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三節 変貌4

 


「……妊娠、してる?」

「ッ?!」

「は……?」


 何の前触れもなく、シスターフィオナの腹部に手を置いたカタリナから吐かれた声に、俺の視界がぐにゃりと曲がる。

 その発言に唆されるように、カタリナの発言の意図を理解するよりも早く、俺の視線はカタリナが指差す先、シスターフィオナの腹部へと移る。

 だがそれも気の迷いと振り払って、俺は猜疑心に包まれたままシスターフィオナの顔へと視線を移す。その言葉が、ただの嘘だと信じたくて。


 しかし、数瞬前までカタリナに笑みを向けていたシスターフィオナの表情は、引き攣った笑みで固まっていて、疑惑に加速が掛かる。


 理解の及ばない俺の頭は、白に染まるばかり。

 頭の中を掻き混ぜられるような感覚。

 震える唇が、自然と言葉を紡いだ。


「わ、悪い冗談は、やめろよな。カタリナ」


 口ではそう言いながら、カタリナが冗談など言わないことを分かっているからこそ、俺の頭は困惑が尽きない。

 半月程度の付き合いでも、カタリナのことを理解できている。どれだけ時間が掛かろうとも、この子のことは理解できないということを理解しているからこそ、却ってその発言に信用が持てる。持ててしまうのだ。


 だがそれと同時に、俺の人生の半分以上を片思いに捧げたシスターフィオナのことも信じている。この想いが、「裏切られた」、という惨めな事実を疑いたくないがために。俺は俺自身の想いを妄信する。

 いや、きっとこの時点で、俺の中の天秤は、カタリナの言葉に傾いていたのだろう。シスターフィオナからカタリナのことを引き剥がそうと動かない辺り、俺はシスターフィオナのことを信じられていなかった。

 だけれども、決定的な証拠が無い以上、どちらのことも疑わなければならなかった。……そもそも、彼女は神に仕える身分。それでなくとも、彼女が誰それと構わず体を許すようなそんな人では無いからこそ、俺はカタリナの言っていることが理解できなかった。


「……? ウェイド兄ちゃん、シスター。何の話──」

「しっ、アキ。黙ってて」

「ふぃ、フィオナ……。……本当、なのか?」

「──ッ!」


 だから、それを確かめるために、俺は問う。

 俺の信じた思いが無駄じゃなかったことを、証明するために。


 胸の鼓動がうるさい。粟立つ肌と、震えが止まらない指先。彼女の一挙手一投足を見逃すまいと凝らした目は、風の流れさえも見えてきそうな程で。

 しかし、彼女は先程から、一言も発さない。

 それがどういう感情なのかは、分からない。

 もしかしたら、俺はただ「嘘だよな」と軽く笑い飛ばしてやればよかったのかもしれない。

 それなのにこうして問いかけたのは、無意識のうちだろうか、彼女の俺が握った手とは逆の手が彼女の腹部へと伸びているのが見えて、自然と問いかけてしまったのだ。


 まるで、大事な物を守るかのように置かれた手。

 気が狂うような衝動が背筋を駆け上がる。

 身を焦がす炎が、焦燥感を煽る。

 それでも息を飲み、努めて冷静でいるように取り繕う。

 もしもシスターフィオナの目が俺を捉えていれば、その目に映るのはきっと酷い顔だっただろう。こんな顔、見せられたものではない。

 だが、それでも良かった。

 嘘でもいいから、今だけは俺を見ていて欲しかった。

 信じさせて欲しかった。

 右往左往していた俺の視線がようやく焦点を取り戻して彼女の顔を見る。

 俺の瞳に移ったのは、玉のような汗を浮かべて表情を強張らせた、シスターフィオナの姿だった。


「……」

「……っ、……ぁ、ぅくっ……」


 無言の態度を前に、呼吸のリズムが狂う。

 舌を噛みきる勢いで、辛うじて言葉を発せたのは、奇跡だろう。


「……お、おめで、とう。シスターフィオナの子なら、きっと……。……きっと、可愛いん、だろうな」

「っ」


 図星。

 そう捉えるしかないシスターフィオナの反応を目の当たりにして、胃からせり上がってくる酸っぱいもの以外の形容しがたい何もかもを飲み込んだ俺の口がようやく吐き出したのは、呪いの如き祝福の言葉だった。


