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四節 暗闇1

 


 ◇


 かびと埃の蒸した臭い。


 帝城の地下。皇族や貴族、政務に携わる選ばれた者たちだけが踏み締めることのできる地面の、更に下。


 乱暴に手枷を嵌められた俺は、鉄檻の中に放り込まれる。


「チッ。なんだってこんな頭のおかしいやつを捕まえておかなきゃいけないんだ。そもそも、地下牢に入れるほどじゃないだろうに」

「なんでも、城下の勾留所はどこも満員らしいぞ? だから直接地下牢に、とのことだ。何やら、『紫晶災害を起こしたのは俺だ』、なんて言い触らして回っていたらしい。扇動罪、最近じゃ多いらしいぜ? レオポルド陛下の施策に不満だらけの国民だ。こいつはちょっと違うけどな? それにしても、よく言えたもんだよなあ。命知らずの大馬鹿ホラ吹き野郎だ」

「帝国への不満を煽るのではなく、紫晶災害への不安を煽るとはな。巷じゃ、紫晶災害のことに触れるのもタブー視されてるってのに、よくもまあやったもんだ。右目の負傷で済んで良かったな。こいつはただの大馬鹿か、よほどの田舎者だ。研究塔の発表を聞いていないんだろうな。紫晶災害は人為的なものではないと、正式に公表されてんだから」

「──違う! あれは俺が起こしたものだ! 俺が願ったから、災害が起きたんだ!」


 鉄格子の檻の中から、俺は向こう側に噛み付くように声を荒げる。

 そうしろ、と言われた通りに。


「ああそうかい。じゃあ、どうやって?」

「おい、相手にするなよな」

「いいから。お前も聞きたいだろ、どうして人が石になったのか。どうやって人が石に変えられたのかをさ」

「そんなの嘘に決まってんだろ。誰が信じるんだよ、こんな奴の言うこと。どうせ答えられないか、意味不明な理屈を通すだけだろ」


 フルベルトの草案を元に、ハリス様が立てた囮作戦。

 俺はただ「紫晶災害を起こしたのは自分だ」と騒ぎ立てて捕まった、という体で城の内部に侵入し、注目を集めればいいとだけ言われているが、果たしてそれだけで注目は集まるものなのだろうか。

 近衛騎士の面々はそうしているだけで勝手に注目は集まる、と言っていたが、果たして。

 杜撰な作戦だとは、口が裂けても言えないからな。

 とは言え、作戦上、俺はあの日の夜のことを口外することを禁じられているため、二人の兵士の問いに言葉を詰まらせる。


「っ、ぐ、それは……!」

「ほら見たことか。耳を傾けるだけ時間の無駄だ」

「ケッ、つまんねぇの。二度とそんなつまらねえ嘘つくんじゃねえぞ。俺もこいつも、身内や友人を石に変えられてただでさえはらわた煮えくりかえってんだ。城下の連中もそうだ。今回は幸運だっただけだと学べよ」

「ったく。これからこんな奴らの相手をしなきゃなんねえのか? 市井の連中に文句言おうぜ。処分でもなんでもして、さっさと勾留所を空けろってさ──」


 もっともらしい答えを瞬時に組み立てられるような柔軟な頭脳をしているわけではないせいか、兵士二人はつまらないものでも見たかのようにして背を向けて地上に繋がる唯一の階段を上がって消えて行く。


「…………これで、本当に良いのか?」


 だだっ広い地下牢に独り言が、微かに反響する。


 湿った地下牢の居心地は、言うほど悪くない。これは俺が日陰者として適応したからなのか、それともセナ村の教会で過ごした環境がこの場所と似ているからなのか。それともその両方か。こればかりは観測者の意見を聞かねば判断が付かない。

 薄暗い地下牢は等間隔に置かれた蝋燭だけが明かりを灯しているが、そんな小さな揺らぎ程度では自分の檻の周りしか見えない。だがしかし、俺をあの監視番に引き渡した扮装したフルベルト曰く、今現在この地下牢は使われていないため、俺の貸し切り状態であった。


