一節 発狂1
◇
頭が、揺れる。
気持ちが、悪い。
手足の感覚が……、ない。
瞼が、開かない。
喉が、潰れている。
全身から、軋む音がする。
「ぅ……、ぅあ……」
漏れ出る吐息が音を形成するが、俺の耳はそれを音とは認識しない。
鼓膜を震わせるのは、チチチ、と囀る小鳥たちの会話する音だけで、俺はゆっくりと長い時間をかけて全身に血を巡らせるようにして体を起こす。未だ、目は見えない。
「──んだ、のか?」
喉に絡んだ鉄の味を吐き出して、俺は今一度、確かめるみたいに言葉を口にする。
「俺は、死んだ……のか?」
最期の記憶を照合しつつ、俺は思考を巡らせる。
死後の世界。
聖神教で語られる死後の世界は、楽園だという。
誰しもが楽園に辿り着いた後に、生前の行いが清算されると、シスターフィオナから教わった。
悪しき行いをした者は楽園での幸福を味わった後に、全ての罪を贖うまで永遠の責め苦を味わい、善行をした者には永劫に続く幸福が与えられる、と。
楽園を満喫した魂から順に、次の生に向かうのだと教えられた。
ならばここは……、地獄か。
楽園にいるはずのシスターフィオナや弟妹たちに謝ることすら許されずに、俺は地獄に落ちたのだろうか。
俺は、俺の所為で殺された彼女らに会わせる顔など持ち合わせていなかったから、それで良かった。俺の居るべき場所は楽園なんかじゃなく、地獄がお似合いだから。
みんなが楽園で幸せに居てくれれば、それで良かった。
俺が殺したも同然の記憶。それを持ち得ながらこんなことを願うのは分不相応だと分かっているが、叶うことなら、俺のことなど忘れて幸せでいて欲しい。
そうであれば、俺はどんな苦しみでも耐え抜けるとさえ思えていた。
──だがそれは、死後の世界であればの話だ。
開かなくなった瞼へと手を伸ばした時、俺はある異変に気が付いた。
触れた指の先。
右の目元の感触が、左と異なるのだ。
その異変に、これまで固く閉ざされていた瞼を薄く開き、世界をその目に写す。
どんな地獄が広がっているのか、確かめるために。
「なんだ、これは……」
焦点の合わないぼやけた世界が、やがて輪郭を得て次第にはっきりとしてくる。
左右で見える世界が違って見えるのは、異変の影響か。
だがしかし。俺が驚愕した理由は左右で見える世界が異なる差なんかではなくて。
記憶にある、俺の最期に見た景色となんら変わりない光景が目の前に広がっていることに、俺は言葉を失わずにはいられなかった。
「……うそだ」
自分の血で汚れた、手のひら。
本棚に机、床や天井にまで飛び散った、血痕。
それから、床に散乱した、粉々に砕け散った紫水晶の破片。
全てが、俺の記憶通りの世界に、俺の脳裏に最悪の想定が過る。
「うそだ……うそだうそだうそだうそだ」
……俺は、死んでいない?
「嘘だッ! 嘘だ……! 嘘に、決まっている……」
その答えを否定するように声を荒げるが、俺の記憶と今目の前に広がる光景。
二つの記憶を照らし合わせて間違い探しをするのであれば、そこにカタリナの姿があるかないかの違いだけ。
俺を殺して全てを終わらせてくれたはずの……俺の最後の願いを叶えてくれたはずのカタリナはもうどこにもいない。
「やめろ……やめてくれ……」
立ち上がろうと力を込めると、四肢が裂けそうな激痛に苛まれる。
気を失った方が楽とすら思える苦痛。
ここが地獄であると言われても納得が出来るような疼痛。
それでも俺は立ち上がり、部屋を飛び出して行く。
「俺は、死ぬべきだったんだ……死んだ方が、良かったんだ……生きてるなんて、間違ってるんだ……」
壁に、床にと、俺の触れた場所にべったりと血の跡を残して、真っ直ぐに歩くことすら困難な状態で俺は慣れ親しんだ孤児院の中を彷徨い歩く。
物音一つしない寂れた孤児院の空気が、心に負った傷を刺激する。
「夢だ、こんなのは、夢に決まって──」
だとしたら悪夢だ。
頭を蝕む記憶を振り払うようにして、頭から扉に飛び込んでいく。
目的の部屋に辿り着いた刹那、俺は自分のいる場所が現実であるということを否が応でも実感せざるを得なかった。
「あ……あぁ、あああぁ……! うわぁああああああああああああああああああ!」
床に這いつくばったまま、目の前に広がる乱雑に散らかった部屋の中を見て泣き叫ぶ。
床に散らばる紫水晶の破片一つ一つと目が合うと同時、廃れることのない光景がフラッシュバックする。
俺のせいで壊されていく弟妹たちの光景を思い出し、俺は不安に恐怖、怒りに侮蔑といったあらゆる負の感情に襲われ、耐えきれずにその場で胃液を吐き出す。
「ぅ、ぉぼぁあッ! うぇえ……っ」
空っぽの胃から逆流するのは黄色い胃液だけで、体の内側から身を裂くような痛みを発する巨大な罪悪感は胸にわだかまったまま、俺は紫水晶の破片へと手を伸ばした。
「キッド……、フィン……」
見れば、破片は子供たちの一部であり、俺ははっきりと判別をつけて二つの破片を見て呟いた。
愛した弟妹たちのことを俺が見間違えるはずがない。
だから俺は、血と埃と吐瀉物に塗れながら部屋を這いずり回り、砕け散った紫水晶の破片を一つ残らず集めていく。
現実から目を逸らすように、ただひたすらに、欠片の一つすら見逃さないように。
「ライル、ジェニー、ペニー、アイラ、グウェン、エド、テール、ワッツ……」
そうしてかき集めた破片は、子供たちの人数分の山になって俺を囲んでいた。
無心でかき集めていたせいか、気が付けば外は茜色に染まり出しており、弟妹たちに囲まれた環境が俺に充足した心地を与えてくれる。
「……一緒にいような。ずっと、ずぅっと、一緒に──」
満ち足りたせいか、疲弊しきった心と体は途端に休息を訴える。
入り込んでくる隙間風に身体を小さく折りたたんだところで、視界は黒に染まる。
その日は限界を迎え、気絶するように眠るのだった。
「──ッ?!」
明くる日。
俺は息を荒げて跳び起きた。
──痛いよ、苦しいよ。
──どうして、助けてくれないの?
