四節 暗闇5
◇
壊れた街灯は、光を灯さない。
火事の影響か、それとも捨て置かれたのか。
燃え尽きた瓦礫の山が広がる十三区の一角は、夜になると暗闇に閉ざされる。
その暗闇の中心で俺は一人、花束を手に立ち尽くしていた。
「おばさん……」
十三区の貸し部屋を探していた際に見つけた、格安の物件。
それが、『沈黙の羊亭』だった。
一階は酒場兼食事処となっていて、二階に貸し部屋がある建物だったが、部屋を借りる人はほとんどいなかった。そのため、二階の空き部屋は、大半が付近の繁華街や一階の酒場で巡り合った男女が行き着き盛る、連れ込み宿的な意味合いでの利用がほとんどで、夜になると男女の営みが聞こえてくるような部屋を、俺は借りた。
その要因も相俟って格安だったのだが、任務後は疲労困憊で疲れ切っていることが大半であるため、そんな声に悩まされた記憶はほとんどなかった。
部屋はその値段に見合ったベッドと申し訳程度の収納があるだけの寂しい部屋。しかし、兵士になりたて──それも、過去に類を見ない特別騎兵としての職務は多忙を極めていたため、帰って寝られれば俺としてはどんな部屋でも良かったから即決だった。
任務にかかりきりになって三日に一回しか帰らないような月もあったが、それでも女将さんは「金さえ払ってくれれば好きに使っていい」と言ってくれて、帰って来れば温かい夕食を用意してくれるような人だった。
日和見主義だが心根の優しさは隠し切れないような、不器用な人。
そんな女将さんが……、呪い人を庇って焼け死んだ。
「ふぐっ……、くっ、うぅ……!」
頭をすっぽりと覆うフードの下で、俺は歯を食い縛る。
悲しくて、悔しくて、腹立たしい。心を動かすには十分たる感情を抱いているというのにもかかわらず、不思議と、涙は零れない。
零れて、くれない。
大切な人が死んだと言うのに涙の一つも流せない自分を情けなく思い卑下していると、突如として声が掛かった
「──そんなに強く握り締めたら、花が可哀そうだわ」
「っ?!」
気が付けば、隣に並んだ女の影。
顔が見えないのは夜の暗闇のせいではなく、彼女もまた、顔を隠すようにフードを目深にかぶっていたからだ。
代わりにその人を表わすかのように香ってくる、鼻を刺すような甘ったるい匂い。それが頭を揺らしてくれたお陰で、驚いた拍子に花束を落としてしまう。
「ああっ! ほら。こんなに曲がっちゃって。誰かへの、手向けかしら?」
「……っ」
「答えたくないなら、答えなくていいわ。私も丁度、祈りを捧げに来ただけだから」
茫然とする俺の代わりに拾い上げてくれた花束を受け取ると、女は蝋燭一本の小さな明かりを頼りに瓦礫の中を分け入っていく。
しかし、その光源だけではあまりにも頼りない。そんな俺の考えの通り、危ない、と声を掛ける前に女は足を取られて姿勢を崩してしまう。
「きゃっ?! ……? あら、ありがとう。……綺麗な顔が見えたわね」
「……その光だけでは、危険だ」
「そうね。でも、この花だけは供えてあげたいの。だから、手伝ってくれる?」
「……」
下から覗き込まれてすっかり顔を見られた俺は、彼女を立たせた後に再びフードを目深にかぶってから渋い顔をする。
女はまるでたった一瞬の邂逅で見透かしたかのように、お前は自分を捨て置けないだろう、とでも言わんばかりに微笑んで、俺の答えを待つまでもなく瓦礫の山を進んでいく。仕方なく思い、その後を黙って追随する俺は自分でも何をしているのか分からなくなる。
しかし、女の後を追うことで理解した。
あそこで転倒しかけたのは明かりが小さいということもさることながら、彼女の足取りが不安定であることが原因なのだということを。
片足を引き摺るように歩くから、何度も何度も転びそうになる。その度に俺が支えてやるも、彼女は決して止まることはなかった。
