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私の些細な願い事。


 

 ◇


「ふぅ……。大分綺麗になりましたね!」

「あぁ。流石に長椅子の修繕までは難しいが」

「あはは。そこまで手が回ったら、職人さんが不要になっちゃいますね」


 箒を片手に汗を拭うと、バケツと雑巾を持ったウェイドさんも揃って汗を拭う。


 ──同じ空間で同じ作業に没頭し、同じ仕草を取る。


 好きな人と一緒に居られるだけでも十分なのに、それだけのことが重なると必然、私の胸は幸せでいっぱいになる。なんてチョロい女なのでしょう。


 ウェイドさんが目覚め、リハビリを始めてから早くも五日が経過した。

 一日目は軽いストレッチで終わったものの、ウェイドさんの肉体は異常な回復速度を見せて、二日目にして村を散策して回れるだけの体力が回復し始めていた。

 お陰で五日目になった今日では、途中で何度か休憩を挟みつつ、こうして荒れ果てた礼拝堂の掃除まで完璧にこなしてみせている。私の出番はわずか一日でお役御免を食らってしまったのです。実に不服。もっとお世話させて欲しかった、というのが本音です。

 ウェイドさんの異常な回復力を前に、私の備えた医学療法の知識はすっかり意味を成さず、私はただウェイドさんに健康的な肉体を取り戻すための健康的な食事を用意することしか出来ない。食事も早々に自分の手で食べられるようになって、私の楽しみが一つ減ってしまった。

 それでも、ウェイドさんの血となり肉となる食事を私の手ずから作っているというのは感慨深く、この日のために使用人から料理の手ほどきを受けていて良かったと心の底から感じています。

 貴族の令嬢としてはしたない、と言われても、いつかこの手で彼の血となり肉となる食べ物を作ってあげたい、という夢が叶いました。

 それに何より、ウェイドさんは決まって必ず、感謝の言葉を伝えてくれる。私自身、自分の行動力に驚きを隠せず、言ってしまえば私は勝手に村まで来た変な女という立場であるにもかかわらず、ウェイドさんから無防備な笑みを向けられるだけで、より一層ウェイドさんへの愛が深まるのを感じてしまいます。このままでは私の愛が天を貫いてしまいかねません。


「綺麗になったはいいけど……なんか血生臭さが上がってないか?」

「べったり染み込んでいましたからね。どうにかするには、建て替えるしか無いんじゃないですか?」


 この五日間を振り返って一人でいやんいやん、と体を捻っていたのも束の間。背後から掛かったウェイドさんの声に平静を取り繕う。


 天井にまで飛んでいる血痕。

 その多くの血痕が時間の経過によって床と壁にどす黒い染みとして残る光景が私たちの前に広がっている。持ち得る手を全て使って掃除したとは言え、礼拝堂が以前の姿を取り戻すには、それこそ建て替えるしかありません。

 唯一、片田舎の辺境村の教会にしては不釣り合いなほどに高価な絨毯は洗濯すれば元通りに使えるようになり、これまた無駄に豪華なステンドグラスから降り注ぐ色彩豊かな光の神々しさだけでも礼拝堂としての資質は十分。

