四節 暗闇4
◇
「……」
沈黙が、こだまする。
帝国の技術の集大成とも呼べる石造りの下水道。
王族の抜け道と呼ばれる道を通って、俺たちはひたすらに歩いた。
光の届く先に道があることだけが分かる道を、壁伝いに歩き続けていた。
師匠との望まぬ再会を経た後、俺たちは無事に目的であった王族の抜け道に辿り着き、何の障害も無く下水道へと逃げ込んだ。
最後の関門として見張りでもいるものかと思っていたが、隠し扉があるだけで俺たちはすんなりと下水道に降り立つことが出来た。その頃には城内は大変な騒ぎになっていたようで、あちこちから兵士の怒号が聞こえてきたが、俺たちは既に城内から姿を消していた。
それから、どれだけ歩き進めたか。
休憩を挟むことなく歩き続けたとしても、あらゆる状況を見据えた訓練によって鍛えられた軍人の身体はそう簡単に疲労を感じることはないのだが、俺の足はこれ以上歩むことを止めろと訴えているかのように重たく、また一歩、城から遠ざかる度に心が蝕まれていくような感覚だった。
「追手の気配、なーし。先回りされてる気配も、なーし。とりあえず、ここは一旦地上に出るよ。臭いし、暗いし、最悪だし」
それでも俺は、歩き続けなければならない。
どれだけ苦しくても、どれだけ辛くとも。それこそが俺が選んだ道だから。望んだ苦痛だから。腹が減ろうと、喉が渇こうと……裏切られようとも、俺は歩みを止めてはいけないのだ。
「ちょっとちょっと! 聞いてるの? って、一旦歩くのを止めて」
「……ん、ああ。これから、どこに行けばいい?」
「その話をこれから……いや。それよりも、君とはちゃんと話をした方がいいかもしれないね」
「話?」
「鏡……は、持ってるわけ無いか。地上に上がったら見てみると良いよ。自分が今、どれだけ酷い顔をしているのかね」
手を引かれて、振り返る。そこにはカンテラをかざして顔を覗き込んでくるメアの顔。考え事をしていた意識の一部を割いて覗き返すと、メアの見慣れない真面目な表情に思わず呆気に取られる。
「君とリリス嬢の間に何があったか、聞いてもいいかな。知っておかないと、今後の行動に支障が出ると思うからね。……君たち二人は、どんな関係だったんだい? 地下牢での話を聞いた限りじゃ、大分心を許していたみたいだけど」
「……何も無い。何でも、なかったんだ」
「何でもないはないだろ。彼女の生家、アルバート男爵家からは、紫晶災害で石に変えられたと報告されていたんだ。それが生きているとなれば石から元に戻ったか、それともアルバート男爵家が虚偽の報告をしたかのどちらかになる。皇族に虚偽の報告を行ったとなれば……分かるよね? それはともかくとして、二か月もの間一緒にいて進展なしとは呆れて物も言えないよ」
「何でもない。俺とリリスは、本当に何でもない。なんでも、なかった。ただの……同僚だ」
メアが疑念の目を向けてくるが、全ては俺の言葉通りだ。俺とリリスの関係は、ただの同僚。それ以上でもそれ以下でもない。
「……嘘が下手だね、ウェイド」
「なに?」
「堂々と言い切れること、なんてのは所詮、自分にそうやって言い聞かせていることでしかないんだよ。……ほら、今、動揺しただろう?」
自分でも気が付いていないような瞠目を、メアは目敏く指摘してくる。
指摘されて、拳を強く握る。指摘されて強い感情を抱くのは、図星の証拠。それを自覚して俺は、メアに言い返すこともできなかった。
「友情か、恋情か。僕にはそこまで見透かせないけれど、君はリリス嬢に一定以上の感情を抱いているのは間違いない。そりゃあそうだよね。君の言葉が真実であれば、君の立場からして彼女に惹かれないわけがない。一番苦しい時に傍にいてくれた、一番傷付いた時に支えてくれた人だもの。実に献身的で、正に慈愛に満ちた女性ってところだ。……でもその印象は偽りだったわけで」
「っ!」
「ウェイド。君が信じたくないのも分かる。けどね、あのジャガーノート伯との会話から察せられるのは、彼女が君の元を訪れたのはあくまでも主命だったということ。元を辿れば、彼女の意思では無かったというわけだ。その先でリリス嬢の行動が君に同情したからかどうかは……本題からズレた、些事に過ぎない」