そうして長い時間をかけて瓦礫の上を歩いて行った先で、彼女はようやく足を止めた。
「夜が明ける前に来られて、良かったわ」
「ここは……」
「『沈黙の羊亭』の裏手にあった、小さな娼館よ。知らない? まぁ今となってはもう、跡地だけどね」
瓦礫を退けて、開けたスペースに腰を下ろした女は、そこに花束から抜いた花を一つずつ並べて行く。
「……お姉さんたちは、私を含む妹たちを逃がすために、ここで炎に巻かれたの。私は最後に逃げ出したから、その瞬間を良く覚えている」
「……ここに、勤めていたのか?」
「あなたは、娼婦は嫌い?」
「差別はしない」
「そう。でも、紫晶災害が起こった日、私たち娼婦の大半は、呪い人にされた。石にされた人より、紛い物になった数の方が多いくらいよ。それを知った住民たちは、お前たちは汚れた職業だからだ、なんて言って石を投げてきたの。今まで散々お客さんとして来てた人たちからも、罵倒を浴びせられたわ」
石にならなかった人、石にされた人。そして、呪い人になった人。
紫晶災害によって分けられた三種の人類。その違いは、未だ解明されていない。魔力量も、肉体の強さも、食事の傾向も、何もかもが無作為。
ゆえに、住民の起こした行為は間違っている。しかし、突如として目の前にいた人が石になる、なんて経験をして、平常心でいられる者などそう多くは無いことも知っている。
突如として正解の分からなくなった世界に人々は恐怖し、慄き、震え上がったことだろう。
だから人は、自分とは違う存在を排除しようと動いた。それが一人や二人なら賛同する声も少なかったのかもしれない。だが、国がそれを宣言したのだ。正義と言う名の大義名分を得た人間は、怖い。間違っていることも正義の名の下であれば、肯定されるのだから。
間違いを間違いだと受け入れるという正常な判断すら、つかなくなっていたのだ。
呪い人を排斥するのに、十三区では娼婦というのがたまたま槍玉に挙げられたのだろう。
偶々で選ばれたことを仕方が無いと納得できるはずもなく。そして、それに見て見ぬ振りをしなかったおばさんたちもまた、排除すべき存在となって──。
「みんな……安らかに、お眠りください」
女は両手を組んで祈りを捧ぐ。
彼女の頬を伝って、涙が地面に落ちる。黒く煤けた地面に、染みが広がっていくのを俺は黙って見つめた。
世界が大きく変わった日から、こういった不幸は世界中でありふれているのだろう。
だからこそ、世界を大きく変えてしまった俺は、生み出した数多の不幸から、……彼女の不幸から、目を背けることは許されなくて。
「……俺が紫晶災害を起こした、と言ったら、どうする」
「は?」
祈りを終えた女に、俺は静かに問いかける。
どうして見ず知らずの女にそれを打ち明けたのか。
考える力も、衝動的に動いた口を閉ざす力も、俺には無かったことだけは分かる。
女は一瞬口を開けて呆けていたが、しばしの静寂の後、言葉を紡いだ。
「……あなたが、お姉さんたちが死ぬ原因を作った人、ってこと? そんなの考えたことなかった、っていうのが正直な感想かしら。素直に答えるとしたら……私たちを追い詰めて火を放った住民たちのことは、今でも殺してやりたい程憎んでいるわ。けど、紫晶災害を起こしたっていう人がいざ目の前にいるとしたら、そうね……一発引っ叩いて、おしまいね」
「……殺したいとは、思わないのか? 紫晶災害が無ければ、誰もこんな、不幸な目には逢わなかった。今まで通り、普通の日常が、続いていたはずなのに……!」
「確かに、それはそうだけど……。呪い人を勝手に怖がって排除しようとしたのは、あいつらだから。向こうがちゃんと理解しようとしていればきっと、呪い人なんて不名誉な名前もつかなかったし、お姉さんたちだって殺されなかった。それこそ、庇い盾になってくれた十三区のみんなもそう。……そう考えると、なんだか余計あいつらが憎く思えてきたわ。お姉さんたちの霊が力を貸してくれているのかしら?」