「……」

「っ……」


 二人の間を、夜風が流れる。

 押し潰されかねない無言の空気ごと、流されてしまいたかった。


 ……本当なら、いくらでも問い詰めたかった。

 相手は誰なんだ、待っていると言ってくれたあの言葉は嘘だったのか、と。

 そんな情けなくて惨めったらしい姿こそが俺の本性だが、シスターフィオナを責めることは他でもない、俺自身が許さなかった。

 子を孕んだことは全て、彼女の選択である。

 相手が誰であろうと、結果としてあの言葉が嘘になろうとも、シスターフィオナを責める権利は、俺には無い。

 彼女の選択を疑うことも、好いた女を貶すようなことも、出来るはずがない。

 それこそが、人を愛するということだから。

 結果として俺の願いは叶わなくなるが、彼女が幸せならそれでいい。


 ……それでいいと思い込むことでしか、今の俺は正気を保っていられなかった。

 しかし、心からの祝福を送られたシスターフィオナは、そんな言葉など欲しくないとばかりに酷く顔を歪める。


「シスター、フィオナ?」

「……いえ。私は、こんな──」


 彼女は一体何を言わんとしていたのか。

 蚊の鳴くような声量は俺の耳に届かず、代わりにこの事態を更に悪化させるような声音が、俺たちの間に流れる。


「……もしかして、神父様、との子?」

「──ッ?!」


 人が言葉を失う瞬間を耳にした俺は、全身を貫かれるような衝撃を受ける。

 今、カタリナはなんと言った?

 俺が連れ帰って来た紫の髪の少女は、なんと口走った?



 ──神父様。しんぷさま。シンプサマ。



 聞き間違いでなければ、そう聞こえた。聞き間違いではない事が意味不明であるくらい、俺の頭はその言葉の意味を理解することを拒絶した。

 しかし、昔から隠し事や嘘を吐くのが苦手な無垢なシスターフィオナである。

 カタリナの言葉に対する反応は、俺の頭を蹂躙するには十分過ぎるものだった。


「は──……ええ? は、ははっ……! く、狂ってる、狂ってるよ……なんだよ、それ……」


 百年や二百年も前であれば、神に仕え、神に操を立てる修道女が妊娠したとあらば神の御子だなんだと持て囃されたであろうが、子供が出来るメカニズムが解明された現代では、話が違う。

 男と女がまぐわって、子ができるのだ。

 となれば、妊娠したシスターフィオナもまた誰かとまぐわった結果、子を宿したのだ。

 その相手がまさか神父様であるなど、誰が想定したことか。

 何も言わないシスターフィオナの態度一つで、俺は育ての親と初恋の人……俺にとって欠かせない、大切だと思っていた二人に、揃って裏切られた気分だった。


「……なんだよ、それッ!!」


 一瞬にして、視界が赤に染まる。

 何もかもが、意味が分からない。理解が出来ない。否、理解など、したくもない。


 今この瞬間、意識を飛ばせればどれだけ楽だったか。


 これがただの悪夢であれば、どれだけ良かったか。


 気を狂わせられたら、どれだけ幸せだったか。


 俺はただ、意識も失えず、現実逃避もままならずに生き地獄を味わわされる。


 驚愕と恐怖、その他数え切れないほどの感情を宿して目を見開いたシスターフィオナは、まるで俺の反応を窺うみたいにゆっくりと瞳を動かす。

 その動きに自然と不気味さを覚えた俺は、一歩、二歩と、彼女から距離を取って離れていく。

 それに呼応するかのように、月が雲に隠れる。世界が、暗闇に閉ざされる。


「──待って。ウェイド、待って、下さい」


 荒い呼吸。吐かれる熱い吐息。乱れる鼓動。震える瞳孔。

 全てが動揺を示唆するものであり、それはつまりカタリナの言葉が真実であるということを意味しているかのように、俺の目に映ってしまう。

 縋るように俺の手を取ったシスターフィオナを、俺は最早純粋な目で見ることが出来なくなっていた。


「違う、違うんです。これは……」


 彼女が掴んだ手首に、痛みが走る。


 ──離せ、触れるな、近付くな。


 好きな人に触れられているはずなのに、それを良しとしない状況に俺の頭はおかしくなりそうだった。


「……今日、も。さっきまで、神父様と、いた?」

「っ、もう、やめてッ! お願い……だから……っ!」


 カタリナの声を阻むように金切り声が上がる。

 俺の記憶には無い、シスターフィオナの怒りに染まった顔に、俺は純粋な恐怖を覚える。彼女は、子供に対して怒りを向けるような人ではなかったはずだ。優しく諭し、悪いものは悪い、良いものは良いと教える、神に仕える人だったはずなのに。