 けれども……数の足りない長椅子、穴の開いた床や壁、全体的に黒ずんだ礼拝堂と言うのは、あまりにも打ち捨てられた教会という印象の方が強い。

 手を尽くして掃除をしたとは言え、禍々しさすら感じる風体に私は失笑を禁じ得ません。


「弟たちが起きて一番に目にするのがこんな血生臭い所じゃ、可哀そうだしな」

「……そう、ですね」


 ただ、一つ懸念があるとすれば、私はウェイドさんの苦しみを、本当の意味で理解して上げられない、ということでしょう。

 ウェイドさんの見ている世界と、私が見ている世界は……違う。

 それを嫌というほど思い知らされたのは、二日目のことでした。



 ──弟たち。



 帝都に居た頃から話に聞いていた、ウェイドさんの大切な人達。それはもちろん私にとっても大切にすべき人であったのだけれども──


『これがシグとアキ。それから……シスターフィオナだ』


 落ち着きを取り戻したウェイドさんに紹介された家族は全員……、石でした。


 十の紫水晶の破片の山と、三つの彫刻。

 ウェイドさんが意識不明の最中、私はこの孤児院の中を隅から隅まで探索した。

 その時に見つけた残骸と彫刻。それらを『家族』として紹介された時、私はどんな顔をすれば良いのか分からなかった。

 私の知る家族の形とは、大きくかけ離れていたから。

 当然、これもあの夜の出来事の一端なのでしょう。彼らが元は人だったことは十分理解した上で断言できます。


 ……ウェイドさんは、現実を受け止めきれていない。


 未だ人の形をした三人を紹介されたのはまだ理解できたものの、続く十の紫水晶の破片の山を指差して一人一人の名前を呼んでいく光景は、私をしてもゾッとするものがありました。

 怖いよりも、心配が。心配よりも、恐ろしさが際立つ。

 だって私の目には、どれも同じただの紫水晶の破片の山にしか見えないのに、ウェイドさんにはまるで全ての見分けがついているかのように一人一人紹介されたのだから。


 その時まで、私は一つの勘違いをしていた。ウェイドさんは、死に瀕するまで戦い抜いたから肉体がボロボロなんだと。


 でも……違った。


 実際に限界を迎えていたのは、ウェイドさんの心の方だったのだと、その時に思い知ったのです。あの紫水晶の破片の山を人であると、まだ元に戻せると認識しなければ耐えられない程に、ウェイドさんの心は限界だったのだと、その時私は気付かされた。


 もし……。もし、仮に石になった人を元に戻す研究が成果を結んだとしても、ただの紫水晶の破片と化して砕け散った人が元に戻るとは、到底思えない。仮に戻れたとしても、肉片。それを繋ぎ合わせて出来上がるのは、ただの死体か、化け物です。

 それでも紫水晶の破片の山を一人の人として見做して接する彼の背中は、私には到底理解できない程に物悲しく、蜘蛛の糸よりも細くて脆い何かに縋っているようにしか見えませんでした。


 もしかしたら、あの時。

 あの場所で血溜まりに沈んでいたのは、死ぬためだったのかもしれない。

 となると、私がしたことは本当に正しかったのかどうか。本当に彼を思うのであれば、死なせてあげるべきだったのか。あの時からずっと、私の頭の中ではそれがグルグル回り続けている。

 不安が纏わり付く彼の姿を思い返して僅かに沈んだ気を紛らわせるべく、私はウェイドさんの元に駆け寄った。


「夕飯は、何がいいですか?」

「……リリスの作ってくれる料理は、何でも好きだよ。罠の確認がてら、日が暮れる前に軽く汗を流してくる」

「はい。美味しいご飯を作って待っていますね」


 綺麗になった……、とはお世辞にも言えない礼拝堂を眺めた後、ウェイドさんは私から逃げるように目を逸らしてから外に出て行ってしまう。

 私はその背を、力なく見送ることしか出来なくて。


「……ウェイドさん」


 二日くらい前からでしょうか。ウェイドさんは、私と目を合わせなくなりました。

 初めは気のせいかと思っていたものの、確かめようと彼の顔を覗き込んだ際に、フイ、と顔を背けられた時の衝撃は、思い返しても頭が割れそうになります。


 私が何か粗相をしたのかと焦ったものの、様子のおかしいウェイドさんが庭で何かを燃やしているのを盗み見て、私は一つの答えに辿り着きました。

 彼が燃やしていたのは……少女用の服や小物、手鏡のようなもの。

 それが何を意味するか不明でしたが、燃えていくそれを眺める彼の横顔を見て、すぐにピンときました。


 ──あれは、カタリナちゃんだったものだ、と。


 彼の横顔は、見たこともないような憎悪に染まっていたから。

 もし仮にでもその感情を向けられた日には、私は卒倒してもおかしくないくらい、目に見えるほどの濃い感情の色。

 目が覚めてからというもの、生気の薄かったウェイドさんに初めて見えた渇望の色は憎悪に染まっていて、私は一瞬とは言え、彼の心を垣間見たような気がした。


 彼からすれば、カタリナちゃんには裏切られたようなものです。たった一夜にして彼は家族を失い、世界的な犯罪者に仕立て上げられ、無力さだけを突き付けられた悪夢のような夜を押し付けられたのだから、許せないのは当然。ウェイドさんがどんなに優しくとも、許容してはならない一線を、カタリナちゃんは超えたのだ。