 帝国では、罪を犯した者に課せられる罰は主に二つ。

 強制労働か、処刑のどちらかである。

 初代皇帝の頃から現代に至るまで人一人の命の価値は軽いものであり、大罪人や敵国の重鎮などの処刑は、市民の間で娯楽の一つでもあった。そして処刑される程の罪の重さではない犯罪者は、侵略した土地の開拓や、南のアウフグス山脈に眠る鉱脈資源を掘るための炭鉱夫として強制労働を任ぜられることがほとんどであり、地下牢に囚われたまま、というのはまず無かった。


 現代のロベリア陛下になってようやく娯楽としての処刑は取りやめになり、犯罪者の大半は一定の拘留を経た後に強制労働に駆り出されるのが常。

 ゆえに、地下牢はほぼ使われていない。

 つまり、この場で友人になれるのは自分の影だけということだ。


「さて。どう時間を潰すか、だな」


 そこで問題となるのは、引き付けるべき人物が来るまでの余った時間をどう潰すか、である。


「手遊びも、出来やしない」


 両手を後ろで繋ぐ冷たい感触の手枷は、魔力を封じる役割も果たす。帝国では軍備から一般家庭の日用品にまで幅広く拘束具として流通している手枷は、俺の行動を完全に封じている。最近では首輪も開発されたとか、なんとか。

 とは言え、実際に俺に対しては普通の拘束具で十分であるため、わざわざこの拘束具を持ち出す待遇はむしろ、好待遇とすら言えた。


「欠陥の兵士とは、よく言ったものだ」


 自嘲気味に零した独り言に対して応えるかのようにどこかで水滴が落ちる。

 蝋燭の灯りが生み出す影が、ぬるりと動いたような気がした。


「俺は……どうするのが正解だったんだろうな」


 こうも暗く、静かだと、余計なことを考えてしまう。


 ……どこから間違えていたのか。そんなこと、考えたところで分からない。分かるはずがない。

 ある意味では分かり切った答えを持つ問いが虚空に溶けて消えて行ったかと思えば、壁に掛かった蝋燭の炎が揺れて影が動く。それはまるで笑っているように見えて、俺は笑みを誘われる。


「いっそここで、舌でも噛み切るか?」


 そうすればきっと、俺の嘘のような真実も信憑性が増すだろう。呪いのように、あの兵士たちをじわじわと苦しめるだろう。問題があるとすれば、俺にそれを為すだけの勇気がないことくらいだろうか。


「ハッ……」


 どこかで落ちる雫と、揺れる影。

 全てを投げ捨てて逃げる覚悟も無い癖に、と笑う自分の声が聞こえてくる。

 確か……以前にも似たようなことがあったように思える。

 しかし、いくら記憶を浚ってみても、デジャヴのような感覚だけが肌を通り過ぎて行くばかりで、結局頼りにならない俺の頭は何も思い出せないまま、無為な時間だけが過ぎて行く。


 ◇


「──何の、音だ?」


 暗闇が支配する天井をただ茫然と見上げていると、不意に聞こえてきた物音。

 耳を澄ましてようやく聞こえる程度のくぐもった声だが、ここまで聞こえてくるというだけでもその苛烈さが十分に分かる。


「言い合いでもしているのか?」


 地下牢の間取りなんてものは授業でも習わなかったし、近付く機会すら無かった。ゆえに参考にできるのはここに連れて来られた時の記憶しかないが、どうやらさっきの見張りの兵士たちと、誰かが言い合っているようだ。

 この声は……若い女性か?