 それが、神父様と肉体的にも結ばれた先にある心の変化というものなのか。

 五年前とは決定的に異なるシスターフィオナの姿に、喉が締まる。


 ──誰だ、これは。


 あぁ、呼吸が苦しい。

 末端の震えが激しくなる。


「違うの、ウェイド……っ、お願い、私の話を聞いて……」


 目の前で開示された真実を理解することが追い付かないのは、理解が追い付けば俺の心が折れるからだろう。それを分かっているから、俺は事態を飲み込めないでいる。言わば、防衛本能。最後の砦。……ここが、崖っぷちなのだ。


 心を病んで廃人と化すか、常人のまま気が狂うかの、二択。

 そして、俺の理性は後者を選んだ。

 だから俺は、俺自身を守るために、シスターフィオナを拒絶するのだ。


「……手を、放してくれ……」

「待って、お願い、私の話を──」

「それ以上、ウェイドに触らないでよ!」

「シグ、あなた……!」


 俺とシスターフィオナを繋いでいた手を引き離し、間に割って入ったのは、小さな体。今の今まで存在を忘れていた、シグだった。

 彼女と一緒に現れたアキは、状況を理解できずに慌てふためいている。

 彼は俺とは違い、本当に何が何だか分からない状況らしい。


「ウェイドにそんな悲しい顔、させないでよ! あたしは、ウェイドには笑っていて欲しいのに、なんであなたがそんな顔させるの?! ウェイドのこと、好きなくせに!」

「違うの。違う。お願い、話を聞いて……!」

「さっさと話せばいいじゃない! なのにそうやってウェイドの同情を誘って、縋り付いてばっかで……! その汚い手で……穢れた手で、ウェイドに触らないで! これ以上、ウェイドの優しさにつけ込まないで!」

「ウェイド……。ウェイドお願い。私の話を、聞いてくれるでしょ? お願いだから、私の話を聞いて。全部話すから、だから、どうか」

「もう、話を聞いてどうにかなるような事じゃないの! あなたは、間違えたの! ウェイドじゃなくて、あんなおじさんを選んだ時点でね!」

「選んだ……? 私が……? そんなわけ──……、無いでしょッ! そんなこと、あっていいわけないッ! ねェッ! そうでしょ! あんな、あんな悍ましいことを、私が望んでやったと……本気で思っているの……? ねぇ、ウェイド。あなたは違うでしょ? 違うと、言って……お願い……!」