 神獣。


 カタリナちゃんはウェイドさんに、そう名乗ったそう。

 ウェイドさんから話を聞いた時にはそんな馬鹿な、と思ったけれども、実際にカタリナちゃんは世界を一変させるようなことを仕出かしたのだ。そんなこと、神獣かアーティファクトの力でもなければ一考の余地にすら入らない。


「神獣……発動されたのは歴史上、帝国が建国されるより以前の歴史を含めても、たったの一度だけ。この規模で災害を起こせるだなんて、文明破壊兵器と言われるだけはありますね……」


 箒を杖のように構えて思案する。

 神獣とは、今も尚敵対する森林国家であるエルフの国が有する最終魔法兵器と呼ばれる単一の魔法としては最高威力の魔法。

 帝国ではそれこそが神獣と呼ばれているけれど、その魔法の術式も、形式も、姿も形も、何一つとして解明されていない謎多き存在。

 それがまさかウェイドさんが拾ってきた少女だなんて、誰が見抜けるのだろうか。そんなこと、誰が考え得るのだろうか。

 だから私はウェイドさんに「悪くない」と言葉を掛けたのだけど、意図も含めて伝わっているようには思えない。


「……根本から支えてあげるしかない、ですよね。もどかしいけど、時間をかけて向き合って行くしか、ない」


 そうやって自分に言い聞かせて頷き繰り返すけれど、私には一つ、気がかりなことがあった。


「……あの部屋。ウェイドさんの口から語られなかったけど、何かがあったはずのあの部屋で……、何があったのかを知らないといけない……。そんな気がします」


 ウェイドさんが寝泊まりする部屋の、更に奥。

 恐らくこの教会の神父様が使っていたであろう書斎部屋には、ウェイドさんが目を覚まさなかった頃に立ち入っている。

 その部屋で見たのは、紫水晶の破片が散乱している様と、細かな血飛沫が飛び散った痕。

 何かがあったことは確かだが、ウェイドさんの口からは一切語られなかった。

 その事実を察するに、口にするだけでもウェイドさんが傷付くかもしれない悲惨なことが起こったに違いない、ということ。

 出来ることならウェイドさんの口から本当のことを聞かせてもらいたいが、これ以上彼が傷付く必要は無い。私も、彼に傷付いてほしくない。ゆえに、知りたいのなら、私が自ら行動を起こすしか他にない。


「……気になるのはこの本、ですよね」


 部屋に入ってすぐに手を伸ばしたのは、床に落ちた、一冊の本。

 悲しいかな、一度見たことのある景色に驚けるほど私は純粋ではないため、紫水晶の破片が床に散乱する部屋を見ても、私は無感動のまま、無題の本を手に取る。


 確か以前この部屋に訪れた際、ウェイドさんの部屋から物音がしてすぐに駆け付けなければならない事態になったから詳しく調べられていなかった。


 本を片手に部屋の中を見回すと、紫水晶の破片が散らばっている。

 セナ村に来る道中、紫水晶と化した人の彫刻を無数に目にしてきたけれど、石化した人は、転倒しただけでは砕けたりしていなかった。

 それはつまり、ウェイドさんの話にあったように、誰かの手によって紫水晶が砕かれたということ。そしてこの書斎の持ち主にして、ウェイドさんの口から語られてこなかった神父様を思うと、この部屋で砕かれたのはこの教会と孤児院の責任者、ハーヴリー神父であることは間違いない。

 しかし、この書斎部屋と同じように荒らされたはずの弟さんたちが無残にも砕かれた部屋には、明白な違いがある。


 それは、血痕。


 弟さんたちが犠牲になった部屋には、一切の血痕も残されていない。

 これは弟さんたちが石であったことに加え、それを壊して回ったのがカタリナちゃんだという点が大きい。ウェイドさん曰く、カタリナちゃんは人の形をした紫水晶の人形だったというのだから、石をその手で壊したところで血も涙もでないはず。