「いや……、有り得ないか」


 男の声に混じって微かに聞こえる甲高い声に、思わずリリスのことを思い浮かべてしまう。

 別れを告げる間もなかったとは言え、かなりの時間が経過している。それに、彼女が俺を探し回る理由もないだろう。

 そんな考えが、却って胸に宿る虚しさを増す。なんてシームレスな自殺だろうか。

 そもそもの話。リリスに執着を抱くことさえ、分不相応だというのに。


「本当に……度し難いな。この俺は」


 自分の愚かさに打ちひしがれるのは、何度目だろうか。

 魔物の胆のうでも食らっているのかというほどに、何度味わっても慣れることのないこの感覚。

 胸を押さえて見上げるは、光の届かない牢屋の隅。

 お得意の、現実逃避である。


 ここに居れば、俺は何も感じなくて済む。何も考えなくて済む。

 だってここは、誰の目も、声も、手も届かない地下深く。

 この地下牢には、希望の光は届かないのだから。


「──終わったか」


 いつの間にか居心地の良さが増している地下牢で俺は鉄格子に身を預け、闇が広がる奥深くを凝視する。そうする他無いのだから、という言い訳が俺を現実逃避に導くのだが、頭上から聞こえていた声や物音が止んだことに気づく。

 だが、もう、俺には関係のない話だ。


「ハリス様には悪いが……。俺はもう、ここから動きたくないな……」


 それだけ呟くと、俺は一点だけを見つめる作業に戻っていく。

 こんなにも緩やかで穏やかな時間は、リリスと居たときでさえも感じられなかった、久しく忘れていた感覚である。悪いのはリリスではなく俺のせいなんだが、あの夜以降まともに訪れることの無かった安息を感じ、俺はただ呼吸を繰り返すだけの置物と化す。


 この心地良い暗がりと一体化するように。


 暗闇に、溶けて行くように──。


 ◇


 あれから、どれくらい時間が経った頃か。


 水や風、陽の光の変化も感じられない、完全なる空気の澱のようなこの場所に、時間的感覚は皆無。

 一時間か、二時間か。それとも丸一日過ぎたかも分からない閉鎖的な環境で、俺はピクリと体を動かす。


「……誰か、来たのか?」


 再び、音が聞こえてくる。しかも、今度はこちらに近付いてきている。

 空っぽになった頭を左に傾け背後にやってきた人影を確認すると、条件反射的に俺の背筋に怖気が走った。


 そこにあるのは、色褪せることのない傲慢さを塗りたくったような顔に、侮蔑や嘲笑と言った人を見下げる感情のありとあらゆるを詰め込んだ、名実ともにこの国のトップに成り代わった男の顔だったから。


「──陛下、こんなところに足をお運びになられる必要はございません。今すぐに戻りましょう。御身が汚れてしまわれる」

「黙れ。俺に指図をするな。俺はただ、みすぼらしいボロ雑巾が与太を吐いて捕まったと聞いて笑いに来てやっただけだ。何せ……顔見知りなのだから、なあ? 久しいなあ、ウェイドよ」

「レオ、ポルド、殿下」


 この男に、どれだけ苦しめられたことか。しかし、恐怖と共に湧き出る怒りを押さえ込んで、俺は静かに目を細めた。



 ──釣れた。



 自分の感情よりも優先すべき本来の目的を思い出し、俺は内心で一言、そう呟いた。


 その、瞬間──


「ぐぶ……ッ?!」


 こめかみに走る、強い衝撃。

 俺は一瞬何が起こったのか理解する間もなく牢の中で地面を転がされ、うめき声を上げる。


「お前、今、なんと言った? 俺を、なんと呼んだ? 平民風情が、俺を、なんと呼んだ? 俺が尋ねているのだ……、なんと言ったか、疾く答えよッ!!」

「うぐ、ぁ……」


 重度の脳震盪に見舞われ、意識が朦朧とする。視界が赤に染まり、激しい吐き気に襲われる。レオポルドの問いに答える余裕もなく地面を転がって悶え苦しんでいると、いつの間に牢屋の中に入り込んできたのか、レオポルドが手にした杖で俺の顎を持ち上げる。


