことだ。
メアの提案であったが、機竜の整備士であるシャーリィはそれを黙認した。見なかったことにした件に関して、相当な突き上げがあったに違いない。
「本当に、申し訳なかった……!」
「か、顔を上げて下さいです、ウェイドさん。あれは、ワタシも共犯でした。共犯の中で一番的にしやすかったのがワタシというだけで、クビにされた事以外、特にこれと言って被害はありませんでしたし」
「クビ……やっぱり、そうだったか……。謝って済む話ではないが……すまなかった」
姿勢を正して、地面に額を擦り付ける勢いで頭を下げると、シャーリィは慌てた様子で「頭を上げてください」と繰り返す。だが、いくら彼女が許そうとしても、これは俺自身が許せない。何せシャーリィは、アーティファクトの整備士になることを夢だと語っていた少女なのだ。その夢を無に帰した俺が許されていいはずが無い。
本来ならば属領となったスキウ族が帝国の根幹とも呼べるアーティファクトに触れることなど叶うはずがなかったのにもかかわらず、ロベリア陛下が行った施策によって道が開かれたことにより彼女は夢を叶えることが出来た。
そんな華々しい道を、俺のせいで閉ざす事になったのだ。そんな残酷なことを仕出かした俺を、許さなくていいのに、シャーリィは俺に文句の一つも吐かない。それが却って胸を締め付けるというもので。
「納得できないというなら、これだけ聞いてください。……実は私、機竜の整備班を、もうすぐ辞めようと思っていたんです」
「っ!」
「……今だから言えますけど、待遇は雑だったし、給金は足元見られるしで、不満が溜まっていたんです。それに、アーティファクトの整備が出来るところで同等の給金を出してくれる求人は、城下に出れば結構あるんですよ。実はガルメア様にはワタシの転職先に口利きしてもらったりもしていまして……。拾ってもらったところは、その中で一番待遇が良いところなんです。だからワタシ、ウェイドさんのこと責めたりしてないです。むしろ、ガルメア様と一緒で、感謝してるんです。ワタシの方こそ、担当の時から良くしてくれて、ありがとうございました」
「俺は、何も……」
メアから厚いバックアップがあったと聞いた上に、却って感謝までされる始末。俺は言葉を失うばかりで、暫しの間二人の間に沈黙が流れる。
エリカの時とは違う、言葉にし難い空気に焦り、俺はそつがないであろう話題を選んで口にする。
「……弟と妹たちは、元気か?」
「……」
しかし、俺の選んだ話題で返って来たのは、更なる深い沈黙だった。
おかしい。
整備担当時代は、二人で弟妹の会話で笑い合っていたはずが、どうしてシャーリィはそんな沈んだ横顔を見せるのか。
その疑問に対する答えはすぐに判明して、自分の愚かさに気付く。
「……弟が一人、妹が二人、石になりました」
「──っ」
考えなしに言葉を選ぶからこうなる。
知り合いであれば紫晶災害から免れるとでも思っていたのか。そんな都合の良い話、あるはずがない。その考えは、今すぐに捨てるべきだ。何度同じ失態を繰り返せば気が済むのか。
……どこまでも無神経な話題に触れ、俺の喉は渇きを覚える。それも、言葉が出なくなる程に強烈なまでの渇きだ。唾を飲み込むのに必死で、シャーリィに声を掛けることさえ忘れてしまえた。
「……父親は、呪い人になって、迫害の対象にされました。ワタシたち家族に迷惑はかけられないといって出て行ったきり、消息不明になって……」
彼女の家族構成は確か、両親と、長女である彼女。それから弟が二人と、妹が二人の計五人。大家族が基本の獣人からすると小規模家系である彼女の家だが、小さな弟妹を育てるために、父親とシャーリィの二人が家計を支えていた。過ぎ去りし日のいつかに、その生活は大変ではないのかと問うと、お金が無いにも関わらず自分をここまで育て上げてくれた両親に少しでも恩返しを、と返ってきたことを思い出す。シャーリィは、その小さな体に幼い弟妹達に不自由なく育ってほしいとの願いを背負って生きていることを知っているからこそ、残酷な現実を突き付けられた俺がようやく口に出せた言葉は──謝罪だった。