 その話が、この部屋に微かに残された血痕は人の手によるものだという何よりも証拠になってしまい、それを為すことが出来たのは……ウェイドさんしかいない。

 つまり、ウェイドさんは自分の手で、自分の育ての親を殺す決断をしたということになる。

 それがどれだけ苦しい選択だったのか、私には想像もつかない。


 ……だから、


「その決断に至るまでに何があったのかを、私は……彼を支えるために、ここで何があったのかを、知る必要があります。だから……、失礼します」


 自分に言い聞かせるようにして、無題の本を開いた。






「──リリス? 帰ったぞ」


 どれくらいの時間、無題の本に目を通していたのか、部屋の外から聞こえてきたウェイドさんの声を耳にして、私はようやく読む手を止めて顔を上げた。


 自分の周りには、似た装丁の本が何冊も転がっていて、思い出したかのように吐き気が襲い来る。──否、吐き気だけじゃない。全身に纏わり付く、言いようのない不快感を振り払うべく、私は立ち上がり、声のする方へと駆けていく。


「ウェイド、さん……っ!」

「リリス、どうした……? 汗をかいてるから今は……って、泣いているのか?」

「うぅ、ううう……!」


 気が付けば私は、ウェイドさんの胸で大粒の涙を流していた。


「もしかして──……、見たのか。……読んだのか。あの、本を」


 頭上から降ってくる、厳かな声。

 誰にだって触れられたくないものの一つや二つあるはずで、もしかしたら私はウェイドさんの触れられたくないものに触れてしまったのかもしれない。けれども、胸を締め付けるような苦しい感情を無視できる訳もなく、怒られるのも承知でウェイドさんの胸の中で頷き、謝罪の言葉を吐く。


 けれども、ウェイドさんは語気の強い言葉を使うでもなく、ただひたすらに弱々しく、自嘲気味に笑みを零した。


「そうか……。……俺は、惨めだろう。好きだった女性が苦しんでいる間ずっと、傍にいてやれなかった愚かな男なんだ。俺がやってきたことも全部、無駄だった……。俺は兵士の器でも、戦士でもなんでもない。好いた女一人も守れないどころか、クズな大人に掠め取られた、負け犬なんだ……」

「そんなこと……そんなこと、ありません!」


 ウェイドさんの背中に回す腕にさらに力を込めて、彼の言葉を否定する。

 勢い余って顔を上げると、そこで何日ぶりかにウェイドさんと目が合う。目が合ったことで生じる悦に浸る間もなく、私は彼の言葉に噛み付いていく。


「ウェイドさんは何も……何も間違っていません! あなたが頑張ってきたことは、何一つ無駄なんかじゃありません! 私は知っています! ウェイドさんが、辛くても、苦しくても弱音も吐かずに頑張ってきたことを! だから自分を卑下するようなこと、言わないで下さい……! もっと自分に、誇りを持っていいんです……。辛くて苦しかったら、弱音を吐いて下さい。もっと……私を頼って下さい。私は、あなたの力になりたいんです……!」


 自分で言っていて、やっと理解できた。

 胸に巣食った、不快感の正体が。


 私は、悔しかったのだ。


 ウェイドさんを馬鹿にした世界も、ウェイドさんを傷付けた神父も、ウェイドさんを裏切ったカタリナちゃんも。何もかもが悔しくて、堪らない。

 ウェイドさんがその程度だなんて思われていることも、否定される社会も、全部全部悔しいし、大嫌いだということが。

 それに何より、彼の力になれない私自身が一番悔しかった。


「なんで、リリスの方が泣いてるんだよ……」

「だっで……、だぁっでぇ~~!」


 目一杯に溜まって溢れ出る涙を拭ってくれる指先が、温かい。

 他人の涙を拭ってあげられるような、こんなにも優しい人が傷付いていい理由など、あっていいはずがない。

 拭いても拭いても止まる気配のない涙で遂にはウェイドさんの顔も見れなくなった頃、私の背に、彼の手が回った。

 それでまた嬉しくなって感極まった私は、ウェイドさんの首元を涙でぐしょぐしょにしてしまう。


「……ありがとう」

「っ!」


 耳元で囁かれたのは、たった一言だけ。

 続く言葉の代わりに、ぐっ、と背中に回された手に力が込められる。

 何に対する感謝の言葉か、なんてどうでもいい。

 好きが溢れた私は、ウェイドさんの力になりたい一心でゼロ距離をマイナスにすべく腕に力を込める。

 好きが高まれば高まるほど、ウェイドさんと一つになりたい欲が増していく。それは性的な意味でも、物理的な意味でもあって、食事を用意している時なんて私自身が彼の心の臓を動かす糧になりたいとすら思えてくる始末。