俺の意を決した態度とは裏腹に、彼女は冗談めかして言いながらころころと笑う。罵詈雑言を覚悟していた俺は、愕然とせざるを得なかった。
どうして俺を恨まないのか。どうして俺を憎まないのか。
もしや信じていないのではないかと思い、フードを取って俺が呪い人であることを彼女に示す。
「俺は……この目で家族を石にした! 俺が願ったから……世界中の人が石になったんだ! 呪い人が疎まれるのも、呪い人が生まれたのも全て、俺のせいなんだッ!」
「まあ」
何も生まない俺の叫び声が、暗闇に吸い込まれて消え行く。しかし、目の前の彼女にだけはハッキリと聞こえたようで、肩で息をする俺を見上げる彼女から、息を飲む音が聞こえた。
怖いだろう。恐ろしいだろう。恨みが、憎悪が湧いてくるだろう。
ならば俺に、悪意を浴びせてくれ。
罰を……受けさせてくれ。
しかし、その思いは虚しく彼女の怒りを誘惑することは出来ず。動揺したのは一瞬のことだけで、開かれた口からは落ち着いた声音が聞こえてくるのだった。
「……それでも、私が恨んだり憎んだりするのは、私たちを追い詰めて火を放った帝都の住人たちだけ。もし……もしもあなたの言っていることが本当だとしても、私はあなたを恨んだりはしないわ。とは言え、正直実感が無いって言うのが本音。……実感を得たとしても、考えは変わらないと思うわ。もし仮に本当だとしても、あなたが全部の不幸を背負う必要なんて無いと思うけど。でも、そう思いたくなるのは、分かる気がする。……だって──」
そう言って力無く微笑んだ彼女は、俺と同じようにフードを外して、体を覆うケープの紐をほどいていく。その下に見えるのは、素肌。大きく開かれた煽情的な服装は男の劣情を煽るには最適で、きめ細やかな肌が光って見えるデコルテに俺は目を奪われる。
だってそこには、小さいながらも、紫水晶に浸食される、彼女の肌があったから。
「──」
「私も同じ。お姉さんたちやあなたと一緒の、呪い人だもの。体を売る仕事なのに、こんなんじゃ、誰も気味悪がって買ってくれないわね」
「……どうして、俺を責めないんだ。その体も、お姉さんたちが死んだのも、全部俺の所為なのに」
「それね、ちょっと考えてみたけど、やっぱり意味不明。あの場にあなたがいたなら話は別だけど、私は見てないもの。私、あの時あの場所にいた奴らの顔は、全部覚えているから。私が恨んでいるのは、そいつらだけ。それにね、なんとなく分かるの。あなた、いい人だ、って」
小さな明かりに揺れる彼女の表情は、本当に一切の裏表なく俺を恨むことはないと言っているのが分かるほどに澄んでおり、同情とも哀れみとも異なる、俺の知らない感情が、そこには宿っていた。
「それに、言ったでしょ。あなたが全てを背負う必要なんてない、って。……お姉さんたちが私と妹たちを生かしてくれた後、生活もままならなくて、妹が二人死んだわ。私には何も出来なくて、生きる気力も無くて、なんで私なんかが生き残ったんだ、ってずっと思ってた。私なんかじゃなくてお姉さんたちが生き残ればあの二人はきっと死ななかったんじゃないか、ってずっと考えてたの」
身の上話を聞いて、俺は増々罪悪感に押し潰されそうになる。そんな思いをさせたのも全部、俺の所為だと唇を噛みながら。それと同時に、彼女の瞳に宿っていた感情が『共感』であったことも理解する。
彼女は、俺の苦しみを理解しようとしてくれているのだ。
……お前如きに、分かるはずがない。
世界中を不幸にした罪の重さを常人が理解出来るわけがないと声高に叫ぶ自分を押し殺して、彼女の話に耳を傾ける。