メアはいつもの如く人を舐め腐った態度ではなく、淡々と事実を連ねていく。俺の傷をなぞるように。
しかし、俺にはそれが俺のことを慮ってのことだと理解する余裕はなかった。
どうして追い打ちをかけるようなことを言うのかと耐えきれなくなった俺の精神は、メアの細身の体を突き飛ばすという、お得意の現実逃避に走った。
「……ッ、知っていたのか、お前は! 俺が連れ戻された理由を! リリスが、主命を帯びて近付いて来たことも全部知っていながら、お前は、俺を……俺を──……嘲笑っていたのかッ?!」
追われている立場と言うのも忘れて、髪も振り乱して声高に叫ぶ。
激情に支配された体は軋み、自分の不甲斐なさを棚に上げて叫んだのは、メアにとって謂れの無い非難。
自分に向けるべき怒りが外を向いた結果、行き場の無い怒りへと転じ、俺は理不尽なまでにメアを激しく罵った。
しかし、メアはそれに対して腹を立てるでもなく、緩慢な動きで地面に落ちたカンテラを拾い上げると、対照的に彼の穏やかな顔が光に照らされる。
「あーあ、割れちゃった」
その表情を目にした途端、地面から突き上げられるような罪悪感に襲われ、たまらずメアに背を向けてせり上がってくる胃液を撒き散らす。
「人の顔見るなり吐くなんて、流石の僕でもちょっとはショックを受けるんだけど?」
「違う……違うんだ。あんなことを言いたかったわけじゃない……! ごめん、メア……ごめん、なさい……」
下水の流れに乗って、吐瀉物と共に懺悔が流れていく。
自分でも分かっている。俺はただ、現実を受け入れられないだけなのだと。リリスに騙されていたこと、裏切られたこと、それら全てを、理解している。だから、当たってしまった。
自分がどれだけ都合の良いことを言っているか分かってしまうがために、吐く物が無くなってしまってもまだ、延々と嘔吐を繰り返す。
このまま薄汚れた水に落ちて、汚物に塗れてどこかへ消えてなくなりたいと強く願っていると、背中をさする優しい感触にハッとなって顔を上げる。
「……反省すべきは、僕の方だ。君が傷付いているのを分かった上で、あんな物言いをした。だけど、これだけは言わせて欲しい。僕は、主命の下りに関して、一切関与していない。知り得るはずがない、ということを。これは、ただの推測にちなんだ憶測。僕の個人的観点が多分に含まれた感想に過ぎないということを」
そうだ。メアの言う通りだ。
主命は、決して第三者に漏れることなどあってはならない密命のものもある。
メアは知らなくて当然である。そんなことすら思い当たらずに非難するなどという非行に走った俺を謗ることもせず、メアは話を続けて行く。
「レオ陛下、ジャガーノート伯、そしてリリス嬢。この三人の間でどんな密約が交わされているのか、それとも交わされていないのかさえ分からない現状では、正直言って、この件に関しては僕たちに取れる行動は無いと断言できる。……今日までのリリス嬢に、何か不穏な動きはなかったかい?」
「……思い、当たらない」
力になれなくてすまない、と言うと、メアは再び思考に耽る。
その邪魔をしたかったわけではないが、不安に駆られて口が動く。
「なあ……、俺は、何を信じればいい? もう、何も、信じられないんだ。信じるのが、怖いんだ……。なあ、教えてくれ、メア。……近衛は、俺の味方か、敵か? お前は、本当に、俺の味方なのか? 分からないんだ……助けてくれ……!」
人を信じるのが、怖い。
立場が同じだからと、あれだけ世話を焼いてくれた師匠も、ライラさんの石化で変わった。同じように、慕ってくれたリリスも、帝国の手の者だった。
師匠に関しては、俺が師匠の逆鱗に触れてしまったというのもあるが、師匠の中であの約束は無かったものとされているならば、甚く悲しい。
リリスに至っては、好意を寄せているという話さえも、これまでの記憶にある彼女の像、それら全てが嘘に思えている。俺はただ、手のひらの上で踊らされていたのだと、思い知らされた。
そうなると、俺の味方だと宣言してくれたハリス様も、いつか裏切るのではないか。想い人のシスターフィオナだってそうだった。肉親とも呼べるハーヴリー神父だって、そうだったんだから。その人が何を考えているかなんて分かりっこないのに、どうやって人を信じればいいのか。