 それが、今やこうして念願叶ってゼロ距離どころかマイナスにまで辿り着けそうな勢いの中で、私は絶の頂にまで達してしまいそうだった。


「り、リリス? ちょっと、苦しいかも……」


 もう辛抱たまらない。

 目の前にあるウェイドさんの鎖骨。ずっと前から顔を埋めたいと思っていたセクシーな鎖骨を前にして、黙ってなどいられない。

 微かに香るウェイドさんの汗の臭いが私を誘う。

 少しだけ目線を上げれば、樹木のような首筋。スッとした顔の輪郭。どれもこれも愛くるしくて感極まってしまう。


「ちょっと、落ち着け?」

「はわ……」


 引き剥がす力に完全敗北を喫した私が子猫みたいに持ち上げられると、仕方ないものを見るような顔で微笑みかけるウェイドさんの顔が真正面にあらわれる。

 それは憑き物が落ちた……、とまではいかないが、常日頃ウェイドさんに付き纏っていた影が落ちたような、そんな気配だった。


 その顔が可愛くて、愛らしくて、気が狂うほどに愛おしい。


 完全に理性が蒸発していた数秒前の自分の行いに恥じ入ることに加えて、大好きなウェイドさんの顔を目の前にして、両手で顔を隠してしまう。


「なあ、リリス」

「は、はい! なんでひょうか! ウェイドさん……」


 神妙な面付きに変わったウェイドさんの声に、体が跳ねる。

 彼の視線が、彼の声音が、私の妄想が現実のものになると予感して、体に力が入る。予習は妄想で完璧。遂にこの日が来たか、と目を瞑って一人でわーきゃーとはしゃぐ。

 持ち上げられたまま足をモジモジさせたのも束の間、続くウェイドさんの声に、私は目を見開くのだった。


「お腹、空いたよな」

「はぅっ?!」


 予想だにしていなかったウェイドさんの言葉で、私はすっかり記憶の果てにおいやっていた空腹を思い出す。

 困った顔で私を地面に降ろしたウェイドさんのお腹から、グゥ、となる音が聞こえて、私は慌てて夕飯の支度にとりかかる。


 ……なーにが、私が彼の肉体の糧になりたい、ですか。

 発情した猫みたいに興奮して火照った身体を覚ましながら料理に取り掛かろうと思ったのだけれど、ウェイドさんが「手伝おう」と言ってくれて、その日は二人で夕飯の支度をしたのだった。


 初めての共同作業、と浮かれたお陰で少しだけ失敗してしまったのは反省点でした。






 私が浮かれて浅ましい感情に飲まれたお陰で夕食の支度を忘れた日から、一週間が経過した。

 楽しい時間というのはあっと言う間に過ぎていくもので、セナ村に来てから、早くも一か月が過ぎようとしていることに驚きを隠せません。

 それだけの時間、ウェイドさんとこの生活を続けて思ったことは……、ただただ幸せであるということだけ。

 目が覚めて、おはようからおやすみまでの間、四六時中好きな人と一緒いて同じ時間を過ごせるというのは、ほんの僅かな危険すら覚えてしまうほどに幸せです。常に幸せホルモンが全身を巡っていて、一歩間違えれば幸せ中毒になりそうです。

 息も出来ないくらいの幸せに包まれて死ねるのならば本望、と思う反面、ウェイドさんを一人にしてはならないという一心で、致死量の幸福を前に辛うじて息をすることが出来ている、と言うのが今の状況。