「……考えて考えて、考え抜いた先で、私は気付いたの」
「気付いた……。何に?」
「そんなこと、考えるだけ無駄だってことに」
「っ! 無駄、だなんて──」
「そんな言い方無いんじゃないかって? うん、私もそう思う。……悩んで、苦しんで、泣いて、怒って。どれもお姉さんたちのために思ってのこと……、そう思っていたけど、結局それは、ただの私の自己満足にしか過ぎないってことに気が付いたの。もちろん、身近な人が死んだことはとても悲しいわ。でも、私がいくら苦悩して悲しんだところで、お姉さんたちが生き返るわけじゃない。だから、生き残った妹たちのために私はさっさと立ち直るべきだ、ってね。確かにこの命は死んだ人を思うためにあるけれど、それだけじゃなくて、生き残った人たちのためにもあるんだって、そう思えたの」
だから私は前を向けた、と語る女に対して、俺は苛立ちを覚えてしまう。
……ならば、世界中を不幸にした犯罪者にも、同じ事が言えるのか。罪を忘れて、思いのままに生きろと言えるのかと、喉の奥で言葉が暴れ狂う。
しかし、彼女の考えも尊重されて然るべき考えだと思えるだけの冷静さは、微かにあって。
いつまでも動かない石像と化した人に罪の意識を抱き続けるよりも、今を生きる呪い人や、紫晶災害によって不幸を被った人のために生きるべき、だという意見は一考の余地があるように思える。
だとしても、罪の意識を忘れろ、と言うのは余りにも荒唐無稽で考え無しだと言わざるを得ない。
つまりは、この女と俺は考えが一致しない、というわけだ。
聞くだけ無駄だった、と踵を返そうとしたその時。女は、まだ話は終わっていない、とばかりに服の裾を掴む。奇しくも、忌々しいカタリナや愛すべき弟妹達の記憶がフラッシュバックする光景に、俺は動きを止めてしまう。
「……離せ」
「駄目よ。人の話は、最後まで聞くものでしょ?」
まるでシスターフィオナを想起させるような口振りに、俺の身体は強張る。
目の前の彼女は、シスターフィオナとは違って体は貧相だし大人の余裕も無いが、後ろ髪引かれる思いで再び彼女の方を向き直らざるを得ない。
「久し振りに妹たち以外と話せたの。もう少し付き合ってよ」
冗談めかして言う彼女に対して、俺は溜め息を一つ吐くと、言葉を取り繕う必要もないかのように語り出す。
「……お前のように割り切れたら、どれだけ楽だろうな。俺のしたことは、そんな簡単に割り切っていいようなことじゃない。決して許されないようなこと──……、一生かかっても償い切れないほどの罪を、犯したんだ。だから俺は……」
「全部の罪を背負うの?」
「ああ、そうだ。お前の身に降りかかった不幸も、元を辿れば俺の──」
「それは違うわよ」
「なに?」
「あなたが何をしたか、なんて私とは規模が違うから詳しくは分からないけど、これだけは言い切れるわ。──それは違う、って。……私を傷付けた人達の罪を、あなたが背負う必要なんてない。あいつらの罪はあいつらのもの。それとも何? あなたは私から正当な怒りまで奪おうって言うの?」
「……それが俺のすべきことであるなら、全て背負う覚悟が──」
「そんなの、覚悟じゃない!」
肩を怒らせ、俺の言葉を塞ぐように声を被せた女は、目にいっぱいの涙を溜めて睨む。
どうしてお前が泣いているのか。そう問いかける前に、女が言葉を続ける。
「そんなのは覚悟なんかじゃない! 覚悟なんて、呼んでいいものじゃないわよ……。自分を捨ててまで、するような事じゃない……!」
「なんでお前が泣くんだよ……」
「だってそんなの、あなたは自分の人生を諦めているようなものじゃない! まるで……まるで、死ぬために生きているみたい。……そんな人生、辛くて苦しいだけじゃない! 私なら、絶対に耐えられないと思ったから……」