 虚ろな意識の中で見たのは、豪奢な装束に身を包んだレオポルド。彩りの一つもないかび臭い地下牢には不釣り合いだな、なんて感想を抱いていると、革靴の底が顔面に襲い来る。


 嵐のような暴力に、見舞われる。


「俺はあッ! この、国の! 王だッ! 皇帝だッ! 敬え! 崇めよ! そして……称えよ。お前のような愚民に出来るのは跪いて俺の踏み台になることだけ、だ。……ふん、ようやく見れる顔になったじゃないか。……しかし、この俺がわざわざ罪人に仕立て上げてやったと言うのに、まさか自らそれを叶えるべく動くとはな。なんと忠義に厚い男か。モーリス、お前にこいつの爪を剥いで飲ませてやろうか? ……くくくっ、それにしても、滑稽だなウェイド。陛下に……いや、父上に認められたお前が、こんな汚れた地下に身を堕とすとはな。おい、聞いているのか。……チッ。包帯を巻いた程度で、隠せると思っているのか? おいモーリス。剣を寄越せ」

「陛下の手を、汚させるわけには──」

「黙れ。お前の意見など聞いていない。これは命令だ。この愚者を起こせ」

「ぐ……、あぁ」


 血の味と匂いに支配され、意識を保っているのも奇跡と呼べるような状況で、俺はレオポルドの付き人に身体を支えられて上体を起こす。


 何をされるのかと身構える隙も無く、赤く染まった視界の中で鈍い輝きが顔面に迫った。

 はらりと舞う毛髪と、薄汚れた包帯が地に落ちる。

 街中では包帯は取らないという約束を思い出して、これではリリスに怒られるな、なんて場違いな感想を抱く。

 頬に触れる、冷たい鋼の感触。剣の腹が添えられ、頭を支えられていることに気が付き、暗闇に慣れた右目が驚愕と喜色ばんだレオポルドの表情を捉えた。


「……呪い人(ネビリム)にまで堕ちたのか、お前は。……丁度いい、こいつを明日、見せしめに処刑するとしよう。こいつの与太話も添えて、平民共の怒りを買うよう脚色しろ。その上で、縛り首だ。最近、平民共の声がうるさいからな。反逆の意を示そうものなら、この愚者と同じ目に逢うと知らしめろ」

「ハッ」

「ああ、そうだ。お前の与太話がもし仮に真実だとしたら、俺はお前に感謝しなければならないな。お陰で、俺を認めなかった邪魔な父上を、苦も無く排除出来たからな。ありがとうなあ、ウェイド。俺はお前に感謝しているんだ。お前のお陰で、簡単に皇帝の座を手に入れられた。後は真実を握ったままお前が死んでくれれば、それでいい。……まあ、お前の与太話を信じる者など、脳の足りん平民しかいないだろうがな!」


 地下牢に、レオポルドの高笑いが響き渡る。


 捨て台詞のように最後に杖での殴打を見舞われた俺は、地上へと消えて行くレオポルドの背中を見送ることも出来ずに床に転がった。


「……これで、いいんだろ。フルベルト」


 肩で血を拭って血の塊を吐いた後、作戦の行方を祈るように目を閉じる。

 後はもう、俺に出来ることは何も無い。

 研究塔に入り浸るレオポルドを引き剥がし、護衛の多くが動かざるを得ない状況になった研究塔に侵入したフルベルトが研究成果を盗み取る。その後、近衛の手の者によって俺が救出される、という手筈になっている。


 俺が捕まれば、嫌味を言う為だけにレオポルドが様子を見に来るなんていう馬鹿げた計画が成功するなんて微塵も思っていなかったが、どうやらレオポルドのプライドの高さと俺を厭う感情は第三者である近衛たちの方が詳しかったらしく、杜撰かに思えた計画は想像以上にスムーズに進んでいるようだった。