「外に出てくる」

「はい。お気をつけて」


 この生活に不満は無い。

 好きな人と一緒に居られるのだ。不満など出るはずがない。

 あるとすれば、懸念。……そう。ほんの小さな、懸念なのです。


「……」


 一度は晴れたかに思えたウェイドさんの影。けれども、私個人では完璧に払うことなど出来なくて。鳴りを潜めていた影は、日を追う毎にその色を増していきます。

 ウェイドさんの横顔を見送る私の胸には、拭いきれない懸念が積もりつつありました。

 この頃になると、ウェイドさんはすっかり元の体力を取り戻したのか、庭での素振りに精を出すようになりました。数多の血を啜って赤黒く変色したグリップが特徴の、刃毀れを知らぬ剣と共に。


 そのこと自体には、懸念はありません。

 この短期間ですっかり痩せ細っていた肉体が以前を遥かに凌ぐ出来にまで仕上がって健康体そのものへと変貌していく様は異常としか思えませんでしたが、ウェイドさんの身体が何不自由なく動けるようになることは、素直に喜ばしいこと。

 とは言え、それが私の抱く懸念とは無関係、ということにはならないのも事実で。


「……ウェイドさんの目が、外に向き始めている」


 それが、今の私の胸に芽生えた、最大の懸念。

 それはきっと、ウェイドさんが自立するには欠かせない変化。成長と言っても差し支えない変化。

 いつまでも孤児院に閉じこもっていても、彼を苛む罪悪感は消える事は決して無い。その罪悪感を解消するためには……、彼が迷い込んだ悪夢から解き放たれるためには、外に目を向け、外に踏み出していかなければならない。

 例えどんな現実が彼を待ち受けていたとしても、です。

 だけれどもそれは、私とウェイドさんの幸せな時間を捨てるという選択肢でもある。


 ……訂正。私にとって、幸せな時間。

 それこそが、今日までウェイドさんと過ごして来て、嫌というほど思い知った現実。

 彼はあの日以来、決して私に触れて来ない。とは言えそれは、私を嫌っているからではなくて、傷付けないようにするためだということを、ウェイドさんが私を見る目から、ひしひしと感じていた。


 彼の想い人であるシスターフィオナは、彼の目の前で、彼の意思で、石にされた。

 そのことが精神的外傷として残っているから、というのはあくまでも私の推測。希望的推測に過ぎない。だけどそれは、決して遠くはないことを、理解しています。

 だからこのまま長い時を経て私とウェイドさんが……こ、恋人関係へと発展し、やがてはそれ以降の関係を望むことも、決して叶わぬ夢ではない、という段階にあると思っています。

 けれども、それが夢ではないのかもしれないとしても、このまま私とウェイドさんが同じ時を過ごしても、そこにウェイドさんの幸せは、ありません。

 決して彼は、幸せにはなれない。


 もしも念願叶ってウェイドさんが私を愛してくれたとしても、ウェイドさんが私に恋心を抱く度に、彼は罪悪感に苛まれるに違いありません。彼は、優しいから。私が嫉妬してしまうくらい優しいからこそ、私をその手に抱く度に、苦しむのでしょう。


 このまま孤児院で過ごしていても、彼は彼の想い人を……過去を振り払えない。

 だから本来ならば彼が外を向いてくれたことは私との関係を進める良い一歩だとして背中を押すべき、そう考えるべき……なのですが、私にはそうは、思えません。


「……外の街では、帝都では、何が待ち受けているか。世界がどれだけ変わってしまったのか。私はそれを、知っています……」


 この村に来るまでの道中。

 生得魔法である隠匿魔法を駆使して出来る限り人目を避けながら進んで来たけれど、世界は大きく変わってしまっている。村人全員が石に変えられたこの村が、まだ平和だと言えるくらいには醜く変貌してしまっていることを知っているからこそ、私は外に行こうとする彼の背に追い縋る。外に行っては駄目だと、泣き縋る。


 ──紫晶災害。


 道中で耳にした聞き慣れないその言葉が、世界を一変させたあの夜の出来事を指すのだと知ったのは、いつだったか。

 その災害によって、人類は三種類に分けられた。


 一つが、紫晶災害を逃れた幸運の持ち主。

 一つが、石に変えられた、不運な人物。

 そして残る一つが、体の一部を石に変えられた、中途半端な存在。


 私や私の家族のように紫晶災害を逃れた人たちは、紛れもなく幸運。そして石に変えられた人たちは不運であると同時に、自分が石にされたことにも気付かず逝けたことは、今の世界の現状を知る者からすれば幸運とも言えるだろう。三つ目の……、中途半端な人の存在を知っている人からすれば。


