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三節 変貌7



 俺にはもう、考える権利すらも放棄して、ただ目の前の嵐が過ぎ去ることを祈ることしかできなかった。


「……ウェイド。お願い、したくなった?」


 だが、過ぎ去ることを祈る嵐そのものがこちらを注目するなど、誰も想像だにしていないだろう。

 だから俺は、その声に返事することなく、蝸牛のように自分の殻に閉じこもって小さく震えるのみ。

 頭上からカタリナの声だけが聞こえる、シンと静まり返った部屋の中心で怯えて過ごすことだけが、今の俺に出来ることだった。

 部屋に入ってきた時にも静寂を感じたが、今はそれ以上の無音に体の震えが止まらない。

 カタリナの声に反応を示すことも、顔を上げることすら満足にできない。

 顔を上げた先で広がっているであろう光景を目の当たりにするのが、酷く恐ろしかった。

 自分が招いた最悪の現実を、直視する勇気が無かった。


「……なら、こっち」


 カタリナに手を引かれ、立ち上がらされる。

 半ば引きずられるようにして孤児院の中を突き進むカタリナの背に、俺は恥も外聞も捨てて必死で訴える。

 カタリナが次に取ろうとしている行動を阻止するために。


「や、やめてくれ……! もう、もう……やめ、て、ください……っ! もう、これ以上、俺の、大切な人を誰も、奪わないで下さい……! なんでも言う事を聞く……! お前の望む願いを言うから、俺はどうなっても良いから、あの子達だけは──」


 また俺の所為で誰かが死ぬ。残っているのは、孤児院の外で石に変えられたシグとアキ、それからシスターフィオナの三人だけだ。

 もうこれ以上、俺から何も奪わないでくれと縋る俺を引きずり、カタリナはとある場所で足を止めた。


「……ん。ここ」

「……ここ、は?」


 カタリナに連れていかれた先は、シグとアキ、それからシスターフィオナがいる場所……ではなく、孤児院のとある一室の前。


 ここは、神父様の部屋だ。


 神父様と言えば、孤児だった俺に生き方を教えてくれた厳しくも優しい大人──という印象が崩れたのが今現在俺の周りに起こっている異変のきっかけとも言える。



『──もしかして、神父様との、子?』



 悪夢の発端であるその事実が真実であるというのは、シスターフィオナの反応から分かっている。彼女が最後に吐いた言葉が、何よりの証拠。吐き気を催すほどの、忘れてしまいたい記憶だ。

 だが、しかし。例えどれだけ目を逸らしたい現実だとしても、そこに二人が愛し合っていた証拠があるなら、俺は二人の家族として、二人のことを祝福してあげなければいけなかったはずなのに……。


「……ウェイドには、こっちの方が、いいかと思って」。

「……」


 そしてそれがカタリナの見つけた罠だったとしても、俺が抱いた「真相を知りたい」という好奇心はカタリナに対する恐怖心にすら勝ってしまうわけで。


 ……罠でもいい。罠だったとしても俺は、神父様とシスターフィオナの二人の関係を聞き出さなければならないと、謎の湧き出る使命感に駆られしっかりとした足取りを取り戻す。

 きっと、何か別のことを考えて意識を逸らさなければ、正気を保っていられなかったのだろう。この状況下で正気を保っていること自体、狂っているとも言えるものだが、今の俺は最早、勇み足となった自分の歩みすら止められぬまま、俺は遂に神父様の部屋へと踏み入っていく。



 ◇



 ハーヴリー神父の部屋。


「……汚い。神父、様は、とんでもない、人だね」


 子供たちの誰であっても立ち入ることを禁じられている、言わば開かずの間。

 もちろん、長兄となった俺も入ったことのない部屋。

 しかし、子供と言えばやるなと言われればやりたくなる生き物。入るなと言われれば入りたくなるのが子供の心理であり、俺はシグとアキを引き連れて幾度となく侵入しようと試みたことがあった。けれども、一度たりとも部屋に入ることは叶わず、毎回神父様に見つかってきついお叱りを受けた。