「ごめん……本当に、ごめん、なさい……!」
「謝ってばかりですね、ウェイドさんは。ウェイドさんが謝ることなんて、何も。立ち直ったから大丈夫……とはまだ言えませんが、残された家族のためにも生きていかなきゃいけませんから。いつまでも、下を向いてばかりいられません!」
首を横に振るシャーリィ。
奮起した顔でニッ、と笑って見せる彼女ではあるが、やはりその笑顔はどこかぎこちない。
分かっていたはずだ。俺の所為で起こった紫晶災害による被害者が、その家族がどんな目に逢うか。帝都に至るまでの道中でも、帝都にやって来てからも、嫌というほど見せられてきたはず。
だというのに、たった一晩でその価値観を大きく変えられるような出来事を経たからと言って、俺のやったことが無かったことになるわけではない。過去が消えるわけではない。
エリカという女性に会って、欲しい言葉を貰って……浮かれていた。忘れてはならないことを忘れるほどに、目を背けてはならないものから目を背けてしまうほどに、浮かれていたのだ。魅力的な女性を言い訳に、溺れた。自分が踏み入る権利など無い場所に、俺は足を踏み入れてしまっていることも忘れて、快楽に逃げていたのだ。
だから戻れなかった。だから引き返せなかった。
だから、迂闊な事を口走った。少し考えれば、分かるようなことを。
「……がう──ちがう、違う、違うっ!」
「ウェイド、さん……?」
「──俺だっ! 俺が、紫晶災害を起こしたんだ……! みんなを石に変えて、半端者を生んで、数え切れないほどの不幸を生み出した! その全てが、俺の所為……。俺が全ての、元凶なんだッ!」
だから、打ち明けた。
この行動がどれだけ俺の心に負荷をきたそうとも、紫晶災害によって被害を受けた人の前でそれを黙ることは即ち、責任から逃げているということだから。彼らには俺を非難する正当な権利が与えられてしかるべき。
それこそが罪と罰のあるべき姿なのだ。罪に押し潰されそうなどと言う俺の弱音も、事情も、関係ない。
俺には罪を背負って生きていくことが義務付けられている。その重荷がどれだけ荷重を重ねようとも、勝手に下ろすことも目を背けることも、断じて許されない。
必要に駆られて吐き出した俺の言葉に、シャーリィの表情は曇っていく。
スキウ族特有の真っ黒な瞳が、理解できないような目の色に変わり、俺を見る。
「何を……なにを、言っているんです? 冗談にしてはタチが悪いです。ワタシ、そう言うのは嫌いです」
「本当だ。本当なんだ。……俺が、紫晶災害を起こした張本人なんだ。俺の家族も、全員石になった。砕け散った。俺が、石に変えたんだ。俺が願ったから……お前の家族も、石に変えられた」
言葉は、選べなかった。
俺の罪を認めさせるためなら、なんとでも言えた。
だから俺は、言葉を選ばなかった。
途端、シャーリィは目の色を変えて、俺の胸倉を掴みにかかる。
「ッ! ふざけたことを……抜かさないで下さい! 冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ! ワタシだって、怒りますから!」
小柄な彼女と、膝をつく俺。彼我に身長差があるとは言え、彼女が上から見下ろす形で俺の胸倉を掴み上げる。上から睨め付けるシャーリィの剣幕は鋭く、思わず気圧されるほどの気迫の強さは、それだけ彼女が家族を想っている証拠である。俺の手から零れていったその眩しさが羨ましく思えて、俺は口を真一文字に結んで横を向くのだった。