俺はもう、人の信じ方というものを、すっかり忘れてしまった。
忘れて、怖気づいてしまった。
だからメアに尋ねたのだが、返ってきたのは突き放すような言葉だった。
「……知らないよ。誰が信用できるかどうかなんてのは、自分で考えるんだね」
「そんな……っ!」
「じゃあ聞くけど、僕がここで『僕は絶対に君を裏切りません』って言えば、君はそれを馬鹿正直に信じるのかい? 自分で言うのもなんだけど、僕は君を切り捨てるべき時だと思えば、迷わず切り捨てるよ。そんな僕を、心の底から信じられるって言うんだったら好きに信じてもらって構わないけど?」
「うっ……。で、でも俺は、ただ……安心したいだけで……。お前のことを信じたいわけじゃない。信頼、したいんだ」
「安心? 信頼? 建設事業主にでも頼めば? そもそも、君の言う信頼ってなんなのさ。相手の全てを知ること? 違うでしょ。僕は信頼ってのは、その人が何をして、何をしないかを知ることなんじゃないか、って思ってる。だから僕は、君を裏切るかもしれないし、君を裏切らないかもしれない。その上で君に信頼するかどうかの選択肢を与えているんだ。君が、自分で後悔しない方を選ぶんだ。誰かに言われたからじゃなくて、君が、自分で、決めるんだ」
「でも、俺は……」
怖いから聞いたのに、メアはあくまでも俺に選択を押し付ける。
大事なことだから、と言わんばかりに何度も指を差し向けるメアは、うじうじとした俺の態度に悪態をつくどころか、笑みを零す。冷笑や嘲笑ではなく、微笑ましいものでも見たかのように。
「……フッ、いつだって自信に満ち溢れていた君が、そんなにも弱々しい顔を見せるなんて。ワーグナーが見たら失神するんじゃないか?」
「……その話題は、やめてくれ」
「あの死神と呼ばれて畏怖された戦士も、人間関係には弱いなんて笑い話にもならないね。なら、僕から一つアドバイスをしてあげよう」
「アドバイス……?」
「そうだ。人を信頼したいのなら……弱っている時に近付いてくる人間は、絶対に信用するな。そいつには必ず、下心がある」
「お前、みたいな奴のことか?」
「そうだよ。だから僕を、信じ切るのはあまりオススメしないかな」
「なら、俺は、どうすれば」
「だから、それをこれから考えるのさ。君一人でね」
「決められない! 俺には……出来ない!」
選択する、ということはつまり、責任を伴うということ。
俺は理解している。罪の十字を背負った以上、これ以上何も背負うことなど出来ないと。大切なものを守るためにある両腕は、既に塞がっていることを。
だから責任を負うことなんて、できない。
失敗して、裏切られて、その度にこんなに辛い目に逢うのであれば、誰も信じたくない。けれど、一人で生きて行くのはもっと怖い。死ぬのは、もっともっと怖い。
どこまでも自分本位で自分勝手な考えをしていることは理解しているが、怖いものは怖いのだ。
だから、誰かに責任を任せたい。そうすれば、その人は俺の分まで背負ってくれるだろうから。
そんな子供のように浅はかな考えは、メアには見透かされているのだろう。メアは俺を窘めるのでも手を差し伸べるのでもなく、自立を促す。
「いいや、君が決めるんだ。今この場で、君は一人で立たなければならない。君の責任は、君にしか取れないからね。甘い言葉は、君を堕落させる。君に付け入ってくる悪魔の誘惑だ。その時に君は、自分が選んだ訳じゃない、と言えるのかい? 自分のせいじゃない、って。……言えないだろ? 君は、そういう人間だ。君の取ろうとしている行動は、正真正銘クズのやり方さ。君にそれは、務まらない。だって君は優し過ぎるからね。……別に、決めるのは今すぐじゃなくたっていいのさ。これからの僕を見て、それから判断するといい。その為には、僕について来てもらわなくちゃいけないんだけど」
「今すぐじゃなくて、いいのか……?」
「何を勘違いしているのやら。誰もそんなこと言ってないだろ。君はただ、僕の役に立ってくれればいいしね。ちなみに、僕は君のこと、これっぽっちも信用してないし」