 その部屋に俺は今、何の障害もなくカタリナに促されるがままに立ち入っていた。

 しかし、念願の部屋に入れたことへの感慨深さはなかった。カタリナが鼻をつまむような素振りを見せるが、部屋の中は整然としており、これと言って汚さは目に入らなかった。

 俺はただ、書物に囲まれた机に向かったままの姿で石になっているハーヴリー神父と相対して、虚しさが芽生える心境で見つめていた。


「……ハーヴリー、神父」


 無論、神父様が石化していることを予想していなかった訳じゃない。

 あれだけの騒ぎを起こしておきながら一切のアクションを起こさない時点で、ハーヴリー神父も例に漏れなかったというわけだ。


「書き物の途中で、石にされたのか……」


 彼は机に向かったままの状態で、ペンを片手に一冊の本を広げた状態で石になっている。

 俺はその本を手に取って表紙を眺めるも……無題。

 本の中でも世間一般に広まっている安価な皮の装丁の一冊。


「……懐かしい。神父様の、字だ」


 表紙をめくってみると、そこには忘れもしない、ハーヴリー神父の筆跡。

 文字の読み書きの授業は孤児院の子供たちのみならず、村の子供連中、ひいては村の大人達にも門扉が開かれており、教会のある村では識字率だけで言えば帝都とそう差が無い。

 識字率の向上は、軍門に下り属領となった敵種族にも適用され、帝国民の地力の底上げを図る皇帝陛下の施策の一環ではあるが、辺境村の孤児が特別騎兵として帝国に成果をもたらすなどして、賢帝の名に恥じぬ通りの成果を上げているのは事実。

 ライルや、その一つ下の世代の子たちでも読み書きが可能なくらいであり、俺もハーヴリー神父やシスター達から多くの一般教養を学ばされた。

 だから見慣れた懐かしい神父様の書かれた文字に、俺は主目的を忘れそうになる。


「これは、日記か?」


 何も言わず、何も動かず。ただジッとこちらを見つめるカタリナの不快な視線を受けて、この部屋にやって来た理由を思い出す。

 元より、誰の無念を晴らすための使命感なのかさえ、分かっていないのだが。

 その本を頭から開いて、目を通していく。


「……日付が、飛び飛びだな」


 ハーヴリー神父はあまり筆まめな方ではなかったのか、日記の一番初めのページにはシスターフィオナがこの孤児院にやって来た時の様子が記されている程だった。



 ──六人目の修道女、フィオナがやってきた。

 ──フィオナは年の割に、気が利いて良く働く子だ。

 ──フィオナは好き嫌いの無い子だが、酸っぱいものが苦手らしい。

 ──フィオナはウェイドと遊んでいる時が一番、笑顔が多い。彼女も年相応ということだろう。



「……シスターフィオナのこと、ばっかりだ」


 シスターフィオナのことばかりが書かれている文字から漂う薄気味悪さに、俺は思わず顔を顰める。

 どうしてシスターフィオナのことしか書いていないのか。

 子供たちのことは眼中にすら無かったのか。

 読み進めれば読み進める程、神父様がシスターフィオナに固執していたのが分かってくる気持ちの悪さに、胃液が逆流してくる。

 全部読んでいては気が狂いそうになるため、読み飛ばしてページを捲っていく。

 どうせろくでもないことばかりだろうと決めつけて捲っていく中で、途中、びっしりとページいっぱいに文字が書き込まれたページを見つけて、思わず手を止めてしまう。


「──っ!」


 しかし、そのページに手をかけた瞬間、文字に宿る執念というか、書き連ねた際のハーヴリー神父の感情が蘇ってくるような感覚に襲われ、俺は思わず本を閉じてしまった。


「……ウェイド? 読まないの?」

「うるさい。黙っててくれ」


 このページを開くことは、勇気がいる。

 このページを読むことは、覚悟がいる。


 そんな予感が焦燥となって俺の首筋をジリジリと焼く。


「……俺には、知る権利が、あるはずだ」


 誰に言い訳するでもなく、俺はそう口ずさんでページを開く。


「……っ」


 日記を開いた瞬間、俺の目に狂気が映る。

 見開き全てを埋め尽くす、書き殴られた文字列。

 書かれた当時の心境を表わすかのような、ところどころ水滴で滲んだような跡。

 途端に荒くなる呼吸。逸る心拍。浮かぶ汗。

 俺は真っ先に目に飛び込んだページの上部にある、その日の日付を指でなぞった。


「俺が、旅立った日だ……」



 ──オリア歴一〇九年 二月三十二日。



 それは、今から五年前。忘れもしない、俺がこのセナ村を旅立った日付。

 あの日に、シスターフィオナが俺を「待っています」と言って送り出してくれた日に、一体何があったのか。ハーヴリー神父は、何を思ってこのページに大量の文章を書き留めたのか。