「……ワタシは、ウェイドさんと付き合いが深いわけではないので上手く言えませんが、あなたが冗談でもそんなことを言うような人ではないと思っていました。でも、違ったみたいですね」
「……」
「何とか言ったらどうなんですか! あなたは言っていましたよね。家族が一番大事だって。大切だと言っていた家族を、あなたは自らの意思で、物言わぬ石に変えたというのですか? 家族を大切に思っていたのも、嘘だったんですか?! あなたも、他の人と同じで、ワタシを心の中では馬鹿にしていたんですか?! だから、ワタシの家族を……石に──!」
「──違うッ!」
先程と同じ文言。
「嘘なんかじゃ、ない! 俺は、確かに家族を愛していた! 愛して、いたのに……!」
けれども、そこに込められた思いは正反対に叫ぶ。
「それを、俺の意思だと……? あんなものに、俺の意思が介在してたまるものか……! 俺はこんなこと、願っちゃいない……! 俺はただ……ただ、現実から目を、背けたかっただけなんだ……」
立ち上がり声高に叫んだのは、先程とは異なる矛盾する独白。
最早、俺はシャーリィとの対話をしていなかった。
俺はただ一人、幻の自分と対話を重ねていく。
こんなこと、シャーリィに打ち明けたところで、彼女は何も知らないと言うのに。この独白に、何の意味もないというにもかかわらず、俺は彼女を巻き込んでしまう。
紫晶災害の罪を背負うべきだという俺自身に対して、しかしてあれは俺の意思ではないと叫ぶ自分。
二律した感情に、最早自分自身でさえもどちらが本音かどうか分からない。
自分で自分のことが、何も分からなくなってしまっているのだ。
それがもどかしくて、誰かに分かって欲しくて、泣き叫ぶ。
泣き叫ぶことさえ許されずに石にされた数多の被害者を思えば、自分には泣き叫ぶ権利すら無いのだと指を差すもう一人の自分がいることを知って、ただただ顔が強張っていく。
さっきとは立場が変わり、俺が見下ろす側となった状態で、影が差すシャーリィの表情は険しい。俺は今、どんな表情を浮かべているのか、分からない。
「うぇ、ウェイドさん……? こ、怖いですよ……」
「は、ははは……! 俺は、俺は……こんな世界を望んだ訳じゃないんだ……。誰も、こんな世界が欲しかったなんて言ってない。願ってなんかない。ただ……、もうこれ以上、傷付きたくなかっただけなんだ……」
「ウェイドさんが何を言っているのか、ワタシにはサッパリですよ……?」
涙で視界が滲む。彼女の顔に、涙が落ちる。
それはやがてシャーリィの顔も見えなくなるくらい、感情が大きく荒ぶり、自分でも制御できない程の、感情の渦の中に取り込まれる。
体が熱い。
息が苦しい。
頭が、右目が──痛い。
「うぇ、ウェイドさん……? 目、が──」
「ぐ、う、ああ……、ああぁあああっあああ、ああああ──ッ!」
突如として襲い来る、頭が割れんばかりの激痛。
体の内側からまさぐられるような不快感。
眼球をなぞられているかのような嫌悪感。
それら全てが一挙に舞い込んできた俺の身体はパニックに陥り、右目を覆って地面に尻餅をつく。
突然の俺に怪訝な表情を見せるシャーリィ。
だが彼女は近寄りながら心配そうに手を差し伸べてくれる。こんなにも優しい彼女から職を奪い、家族までも奪った俺は……、と思うと自己嫌悪が増すとともに、全身に行き渡る不快感も増していく。
差し伸べられた手を取ることすら出来ない程に悶え苦しむ俺の視界が、頭の中が、真っ白に染まっていく。
「ぐっ、うう……ぐがあ、あああぁぁぁっああああぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ、ぁぁぁああぁっ──!」
「ウェイドさ──」
……光が、止んだ。
どれだけの間そうしていたのか。
自分のものとは思えないような声が耳に残る中で、俺は地面に蹲って噎せ繰り返す。