「は、ハァ?! な、なんだよ、それ……」
アハハ、と笑って言ってのけるメアに、俺はすっかり肩透かしを食らったみたいに虚を突かれて肩の力が抜けてしまう。
メアは、俺のことを信用していない。俺だけではなく、自分以外の全てを疑って生きている。
それなのに、こいつは俺を助けた。
こいつの行動理念は、自分のためになるかどうか。
そんなもので良いのか、と呆れる反面、そんなもので良いんだ、と思うと胸がスッと軽くなる。単純な答えを知って感情を丸めたみたいな溜め息を吐くと、末端まで広がっていた熱がゆっくりと引いていく。
「……なんだよ、それ」
泣きたいのか、笑いたいのか。最早自分でも自分の感情が分からなくなる。
「お子ちゃまな君が落ち着けたみたいだし、そろそろ地上に上がるとしようか。兵士の数からして、帝都に逃げ場はないかもだけど」
上に向かって伸びる梯子を、割れたカンテラの灯りで照らすメアは、物騒なことを言う。
梯子が向かう先は、地上。
その先には、自分を追う帝国軍兵士たちが待っているのではないか。……師匠や、リリスもどこかにいるのではないか。
そう思うと、気分は下降の一途を辿って、衝動のままに弱音を吐く。
「このまま下水道に身を潜めるんじゃ、駄目なのか」
「駄目だね。論外だ」
「どうして……」
「だってここ、臭いし、汚いし。僕が嫌。こんなところで一晩過ごすか死ぬかって言われたら、僕は喜んで首を切って死ぬ方を選ぶよ」
一点の曇りのない目でそう言い切るメアだが、メアがそんな簡単に死を選ぶとは到底思えない。
メアならきっと、あらゆる手段を尽くしてでも選択を押し付けてくる対象を殺しに動くことだろう。
それは生への執着なんて生温いものではなく、メアがかざす夢を邪魔したからがゆえの行動。メアは、自分の夢を叶えるためならばあらゆる手段を用いることを厭わない。
レオポルドに近付こうとしていたのも、俺を助けたのも、どちらも自分の夢に近付くための足掛かりでしかないのだろう。
「けど、地上は危険なんだろ?」
「まあね。だから僕の隠れ家で一晩過ごしてもらうのさ」
「隠れ家?」
「あれ、言ってなかったっけ? 僕は帝都に隠れ家を五つ持ってるんだ。生家は息苦しいから避難用に、とか思って買ったら意外と便利でね。気付いたら五つに増えてたんだ」
再びアハハ、と笑って言ってのけるメア。残念ながら帝都の地価に詳しくない俺にはその凄さを分かってあげられないのだが、メアも初めから凄いと思ってもらうために話しているようでは無かったのか、すぐに梯子の先に視線を移した。
「とりあえず僕が先に上がって様子を見てくるから、合図をしたら上っておいで」
そう言って、登っていくメアを見上げる。
壁に杭打ちされた梯子を上る音が遠のき、カンテラの光がやがて見えなくなった頃、上から落ちてくる光の影が目に映った。
それはまるで蛍のようにふらふらと宙を舞いながら、地面が近付くにつれて大きさを増していく。──それがさっきまで目にしていた光だとは、思いもせずに。
「ぃっ、カンテラ?!」
その正体が分かった頃には風を切る音まではっきりと聞こえ、慌てて一歩後ろに下がることでなんとか脳天に落下物が直撃するのを避けることができた。
ガシャン、と盛大に音を立ててガラス片が撒き散らされたのを見て、俺は息を飲む。
「……まさか、これが合図だとか言わないよな」
反響し轟いた音がまだ耳に残る中、続く合図が降ってくる訳でもなく、俺は観念して梯子を上り始める。
また何かが落ちてくるのではないかと内心ヒヤヒヤしつつも、結局何事もなく梯子を上り切り、メアの手を借りて地上に這い出るのだった。
「随分遅かったね」
「合図が、分かりにくいんだよ」
「不要になったカンテラを捨てただけさ。もし兵士がいるようなら、僕自身が飛び降りてたよ。それくらい、察してもらわないと」
「もっとマシな方法にしてくれ。下手したら、死んでたぞ」
「君があんなのに当たるわけ無いでしょ? 信頼の裏返しだよ。あ、もちろん痕跡は流してくれただろうね?」
「当たり前だろ。それで、ここはどの辺りだ?」