 筆者がこれだけ興奮して狂ったような文字で書くような、それもシスターフィオナのことだけが記された日記に記す出来事が起こったことは想像に難くない。むしろ、悪い予想しか出来ない。

 それでも俺は、カラカラに渇いた喉に唾を通し、震える指先で文字を追った。



 ──ウェイドが旅立った。幼いころからフィオナに恋慕するウェイドが旅立った。フィオナは彼のことを憎からず思っていたのだろう。いや、好いていた。神に仕える修道女の分際で、恋に落ちていたのだ。だからその夜、フィオナは寂しさの余り、私を頼って来た。それが私の琴線に触れた。どこまでも純情。どこまでも清い存在。疑うことを知らない、無垢で愚かな子供。私がそう在るように振舞ってきたのだから私の努力が結ばれた瞬間とも言えよう。だから私は、フィオナの処女を、彼女の清廉さの象徴でもある純潔を、奪ってやった。神からも、フィオナからも。そして、ウェイドからも。タイミングは図ったものではないが、それはこれまでのどの収穫の時期よりも、遥かに最高に滾った破瓜の瞬間だった。泣き叫ぶフィオナを組み伏せ、出迎えた時よりも比べるべくもないほどに成長した、けれどもまだまだ小さな彼女の秘部に私の男根を捻じ込んだ瞬間は、天にも昇る快楽だった。彼女の血と蜜で濡れた私のモノを掃除させ、再度捻じ込む。最後まで抵抗する意思は消えなかったが、所詮はただの慰み者。声を嗄らし、涙を絶えず流そうとも、気を失うまで体を酷使してやればただの肉人形と変わらない。本来はもう少し年嵩のある女の方が好みではあったが、成長を重ねて丸みを帯びたフィオナの身体はなかなか悪くなかった。ましてや、体をまさぐる度にウェイドに対して謝罪と助けを乞う声を繰り返す様子が、何よりも私の興奮を誘って仕方がなかった。今頃ウェイドはのんきに野営でもしている頃だろう。行為中、フィオナが神に祈りを捧げる度。その度に私と言う存在をフィオナの身体に刻み込んだ。翌朝、早くに目覚めたフィオナが部屋から逃げ出そうとしたので、神に仕える神父の聖水を施し、口を閉ざしているよう忠告した。度し難いほどに従順で愚かなフィオナは、お前が黙っていれば子供たちには手を出さないなどと言えばその口は永遠に閉ざされたままだ。実に扱いやすい。そろそろシグ辺りを売りに出そうかと思っていた頃だったが、まだまだフィオナで楽しめそうだ。ああそうだ、長く楽しむためには次からは忘れることなく避妊を施さなければいけないな。少なくとも向こう三年の間、ウェイドは帰ってこられないのだから──