「だけど俺は、多くの人の人生をいくつも奪ったんだ。あらゆる人の人生を、狂わせた。その罰だとすれば、まだまだ生温い」
「……あなたのそれは、ただの無謀だわ。成し遂げたって、誰も褒めてくれない」
「褒められるためにやってるんじゃない。これは俺の……俺が果たすべき責任なんだ」
「それでも、私は──。……あなたの周りで、それを止めてくれる人はいなかったの? 泣いてくれる人は、いないの?」
彼女の問いに、脳裏に一人の女性が浮かぶ。
彼女はいつも、不安そうな顔をしていた。泣き出しそうな顔をしていた。
あれも全て嘘だったのだとすれば、とんだ大女優だ。俺はずっと手の平の上だった訳だ。
代わりに、両手でピースしながら軽薄な笑みを浮かべるメアを思い出して、頭を振る。
「いない、な」
「それじゃあ、私があなたの分まで、泣いてあげる。悲しんであげる。あなたの心はきっと、そんなことを感じる余裕もないくらい、ボロボロだから。正常に働いていたら、そんなこと考えられないもの」
そう言って俺の胸に顔を埋める彼女を、俺は振り払えなかった。
少なからず彼女の言葉を、嬉しく思う自分がいたから。
しばらくの間そうしていると、彼女は「そうだ」と言って俺の手を取る。
「……何してる」
「おっぱい、触らせてあげてるの。どう? 元気出たかしら」
「……どうしてそうなる」
「お姉さんたちがそう言ってたから。男の人は、みんなこうしてあげると元気になるって。それとも、ただでさえ貧相な上に石が付いた醜い体じゃ、足りないかしら」
やせぎすの、骨ばった華奢な体。
それでも、女性特有の柔らかさと言うものが、手の平に収まる慎ましやかな大きさながらも指先から伝わる確かな柔らかな感触に、押し付けてくる彼女の身体からその手が離れるのを惜しむ思いが過る。
しかし、すぐに我に返って手を引くと、悲し気に目を伏せる彼女が見えて思わず口走ってしまう。
「……醜くなんて、ない。お前は、綺麗だ」
「……ふふっ。あなたならそう言ってくれると思って、わざと誘っちゃった。それに、体は正直みたいだし、ね」
「っ、やめろ。引っ付くな」
「……もしかして、こんな思いするのが悪いと思ってる?」
離れた距離を取り戻すかのように再び抱き着いて来た女を引き剥がそうとすると、上目遣いでそう言って来る。
どうしてこうも俺の周りは勘の良い奴ばかりが集まるのか。それとも俺が分かりやすいのか。まんまと見透かされて口ごもっていると、女がしとしとと言葉を紡ぐ。
「娼婦はただの性の捌け口、なんて思ってるかもしれないけど、それは違うわ。私たちは、売れるためには教養も必要なの。床上手はもちろんのこと、話し相手になることもあれば、一芸だって求められるの。時には神学だって聞かされるわ。特に教養面でしか売れ筋の無かった私から、帝都一……いいえ、十三区一の頭脳派娼婦として言わせてもらうわ」
言いながら、首の後ろに手を回して鼻先を触れ合わせる彼女。傍から見ればキスしているように見えるかもしれない程の近距離で覗き込む濃い緑色の瞳は、確かに理知的に見える。
「こんなのはね、所詮、遊びの範疇。肩の力を抜くため、日常生活を営むために必要な、スパイスなの。剣もそうでしょう? 研いで、磨いてあげなきゃ錆びていくだけ。あなたの生き方は、ただでさえ肩肘張っているのに、息つく暇も無ければ完走することもままならない。だからこれは、必要なことなの──んっ」
深い緑に吸い込まれそうになっていると、唇が食われる。
柔らかな感触が何かを探るように口の周りを移動する。その途中で体が火照るような快楽に見舞われ、誘われるように俺の唇が動いた、途端。ついばむ程度だった唇の動きが、貪るように奥へ奥へと入り込んでくる。
たまらなくなって女の身体を引き剥がすと、惜しむような視線が唇に落とされる。
「んぁっ!」