呪い人(ネビリム)……」


 紫晶災害を経て、体の一部に紫晶を宿した人を指す、差別用語(スラング)

 ウェイドさんも右目の周りに紫晶を宿した、呪い人(ネビリム)に該当する。

 呪い人(ネビリム)は、今のこの世の中で、非常に風当たりの強い存在となって、忌み嫌われている。


 ──正体不明の、紫晶災害。


 呪い人(ネビリム)は文字通り紫晶災害の後遺症とも呼ぶべき存在であり、同じく正体が不明。どうして体の一部だけなのか、どのような性質を持っているのか……何もかもが分からない、ただただ正体不明の存在。それが……、呪い人(ネビリム)


 人は、未知のモノを遠ざける性質を持つ。ゆえに、残された健常者は、呪い人(ネビリム)を徹底的に排除しに動いた。中には、呪い人(ネビリム)が紫晶災害を起こした、なんて荒唐無稽なことを言って彼らを糾弾している光景も目にしたことがある。

 そしてその排除は──、紫晶災害より以前に、どんな立場の人間であっても、というのが業の深い話に繋がります。

 それこそ、貴族のように位が高かった人であっても、紫晶災害によって呪い人(ネビリム)にされた人は、健常者による健常者のための社会には不要と判断され、親友からも、家族からも、恋人からも切り捨てられる。


 ……だって、その呪いが、感染るかもしれないから。


 一度でも社会にそんな偏見が受け入れられたが最後、呪い人(ネビリム)は人権を奪われ、尊厳を奪ってもいい対象へと早変わりしたのです。

 世界が一変したというのは人が石に変えられたというだけではなく、紫晶災害の後遺症である呪い人(ネビリム)の出現により、人の価値観すらも変わってしまったという意味。


 カタリナちゃんが引き起こしたとされる、紫晶災害。


 心優しいウェイドさんはそれを自分が願ったせいだ、と苦しんでいるのは知っている。神獣の考えることなんて……、高次元の魔法生命体の思考なんて人間が読み取れるものではないというにも関わらず、背負わなくてもいい十字架を背負ってしまったウェイドさん。

 そんな底抜けに優しい彼が呪い人(ネビリム)の扱いを知った時、彼らの身の上を知らされた時、本当の意味で数多の人の人生を狂わせたと知った時。果たして、良心の呵責に耐えられるでしょうか。


 ──耐えられるはずが、ない。


 彼は、人の痛みを敏感に感じ取る。だから優しく在れるし、そんな優しいウェイドさんが私は好き。大好きなのです。

 だけど、この現実を彼が受け止められるかどうかは、別の話で。


「ウェイドさんがこれ以上傷付く必要なんて、無い……」


 その願いを叶えられるほど、私は彼の支えになれていない。

 だからこそ、彼が現実を受け止めて傷付いた時に、私は彼の傍にいてあげることしかできない。

 そんな無力感を味わうくらいなら……私はこのまま、この場所で、二人で死んでいきたい。

 時間をかけて、彼と一つになりたい。


 それだけが私の小さな、ほんの些細な唯一の願い──、だったのに。




「……リリス。俺を、帝都に連れて行ってくれ」




 どうして貴方は、私の願いを叶えてくれないのですか……?





補完と言う名の、言語解説。


【遺品】


全ての人が石に変えられたセナ村。

その村の孤児院にあった遺品は、その日、彼らに土産として分け与えられたものばかり。

他に残されたものは、無視の死骸や、トカゲの尻尾、泥団子など、残骸とひとまとめにされるようなものばかり。孤児院にある私物など、替えの服を除けばその程度のものなのだ。ゆえに、残されたのは、誰の匂いも染み付いていない、新品同様の行き場を失った土産物ばかり。

その中で誰のものか判別できるのは、シスターフィオナのストールを除けば、カタリナだった者の品々だけ。その事実を前にしたウェイドがどのような反応を示したかは、リリスだけが知っている。

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