 その後も続くであろう日記は、床に投げ捨てられる。



「──ぅ、がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!!!!!!」



 刹那。部屋に響く砕け散る音。


 気が付けば俺は、紫水晶と化した神父の顔を殴り飛ばし、慈愛の裏に隠れたド屑の本性を粉砕していた。

 首から上が無くなった神父の身体は椅子ごと倒れ落ちるも、俺はその体に馬乗りになって殴り続ける。

 子供たちを一撃で殴り殺したカタリナと同じように、一切の躊躇いもなく。

 弟妹達を殺したカタリナとは違って、周到に。確実に。執念深く。

 一撃一撃に憎悪を込めて、殴る。



 殴って、殴って、殴って、殴って、殴って、殴って、殴って、殴って、殴り続けた。



 この世に一欠片すらも残してはなるまいと、拳が自分の血で染まっても尚、殴り続けた。



「──ハァっ、ハァっ、ハァっ、ハァっ……!」



 破片が拳を突き破り、だくだくと流れ出る自分の血で汚れた俺の身体。

 それを厭う暇もなく殴り続けた俺は、原形も残らないくらい粉々になったハーヴリーの上に立ち、息を荒げて天井を見上げる。

 喘ぐように息を繰り返す中で、壊れた蛇口のように流れて止まらなくなった涙を湛えたまま、カタリナに呼び掛ける。


「なぁ……」


 俺がハーヴリー神父を壊す瞬間を止めることも促すこともせずに見届けたカタリナに向かって、俺は天井を仰ぎ見た状態のまま、願いを口にする。


「……壊してくれ」

「……何、を?」

「全部だ」


 願いを口にするのを躊躇っていたのが馬鹿らしく思えるほど、俺の口はすんなりと願いを口にした。



「全部、何もかも。壊してくれ。……こんな世界、生きている意味が、無い」



 吐かれたその言葉は紛れもなく本心であった。

 誰からも賞賛されず、罵詈雑言ばかり浴びせられる職場で、果てには罪人扱いをされクビにされ、信じていた大人は俺を裏切り、愛した女性は弄ばれ、弟妹達は俺の愚かさによって殺された。



「……うん。ウェイドのお願い、叶えてあげる」



 それが承諾の合図なのか、ニタァ、と笑うカタリナ。

 願いを聞き届けてくれたカタリナが光り輝いたかと思えば、その姿は掻き消える。

 気味悪く思えた笑みも、最期に見送られる顔が笑顔なら悪くないと思えてしまう。


「……これで、全部、終わるんだ」


 こんな世界、生きている意味がない。

 俺の願いは、それに尽きる。

 どうせ死ぬのなら、この世界も道連れにしてやるという、せめてもの報復。

 それが叶うかどうかなんて知ったこっちゃない。

 俺はもう、カタリナに殺されて死ぬのだから。

 俺の願いは、俺を含めた全てを消してもらうことだ。

 だから、死んだ後のことなんてどうだっていい。

 どうだっていいけれど、俺がいなくなった後で少なからず酷い目に逢えばいい。


 ……シスターフィオナを傷付けたハーヴリー神父。それを容認し続けた聖神教の教会。レオポルドを含む、古き考えに囚われたままの帝国貴族。俺に石を投げた人も。戦争を起こす人も、全部。何もかも。それから、俺も。


 ──全て、消えてしまえばいい。


 カタリナの力がどこまで及ぶかなんて知らない。精々が隣の村くらいだろう。

 十や二十、百や千の悪いことが、一つか二つの良いことで帳消しになるわけがない。

 俺の心は、もうとっくに限界だったんだ。

 だからクビにされるのも、帝都を後にするのも、リリスの告白を断るのも未練が無かった。

 五年もの時間をかけて帝都で培った全ては、無駄だったのだから。

 こんなことなら、帝都になんていかずに、程近い場所に家でも拵えて、シスターフィオナと結ばれて静かに暮らしていたかった。

 そんな凡庸な願いすらも叶うことのない俺の一生は、どこまでも無価値だったと言えるだろう。



「……いつか、生まれ、変わったら。必ず──」



 うわ言のように零れた声は、部屋の窓から差し込む紫色の光線によって掻き消される。

 夜空を上書きするように光り輝いたその光は、死にたい俺からすれば、天からの祝福。あまねく希望の光にすら見える。



「……シスター、フィオナ。あなたを守れなくて、ごめん、なさい……」



 その身に刻むように吐かれた呪詛にも似た言葉を最後に、俺は意識を失う。


 四肢の先から脱力し、もう二度と覚めることのない、深い、深い眠りへと、つくのであった。








補完と言う名の、言語解説。


【ハーヴリー神父の手記】


無名の手記。

聖書や医療に関する本、神学についての本など、貴重な本が数冊置かれただけの、書斎と呼ぶには隙間の多い本棚には、無名の手記が全部で六冊置かれている。

それらは全て、ハーヴリー神父の手付きとなった修道女の痴態が、ハーヴリー神父の目線から事細かに記されているもので、それは無関係の人間が見ても吐き気を催す邪悪そのもの。

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