「天命に身を委ねる、か。……ハッ! それこそ……俺が英雄になるよりも……、有り得ない」


 首から下がる血に汚れ、形の歪んだ十字架。


 誕生日にシスターフィオナから贈られた神を身近に感じられるペンダントだ。俺はそれを、五年前、帝都に来てからもずっと、彼女を身近に感じられるものとして大切にしてきた。

 しかしそれは今や見る影もなく歪み、拭っても消えない血の跡が残っている。過去に何時間も、何日にもわたって祈り続けたせいか、それは祈りを捧げるものとは言い切れないようなものに豹変していた。


 地面に横たわるそれを凝視し、俺は鼻で笑う。


「神は、いない。……神様なんて、存在しない」


 神がいるのだとすれば、何故俺を助けてくれない? どうして家族を元に戻してくれない?


 聖神教では、神は敬虔な信徒の祈りは必ず聞き届けてくれる。そのはずなのに。孤児院に拾われて教えを授かってからというもの、祈りを欠かしたことは一日だってないはずなのに。


 つまり、それなのに応えてくれない神は──神ではない。


 それでもこの世に神は存在するというのであれば、それはきっと、邪神に違いない。

 だから天命に縋ることも、運に頼るのも、全てを出し尽くした後でなければならない。そう心に決めたというにもかかわらず、俺はまだ天命に身を委ねようとしていたのか。


「あぁ……。……レオポルドが檻に入って来た時点で、動くのが最良だったか」


 まあ、今の状態で動いたところで、殺されるのがオチだっただろう。そもそも、手枷を外せるかどうか試すだけの時間は優にあったはずだ。

 それすらも棒に振って虚空を見つめていたのは、現実逃避という、無益な時間に浸り過ぎたせいだ。

 だが、過ぎたことを考えたってどうにもならない。考えるべきは、これからのこと。


 思考を切り替えるべく頭に昇る血を下に降ろすために上体を起こすと、三度聞こえてくる足音。

 目的のレオポルドが済んだ以上、俺に会いに来る人なんていないはず。救援が来るにしては、早すぎる。

 であれば、この足音は一体誰なのかと考えていると、地下牢に花が咲いたかのような幻視が見えるほどに華やかな女性が目の前に降臨する。


「ウェイド、君……!」

「……フュリーズ。どうしてここに」


 その花の正体は、フュリーズ。

 フュリーズ・グノーシアである。


 いつだって冷静沈着なはずの彼女の髪が乱れている。何かから逃れるように急いできたのか、呼吸も荒い。

 そんな彼女は駆け寄って来るなり檻の隙間から手を伸ばして俺の顔に触れて、白魚のような指先で輪郭をなぞるように指を動かしていく。

 くすぐったい思いをしつつも、顔見知りが無事だったことに胸を撫で下ろす。


 しかし、当のフュリーズは俺の問いに答える様子を一切見せることなく、まるで指先から伝わる感触を堪能しているかのような様子を怪訝に思った俺が身を引くと、心惜しむ表情を見せて態度を取り繕う。


「ひ、久し振りに会えたからつい……興奮してしまったんだ。許して欲しい」

「俺も、会えて嬉しいよ。でも、その前に俺の質問に答えてくれ」


 そう言って、俺の血が付着した指先でも構うことなく自分の髪を整えて語り出す。


「ああ、そんな目で見ないでくれ。少し、少しだけ慌ててただけなんだ。本当だとも。君が……ウェイド君、君が捕まったと聞いたから……! あの日、君が異動辞令を受けたことは聞いていたのに、私はそれを止められなかった。君のことは、私が守ると、そう約束したのに……。あの日からずっと悔いてきたんだ。それを謝りたかったのが一つ。もう一つは、君が生きていることが嬉しくて駆け付けたんだ。そしたら陛下が……レオポルド陛下が地下牢に足を運んだと聞いて、居ても立っても居られなくなったんだ。また、君が酷い目に逢わされていないか心配になってね。そしたらこんな状態だ。色々と遅くなって、ごめんなさい。でも、ほら、こんなときのためにポーションを持ってきたんだ。さ、顔を出して。ああ、君の綺麗な顔が台無しじゃないか。陛下のことは許せないよね。私も一緒さ。でも安心してくれ。これ以上、君を酷い目には逢わせたりしない。今度こそ、私が君を守るからね。そのためにも、ここから君をどうにかして……」