地下牢から帝城内部、地下下水道と。帝都に来てからというもの、まるでモグラのように過ごしていたせいか、久し振りに浴びた強烈な茜色の空に目を細めて辺りを見回す。
「見た感じ、十四区ってところかな。それならこっち、十三区にある隠れ家が近いかな。ついてきてよ」
下水道から出た先は、人の寄り付かない浮浪者のたまり場と化しているような、裏路地。彼らは地下から顔を出した俺たちに見向きもせず、地面に横たわったままだ。死んでいるのかと思って注視して見れば、体は小さく上下していることから、生きていることだけは分かる。
「なあメア。この人たちは……」
「関わらない方がいいよ。彼らは捨て置かれた呪い人だからね。生きる気力もなくただ野垂れ死んでいくだけの存在さ。本来なら、憲兵達に引き渡され、勾留され、帝都から追い出される存在なんだけど、こうも生きていく気力もない奴らは、排除する手間も必要ないと見捨てられた人達なのさ」
メアの言葉に、俺は絶句する。
しかし、そんな彼らを可愛そうだと思う資格が俺には無いことを思い出して、伸ばそうとした手を引かざるを得ないのであった。
「そうそう、それが正解だよ。無駄な正義感は捨てた方がいい。正義の在り方も何もかも、世界は大きく変わってしまったんだから」
そう言って歩き出したメアの背に、俺は黙ってついてく。
その道すがらにも、何人もの呪い人が横たわっている。その横を通るたびに、視界が暗くなっていくような気がする。
下水道で見た光景と同じである。あそこに逃げ込めた呪い人は皆死体だったが、地上の呪い人は死を待つ姿で横たわる。
雨が降れば、水が飲める。腹が減れば、雑草を。それとも、どこかから盗んでくればいい。地上では下水道よりも死ににくい環境であるがゆえに、より長い時間苦痛に悶え苦しむのだろう。
だとすれば、どちらが幸せだっただろうか。
……否だ。否、彼らの誰もが、呪い人になる前は幸せだったに違いない。その幸せな暮らしを身勝手な願望で壊したのは──他でもない、俺だ。
彼らのうめき声がまるで怨嗟の声のように耳にこびり付いて消えてくれない。
「……ハァっ、ハァっ、ハァっ、ハァっ、ハァっ、ハァっ」
「十三区に着いたよ──って、酷い汗だね。もう少しで着くから、我慢してくれよ」
見える世界が明滅を繰り返し、膝が震え、呼吸が浅くなる。歩くのもままならないような状態の中で、メアに言われて初めて顔を上げる。
震える瞳で捉えたのは、いつの間にか見覚えのある街並みの景色だった。
──十三区。
そこは、俺が士官学校を卒業してからの三年間、部屋を間借りしていた『沈黙の羊亭』がある区画だ。人目を避けて通って来た裏路地に見覚えなんて無いが、その隙間から見える景色は覚えていた。
歩き慣れた道。見慣れた街並み。記憶は朧気だが、住み慣れた感覚的が刻み込まれた十三区の空気感は、忘れることなど有り得ない。
「この道を曲がった先に……」
「そう言えば、ウェイドはここら辺で暮らしてたんだっけ? ……ちょっと、あんまり勝手に動かないでよ。そっちは違うんだけど~?」
いつもの帰り道。
いつもと違う事と言えば、人通りがほとんど無いことだろうか。
だがそんなこと、変わってしまった世界に精神の安定を求むる俺には些事に過ぎない。
覚束ない足取りの俺は体が動くままに歩き出す。状況判断だとか、理性だとか、メアの制止の声も右から左に抜けて行く。
欲しいのは、変わらないもの。
世界が変わっても、変わらないもの。家族も、恩師も、友人も、同僚も、何もかも変わってしまった世界で変わらずにいてくれるものであれば、何でもよかった。
壊れた精神に、少しでも兆しが欲しかった。自分はまだ大丈夫だと言える、精神の安定を欲して、俺は止まらない。
まるで花の香りに誘われる蜂や蝶のように最後の角を曲がって行く。その先に、あるはず。幾度となく疲れた体を受け止めてくれた、第二の故郷が。今日も門扉を開いて、営業しているはず。この角を曲がった先に、見えてくるはず──
「………………は?」
──角を曲がった先。そこで見えたのは、瓦礫の山だった。