気が付けば、俺を襲っていた苦痛は嘘のように消え去っているではないか。
代わりに、虚脱感とか、不快感とか、嫌悪感とかが纏わり付く。
吐き気すら、催している。
要は、最低最悪の気分だということで。
全身を襲っていた不快感や嫌悪感がすっきりと抜けたような解放感が身を包む一方で、残る息苦しさや、全身に纏わり付いた大量の汗が不快であることに気付く。
思い出したかのように呼吸を繰り返し、やがて焦点が合っていく視界は、自分の大量の汗で染みが出来た地面を映し出す。こんなになるまでパニックに陥っていたのかと思うと、次に襲ってきたのは、不安。
シャーリィを驚かせてしまっただろうか。
揺れる視界と回る頭を支えて、ゆっくりと顔を上げていく。
「……」
この胸の早まる鼓動がただの杞憂であれと願うのは、頭の中に最悪の光景が浮かんでいるからなのか。それとも、視界が急激に狭窄しているからなのか。乱れる呼吸は、何を示唆しているのか。
途端に俺は顔を上げることに恐怖を覚えてしまった。
帝国には、教会が有する精神病棟もあると聞く。戦場から帰った兵士が、日常の中で戦場を思い返してパニックに陥るなどして、精神面から日常生活に支障をきたすことがある人を療養させる施設なのだとか。その中には、自覚のないまま凶器を振るって人を傷付けるなどの凶悪な二面性を有した者もいると聞いたことがある。
今の一瞬でどれだけの時間が過ぎたのかも分からないが、周囲の状況すら記憶から消えてしまう程のパニック症状。自覚があるとは言え、それに似た最悪が起こっているのかもしれないと思うと顔を上げるのが酷く恐ろしく思えてならない。
だが、それでも。
傍にシャーリィがいたことだけは覚えている。
ただ一言、驚かせてごめん、とだけ言えばいい。
そう決意して、俺は、視線を持ち上げた。
「──……っ」
顔を上げた、先。
その、先では。
俺の最悪の想定を遥かに上回る最悪が、現実となって牙を剥くのだった。
「…………は?」
目を、瞠る。
声を、息を、忘れて、俺は、目の前にそびえるものを見て、目を疑った。
「な……んで、ど、うして……っ! さっきまで……、喋ってたのに……ッ!」
顔を上げた先にあったのは、死体──ではない。
死体ならば、どれだけよかったことか。
そこにあったのは──
──紫水晶と化した、シャーリィの姿だった。
「う、うわあああああああああああああああああああああああっ!!!!!!」
貧民街に、悲鳴が響き渡る。
「なんで! なんで、なんで、なんでなんでなんで──どうして! どうしてシャーリィが、紫水晶に閉じ込められているんだよッ?!」
紫晶災害は終わったはず。
カタリナだってもういない。
だからこれ以上、石にされる人が増えるようなことは有り得ないはずなのに。
どうしてシャーリィは、頭の天辺から尻尾の先まで光り輝く紫水晶に閉じ込められてしまっているのか。
もしや、カタリナがどこかで見ているのか、と思考が飛躍した瞬間。たった一つしか用意されていない正答に俺は辿り着く。
「……俺が、やったのか……?」
頭を抱える手が答えを示しているではないか。
右手が触れる先。右目の周りから、肌の質感を感じられない。
伝わってくるのは、目の前にあるシャーリィと同じ。滑らかな石の感触。
「あの、時と、同じ……。シグと、アキと……シスター、フィオナの時と同じ──」
鏡越しに何度も何度も俺を石にしろと叫んだ事があった。みんなと同じになりたかった。そうすれば、これ以上苦しむこともないだろうから。
その時は一度だって発動しなかったことから、あれは一度きりのものなのだと思い込んでいた。だが、それが今、最悪のタイミングで、発動したのだ。
それを理解するのに、長い時間は必要なかった。
「この……目が! この目など、無ければ……ッ!」
一切の躊躇なく、右目を壁に打ち付ける。鋭利な場所を探して、頭を振るう。