──どうして、助けてくれなかったの?
「ハアッ、ハアッ、ハアッ……」
弟妹たちの顔が苦痛に歪み、泣き叫ぶ夢。
次第に弟妹たちの顔から表情が抜け落ち、最後には俺を責め立てるような言葉に恐怖を覚えて飛び起きた後、全身からじんわり汗が浮かんでいることに気付く。
暑いのか寒いのか分からない感覚のままべたつく額を拭うと、額で渇いた血が汗で溶け出し、手のひらを汚す。
歯噛みするような内容が夢であったことに安堵し胸を撫で下ろしたのも束の間、粘り付くような視線を感じて、俺は頭を上げた。
そこには、昨日積み上げた弟妹たちの人数分の破片の山があるだけで。
ただの破片の山。
紫水晶の破片の山がただそこにあるだけだというのに、俺の目にはそれらが一つ一つ形を伴っていくように見えてしまった。
──痛いよ、怖いよ、苦しいよ。
──助けてよ、ウェイド兄ちゃん。
──どうして俺たちがこんな目に逢わなくちゃいけないの?
──どうして私たちをこんな目に逢わせたウェイド兄ちゃんは生きてるの?
──どうして、わたしたちを見殺しにしたの?
「あ、ああぁ……、う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
聞こえるはずのない声が聞こえる。
直前まで見ていた夢の景色が、まぶたの裏を飛び出してくる。
そんな馬鹿げた話が現実となって襲い来る恐怖に、俺は恐れ戦き、壁際まで追い詰められていく。
幸いなことに、俺を責め立てる弟妹たちはその場から動かず、ただこちらを光のない目で見つめてくるのみ。
拭ったばかりの汗が、再び噴き出してくる。
「違う、違うんだ……! 俺は、こんなこと望んじゃいなかった……! なのに、カタリナが勝手に──」
──人の所為にするんだ。
──ウェイド兄ちゃんらしくないよね。
──口では俺の所為だって言ってたのに。
──そうやってまた、目を逸らすんだ。
──自分の発言に責任を持て、ってアキ兄ぃが言ってたよ。
「俺の、おれの、せい……。そうだ、ライルたちが死んだのは……殺されたのは、俺の所為じゃないか。それを俺は……、何を、なにをいまさら……」
自分で言ったんじゃないか。
俺の所為でみんなが殺されたんだ、と。
そう言って、自分で自分を責めたんじゃないか。
それを人に言われて傷付くなど、笑止千万。思い上がってはキリが無い。
鏡で自分の生き汚さを見せられたかのように、自分の歪んだ口から引き攣った笑い声が聞こえてくる。
「は、ははっ……。はははっ、あははははははっ! どこまで浅ましい! どこまで卑しいか! 俺は、俺は……どこまでも、醜い……ッ!」
両手で顔を覆い、背中を丸め、小さなくなって自分の殻に閉じこもる。
ガラガラと音を立てて笑ったところで、気持ちが晴れるどころか分厚い雲に覆われていくばかり。
芋虫のように地を這い、俺自身の存在を限りなく小さくして、誰にも見つからないように丸くなる。
「このまま……消えてなくなりたい……」
とうに涸れた涙は流れることなく、心の渇きを潤すものは何も無い。
俺はその日、小さくなったまま寸分たりとも動くことなく、夜を超え、朝を迎え、次の朝が来てもまだ、俺の身体は動かなかった。
補完と言う名の、言語解説。
【死後の世界】
ポラス教における観念。
天国と地獄。
善行を積んだ者は天国へ。悪行を重ねた者は地獄へ。ポラス教では、祈りを捧げることが善行の一つであり、いかなる大罪を犯した者でも、悪行を繰り返さず、改心し、更生した姿勢を見せれば救済されると言われている。
罪には罰を。罰には赦しを。
その寛容な姿勢は美徳である反面、被害者からすれば納得がいかないということでトラブルも少なくないが、誰しもに事情があり、誰しもがそうなり得た可能性がある、というのが女神ポラスの教えである。
抱えきれない澱を吐き出させ、世界を浄化するのが修道士の役目であり、その果てには楽園での救済が待っていると信じて、彼らは今日も働く。