「あー……、その、紫晶災害の後ね、呪い人を危険視して排斥しようって運動が活発になった時期があって……まあ、今もなんだけど。それで、確かそこにあったお店は呪い人を匿った、ってことで住民が猛反発してね。どこぞの馬鹿が火を放ったんだ。そしたら、あちこちに燃え広がって、ここら一帯は延焼地帯になったんだよ」
「お、おばさんは……? ど、どう、なったんだ……?」
「さぁ? 実際、呪い人をたくさん匿っていたのは事実みたいで、火事騒動に紛れて多くの呪い人が逃げたって報告にあったよ。でもその分、呪い人も普通の人も、たくさん焼け死んだんだけどね。もしかしたら、その店主も、呪い人だったのかもしれないけど」
「…………」
俺は、音もなく膝から崩れ落ちる。
言葉が、出なかった。
怒りも湧かなければ、涙も流れない。
火事の勢いが分かるような、煤けた地面の一点だけを見つめて、思考を停止する。
もう何も、考えたくなかった。
もう何も、知りたくなかった。
「……行くよ、ウェイド。人通りが少ないとは言え、通らないわけじゃないんだ。今人目に着くのはまずい」
メアに腕を引かれる。
立ち上がり、引き連れられて歩かされるが、もう、どうでも良かった。
これまで罪の意識だけで、立ち止まることを否として奮起してきたつもりだが、それももう、どうだっていい。
何もかも、どうだってよくなってしまった。
「ほら、着いたよ。中に入って入ってー」
メアの隠れ家に押し込まれ、椅子に座らされる。
外に出るときは外套を被れだの、食料は十分にあるだの、得意げに話すメアに相槌の一つも返さずにテーブルの染みの一点だけを見つめ続けた。
「……僕は今夜、戻って来ないから。帝都の最後の夜を、好きに過ごすと良いさ。あぁ、死んだり兵士に見つかったりするのはやめてくれよ」
「……どこか、行くのか」
「あ、やっと喋った。まぁね、僕ってばやることたくさんあるんだよ。近衛の奴らと話もつけなくちゃいけないし。あ、ウェイドは付いて来なくていいから。君が僕の手中にある、っていうだけで、近衛に有利に立てるカードだからね」
「俺は……」
「言っただろ、好きに過ごせって。ってことではい。これ、君の全財産ね」
「……」
テーブルに音を立てて放り投げられる幾つもの革袋。弾みで中から硬貨が零れ落ちるが、それに目を輝かせるほど心は動かない。
「君は一級犯罪者として全財産を帝国に押収されたわけだ。そしてその管理を任されたのが、僕。立派な横領をして見せたんだけど、どうかな?」
「……」
「これでお酒でも食べ物でも、好きに使って。それこそ、女でも買ってみれば? ま、君にそんな度胸があるとは思えないけどね。でも、お金で買った女は裏切らないよ。関係が続く限り、ね。……でもまあ、無難にこれからの地獄ツアーに向けて準備を整えるなり、すればいい。好きに使うと良いさ」
「メアが」
「あ、僕はお金に困って無いから。使い道は、自分で考えなよ。それじゃあ、また明日」
俺に何をしろとも言わず、ただひたすらに「好きにしな」とだけ言って、隠れ家を出て行ってしまう。
俺はしばらく虚ろなまま一点だけを見つめ続けた。
時間だけが過ぎて行く。
やがて帝都の魔力灯に明かりが灯る時間になってようやく、俺は重い腰を上げる。
「俺の、やりたいこと」
金貨の入った革袋を手に取り、外套を被る。
俺が向かう先は、一つだ。
「俺が、やるべきこと」
虚ろな目で、ぶつぶつと呟き繰り返し、不安定な足取りのまま、人通りの少なくなった十三区へと繰り出していく。
俺の向かった先は──
補完と言う名の、言語解説。
【呪い人】
紫晶災害の後遺症、第三の被害者と呼ばれ、帝国領内では忌憚されるべき存在。
帝都でも紫晶災害の後より大勢の人間が呪い人と化し、帝国領内において呪い人と言う存在は迫害すべきだ、と言う認識になったのは、「中途半端な成り掛けは、聖書によって示された忌み子と同じ。傍に居れば呪いに巻き込まれる。これ以上帝国に呪いをもたらさぬよう、排除すべきだ」というレオポルドの演説によるもの。
呪い人と言う名は、聖神教の聖書に書かれた忌み子の名、『ネヴィア』を基にしたスラング。
街の中にいれば迫害され、街の外に出れば変異種の餌食になる。世界のどこにも居場所のない存在。
それこそが、呪い人。