 シグと、シスターフィオナの言い合い。


 それを俺は、庇い立ってくれた自分よりも小さなシグの背中越しに眺めることしか出来ない。

 目を逸らすことも、耳を塞ぐとも許されず、俺はただ、纏わり付くような嫌悪感に耐え忍ぶばかり。

 本来、俺が守るべき幼くて小さな少女に守られるという矛盾。

 その虚しさ。その惨めさは、俺の全身を内側から苛むように俺と言う器を破壊していく。

 軍人になれたのも、軍人として頑張ってこられたのも、弟や妹たちを守るためだったのに、こうして俺が守られる側にいるということが何よりも俺自身を傷付ける。

 尊厳と言う名の傲慢さを拭い去った時、後に残るのは何か。

 それこそ、シスターフィオナへの恋心だ。……今やそれすらも風前の灯火で。



 ──最早俺には、何も残されていない。



 空っぽになった俺の体に注がれるのは、カタリナという、少女の形をした、毒物で。



「……ウェイド。辛い? 悲しい? 苦しい?」

「……離せ」

「……あの二人は、ウェイドのために、喧嘩してるよ? それって、辛いよね。悲しいよね。苦しいよね?」


 俺の頭を掴んで真正面から顔を覗き込むカタリナ。

 その目は、いつか見た不気味な光を湛えた紫色の宝石そのもので。


「……願って」

「やめてくれ。今、俺に話しかけないでくれ。頭が、どうにかなりそうだ」


 カタリナの放つ輝きは、人の心を惑わす光のよう。俺はその目に、吸い込まれるようにして中止させられる。


「……願ってくれたら、ウェイドを煩わすもの全部、私が消してあげる」


 ああ、もしもそれが叶うのなら、どんなに魅力的な提案か。

 余裕の無い俺の心に、するりと入り込んでくるカタリナの言葉。

 可能ならば、全てから解放されて、全てから逃げてしまいたい。


「……願って。縋って。求めて。諂って」


 それが許されざる願いだとしても、悪魔の誘いだとしても、俺は乗らざるを得ない。

 どれだけ悩んだだろう。

 けれども、カタリナの目から目を離せずにいて。

 俺は自然と、答えを口にしていた。



「……頼む、カタリナ。俺を……助けてくれ」



 もう、限界だった。それくらい疲弊していたし、心が擦り切れていた。

 シスターフィオナのことが全て悪いのではない。心労は日々の積み重ねというくらいだ。たまたまここで限界を迎えただけ。


 ──だから、誰も悪くない。


 そうやって言い訳を重ねて、俺はカタリナに助けを請う。

 藁をも掴むとは正にこのことか。

 身をもって体現した感情に、俺はどこか冷静さを取り戻す。

 そもそも、カタリナの言葉を信じたわけではない。こんな小さな子供に、何ができると言うのか。

 彼女の正体は未だ不明であるが、これまでずっと一緒にいたから分かる。こいつは、ただの健啖家の子供であると。

 だから俺は半ば現実逃避をするようにカタリナに願う。

 試合を捨てるように。負けが込んだ賭けで、自棄になるように。



「……願った? 今、ウェイドが、願って、くれた? 私を、求めた? 縋って、くれた? リリスでもなく、フィオナでもなく、シグでもなく、私に、諂ってくれた? うふっ。うふふっ。うふふふふふふふ!」



 途端、カタリナは不気味に笑いだす。

 目を細め、口を歪め、湧き出る歓喜に全身を震わせて笑い出す。

 初めて見えたカタリナの感情らしい感情。饒舌な口調。

 そんな彼女を祝福するかのように、雲間から月光が彼女にだけ降り注ぐ。俺にはそれが、不気味に見えて仕方がなかった。

 悪戯が成功したというには過剰な喜びようを見せるカタリナは、今度は鼻先が触れてしまえるほどの距離に顔を寄せてくる。


「……ウェイドの願い、叶えてあげる」

「カタリナ……? お前、何、を──ッ!?」


 紫水晶の眼球を妖しく光らせ、恍惚とした表情を見せるカタリナを怪訝に思っていたのも束の間。

 目の前でカタリナの口が、がばっ、と開く。健康的な赤色が、視界一杯に広がった。


「や、やめろ! やめてくれ……! なにを……何を、する……ッ、離、せ──」


 その気味の悪さに俺は堪らず顔を横に振ってカタリナから離れようと試みるが、俺の頭を掴んだカタリナの手が、それら一切の抵抗を許さない。子供の細腕の一体何処にそんな力があるのか。

 かと言って、カタリナの異様すぎる雰囲気に何をされるか分かったものでもない状況でされるがままでいられる程世間知らずでは無くて。しかし、必死で抵抗しようともがけばもがく程にカタリナの力は強まり、そのまま首を捩じ切られるのではないかとさえ錯覚してしまえる。


「あはぁ……っ」


 その力でカタリナが為したことは、俺の右目を抉り出すことだった。

 眼球が空気に触れ、渇いていく。

 艶っぽく吐息を漏らしたカタリナを前に、俺はこの段階に至ってもまだ、カタリナが何をするのか、予測できなかった。そう思った、次の瞬間。

 カタリナの口の隙間から、ちろりと見えた舌の先端。半開きになった彼女の口腔から、その舌がゆっくりと伸ばされ、やがて、伸びた舌先は、俺の眼球に触れる。


「……は?」


 一体誰が、子供に捕まった挙句、眼球を舌で舐められる、などと言う事態を想像つくものか。困惑の果てに、眼球に這わされた舌の感触を覚えると同時に、抵抗を止める。何もかもが、理解が追い付かないからだ。

 考えることを、放棄したからだった。


「……ぁ」


 遠くで鳴り響く耳鳴りのような音に意識が逸れた、次の瞬間。

 べろん、と俺の眼球の表面を舐め取るように這わせた舌が、瞼の下を蹂躙するように這う。

 肉と肉の隙間。その間を剥がすように。眼球を削るように舌が這いずる感覚は、形容しがたい気持ちの悪さ。全身を虫が這いずり回っているかのような悍ましさに、体を跳ねさせるのがやっと。しかし、異常な力で固定されたカタリナの手によって、その気色悪さから逃れることすらできないのが現実で。