 フュリーズは血走った目で口早に捲し立てる。それがなんだか、少し不気味に見えるが、頭を抑えつけられた俺は鉄格子の傍から離れられなくて。


 彼女は取り出したハンカチで俺の顔を拭うと、話の流れのついでみたいにしてポーションまで取り出した。

 それから、一人語りを続けながらポーションを顔に塗りたくるみたいにして俺の顔の隅まで指を這わせる。


 手枷のせいで抵抗もできずされるがままであったが、鉄格子が無ければもっと激しかったのかもしれないと思うと、捕まっていて良かったとも思える。

 フュリーズが何を考えているかは分からないが、下手なことを言えないということだけは分かっていた。一人舞い上がっているところ悪いが、という枕詞は除いて、今しがた決められたばかりの新鮮な俺の未来を伝える。


「……明日、俺は処刑されるらしいが」

「──な、何だって?! それは……陛下ならやりかねない、か。……くっ、本当はもっとウェイド君と一緒に居たかったけど、今すぐ動かないとどうにもならないから、私は行くよ。でも、必ず君を守るから。だから安心して待っていてくれ」

「……無理は、しないでくれ」

「私を心配してくれているの……? ああ……、それだけで私は頑張れる。君を助けるのは、私の役目だ」


 穏やかに微笑んだ後、今度は別れを惜しむように彼女の指先が頬を撫で、フュリーズは地下牢から離れていく。

 

 これだけ分かりやすく求められていることを伝えられると、それもとびきりの美人相手にやられると多少なりとも胸が跳ねるというもの。

 彼女の使命感を帯びた背中を見送って、俺は静かに息を吐いた。


「前から変わった奴だとは思っていたが、エスカレートしていないか?」


 前々からフュリーズは俺を気にかけてくれていて、レオポルドの目を盗んではリリスと並んで世話を焼いてくれていた気がするが、まさかポーションまで持ち出すほどではなかったはずだ。

 公爵家令嬢と言う立場からすれば、ポーションなんて端金かもしれないが、俺からすればただの傷の治療で湯水のように使うなど有り得ない話だ。


「今回は助かったと言えるが……なんだか怖いんだよな」


 これがただの善意であるとするなら、俺は一体彼女に何を返せばいいのか。

 そんな事を考えながら騒ぐ心を落ち着かせていると、フュリーズが出て行って間もない頃に、再び誰かが地下牢にやって来る足音が聞こえてくる。


「なんだ? 随分と客の入りがいいな、ここは」


 ポーションで治癒したお陰か、余裕を持って来たる次なる訪問者を出迎える。

 近衛の関係者か、それともレオポルドのように害なす来訪者か。


「お前は……」


 階段を下って姿を現したのは、そのどちらとも言えない、妙な人物であった。







補完と言う名の、言語解説。


【ポーション】


発掘品の一つ。

謎の薬液。成分分析の結果、数多のアーティファクトと同様にこの時代には見つかっていない成分や素材を使っており、保存する容器でさえも現代の技術では生成不可能。研究塔の成分分析によって六割の効能で再現が可能になり、六割の性能で聖神教の協力によって生産にこぎつけたものが一般的に普及している「疑似ポーション」と呼ばれる物である。

実物のポーションは数も限られており、その回復力は最早再生と呼んでも過不足ないほどの逸品。ゆえにその値段は遥かに高価。その上、帝国が定める価格での取引は既に五年先まで埋まっているため、正規の手段で手に入れるのはほぼ不可能。そのため、裏社会ではポーションと偽った疑似ポーションにすら劣る粗悪品が高値で取引されていることもあり、疑似ポーションの製造元である聖神教は注意喚起を行っている。

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