「……何を、するんだ」
「ちょっとした、サービス。……ね、私のこと、抱ける?」
「俺は──」
目を右往左往させたのは何も、恥ずかしかったからではない。
一瞬とは言えキスの快楽に溺れてしまいそうになった自分を戒めるためだ。
人並みの幸せなんて、俺の人生には無縁でなければならない。そうやって追い詰めることも、罪に対する罰の一環だから。
唾を飲み込んで、不安げな目をする彼女に向かって、じゃらりと音が鳴る革袋を叩き付けて、言い放つ。
「……金が欲しいならくれてやる。これ以上、俺に関わるな」
「心外ね。確かにお金は必要だけど、お金のためにこんな真似してるんじゃないの。私はただ、あなたを慰めたくてこうしてるの。……私には、自分の身体で慰めることしか、知らないから。……自分の人生に絶望してるのはいいけど、私の勇気まで疑わないで。バカに、しないで」
潤んだ目はそのままに、決意の滲んだ目を浮かべて言い放つ女の言葉に、俺は息を飲んだ。
「あなたはきっと、信じるのが怖いんでしょう? 言葉が、怖いのよね。分かってるわ。だから、あなたの思ってること全部、体に教えて? 私ならそれを、受け止めてあげられるから」
「……っ、く、うぅ……っ」
俺の覚悟は、ただの無謀だと。
それを否定できないのは、本物の覚悟を知っているから。
それと同じものを彼女にも垣間見た俺は、長い長い葛藤の時間を経て、彼女の背に手を回した。
「……ありがとう。そう言えば、お互いに名前を聞いてなかったわね」
それなのにこんなことになって、と言って笑う声が耳元から聞こえてくる。
「ウェイド。ただのウェイドだ」
「ウェイド……確か、聖神教では死神、だったわね。かっこいい名前だわ」
神学もかじっている、というのは本当だったらしい。
軽く聞きかじった程度では、ウェイドという名の死神は出てこないから。
「私は、エリカ。ただのエリカよ。……ゆっくりお話しする前に、お祈りだけ済ませましょう? あなたも……ウェイドも、お花を捧げに来たんでしょ?」
言われて、思い出す。
手にした花束を、エリカの真似をして地面に置き、二人で並んで祈りを捧ぐ。
お互いに本物の神職ではない、見様見真似の祈りだったが、なかなかに様になっていたのではないだろうか。
こんなことをしたところで、おばさんは返ってこない。
……ただの自己満だから、というエリカの言葉が、棘のように刺さって抜けない。
例え自己満足の為だとしても、俺はやり通さなければならない。
それが俺の、果たすべき責任だろうから。
だけど今日だけは。今夜だけは。今この瞬間だけは。
その責任から、目を逸らすことを許して欲しい。もしかしたら、あの祈りは最早居ないと思い込んでいた神に対するものか。
静かに許しを請いた俺の耳に、エリカが囁く。
「ね、ゆっくりできるところに、連れてって?」
甘えるような声で腕を絡ませてくるエリカを連れて、俺はただ、何も考えずにメアの隠れ家まで案内する。
「……特別な夜にしましょ? あなたにも、私にとっても、素敵な、熱い夜に──」
もつれあうようにベッドに降り立った俺たちは、静かに、けれども宣言通り熱く、二つが一つになるまで絡み合うのであった。
補完と言う名の、言語解説。
【十三区焼失事件】
帝都における紫晶災害後に起こった呪い人と健常者による最大にして最悪の事件。
その日は風も強く、消火活動に当たる人材すら不足してしまっている現状に初動が大幅に遅れたため、十三区の半分以上が焼け落ちるという大規模にまで拡大してしまった。
被害者が呪い人であることから、事件から時間が経過したとて死者被害者の総数は不明。
帝国軍による調査は打ち切られ、早々に復興に手を付け始めているというのが現状。
尚、火を放った帝都民らは無罪放免となっている。