惜しむらくは、今この場に刃物が無いことだろう。もしあったならば、俺は首を切っていた。いつもなら怖気づく自死も、今なら何の抵抗も無く選べたはずが、空を切る手で自分の頭を痛めつける。
「死ね! 死ね! 死んでしまえ──……、俺は……どうして、生きている? なんで、死なない? 生きている価値なんて、無いのに──」
何度も何度も何度も何度も、頭を傷付けると同時に、心がひび割れていく音が聞こえてくる。しかし、破壊すべき右目はひびの一つも入らないまま先に俺の頭骨に限界が訪れ、大量の血を流して地面に倒れる。
「……こんなこと、願ってなど、いないのに……」
ただただ、苦しい。
気が狂うような空虚さだけが残り、真っ赤に染まった空を見上げる。
「……ごめん。ごめんな、シャーリィ……。俺は、こんなこと、したい訳じゃないのに……俺が、生きているばっかりに……酷い目に逢わせて、ごめん……っ」
涙を流す資格もないというのに、溢れて止まない涙が、血と混じって流れ落ちていく。
遠くの方で、足音が聞こえてくる。兵士の音だ。馬の駆ける足音も聞こえてくる。そう距離も遠くない。間もなく駆け付けてくるに違いない。このまま、殺されるのだろうか。最早立ち上がる力も、何も無い。
……だが、本当にそれでいいのか。
このまま何も成し得ず、死にゆくことは本当に正しいのかどうか。
シャーリィから人生までも奪って死ぬなど、許されていいはずがない。
……せめて、せめて彼女だけでも。最後まで俺に優しさを向けてくれた彼女だけでも、救わなければならない。
紫晶災害によって人生を奪われた人たちをそのままにして死に絶えるなど、罰にしては生温い。残りの全ての人生をかけてでも、シャーリィを、ロベリア陛下を……そして、家族を元に戻す手立てを見つけなければならない。
その過程で最低最悪の犯罪者がどれだけ苦しもうと、どれだけ苛まれようとも──死んで楽をしようなど許されていいはずがない。
「ぐっ……ぎ、ガァァァァァァッ!」
ならば、こんなところで寝ていていいはずがない。
立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。
立って、歩いて、前に進むことしか、俺には許されていない。
だから、早く前に──
「──ウェイドさんっ!」
ぐらり、と起こした上体が支えきれずに倒れて行く寸前、俺は誰かに受け止められる。
俺は行かなければならない。前に、前に歩き続けなければならない。その一心で足掻き続けるが、血を流し過ぎた俺は、抱きとめる華奢な体躯すらも振り払うことが出来ない。
「凄い出血……! すぐに、運びますから、しっかり掴まっていて下さいね!」
屍が如く呻くことしか出来ない俺には、声の主が誰かを確認する間もなく意識が泥濘に沈んでいく。
深く、深く、沈んでいく。
二度と目が覚めないような冷たい水の中ではなく。
温かく、慈愛に満ちた穏やかな沼の中へと、沈んでいくのであった──
補完と言う名の、言語解説。
【精神病棟】
帝国軍兵士として敵国とは言え人を手にかけたことを病んでしまう人のために、聖神教が運営する治療院。
兵士の中で二割は心を病んでしまうと言われ、中には貴族出身の子女らも精神を病んでその病棟での療養を望むこともある。
精神病棟では女神ポラスに祈りを捧げ、賛美歌で心を癒し、とにかく戦争の記憶から離れることを第一に活動している。しかし、その成果は依然として芳しくなく、聖神教内部における派閥争いでは寄付金を多く喰らっている、と槍玉に挙げられることが多い。
それでも、帝国の領土を広げることは聖神教の教えを広めることと同意であるため、聖神教では国のために戦う兵士を神聖視しなければならず、そんな彼らのために働く修道士の多くは誉れを抱いて神職に従事しているのであった。