 カタリナの舌の動きが分かるからこそ、理解の及ばない行動に恐怖が湧き上がると同時──、ザリザリとした舌が最後、舐め取るように眼球をなぞって離れていく瞬間、右の目に耐え難い激痛が走った。


「──ガッ、ああぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁっぁッ!!」


 カタリナから解放された俺は、右目に走る耐えがたい激痛に苦しみ喘ぎ、地面をのたうち回る。

 それでも、今、カタリナから目を離すのは危険だと判断し、止まらない血の涙を押さえながら、片目だけで現状を把握しようと頭を上げる。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。カタリナ、何を──……ッ?!」

「んあ~。みへみへ」

「ッ?! な、なんだよ、それ……! なんなんだよ、お前……ッ!」


 涙で霞んだ左目は、自分の成果を誇るかのように舌を見せびらかすカタリナの姿を捉えた。


 ……それだけなら良かったが、カタリナが見せびらかす小さな舌の上には、まるでそのまま剥ぎ取ったかのような、眼球の表面があった。事実、そのまま剥ぎ取ったのだろう。虹彩と瞳孔がくり抜かれたように張り付いているのが見え、俺の頭は一瞬にしてパニックに陥る。


「……ちょっと、しょっぱい。けど、おいし」


 見せびらかした後、俺の口がそれをどうするのか、と疑問が口を衝いて出る以前に、カタリナはそれを口に含み咀嚼した後、ごくんと飲み下す。


「……ぁ?」


 最早俺には、何が起こっているのかさっぱり分からなかった。

 理解が及ばない、なんて次元ではない。

 理解してはならない──……、そう、直感が叫んで聞かせてくるが、時すでに遅し。

 俺はもう、この目の前の「化け物」の手を一度、取ってしまったのだから。


「うぇ、ウェイド兄ちゃん、だ、だい、大丈夫……?」


 俺とカタリナのやり取りを見ていたのか、離れていたアキが震えながら、心配そうに声を掛けてくる。怖いだろうに、自分よりも、人の心配が出来る弟の気遣いさえも受け止めることが出来ず、俺はただ、茫然と震えているだけだった。

 耳を澄ませば、シスターフィオナとシグのやり取りも聞こえなくなっているではないか。


 ……より大きな騒動で掻き消す。結果的に上手くいったのなら、それでいいじゃないか。そんな現実逃避の答えばかりが、浮かんでは消えて行く。


「ウェイド……? だ、大丈、ぶ──」

「ッ! 離れて、シグ!」


 どこまでも短絡的。愚かな程に欠如した危機感。

 心配して近寄って来たシグの声と足音に、いつの間にか痛みが引いた右目を開いた、その瞬間。

 夜の世界に閃光が奔った。


「え? シスター、フィオナ……?」


 その眩しさに目を眩ませ、何が起こったのか目を開く。

 だがそこには、シスターフィオナの姿があり、俺は目を瞬かせた。

 誰よりも早く違和感に気づいたシスターフィオナの手によって、俺は地面へと押し倒されていたのだ。


 ……否。驚いているのは、その事実では、ない。

 俺に覆いかぶさるようにして乗ったシスターフィオナの身体が、軋むような音を立てて変化していっていることに俺は驚愕し、困惑し、愕然し、茫然としていた。


「ウェイド、ごめんなさい……あなたを、裏切るつもりなんか、なかったんです……。裏切りたくなんて、なかった……」

「──……」


 懺悔の声。

 何が起こっているかなんて理解できていないが、理解する必要もない。

 彼女の体を支える四肢が石に変わる。その浸食は緩やかながら、確実に生命を脅かすもので。やがて浸食は胴体へと広がっていき、懺悔の言葉全てを聞き届ける間もなく、みるみるうちに変質していくシスターフィオナの体。地面落ちたストールだけが石化を免れただけで、身に付けた修道服まで一緒に紫水晶へと変わりゆく。


 懺悔のように吐かれた言葉と、頬を伝う落涙。

 驚き固まったままの俺にはそのどれもが夢の一幕のように感じられて、現実味がない。

 シスターフィオナは、まるで最後の気力を尽くすかのようにして、手首から変質し始めた手を俺の頬に添える。しかし、頬に触れることなく、彼女の手は爪の先まで石に変化してしまい、彼女の目に未練だけが灯った。


 見上げる俺の目には、遂に胸まで固まっていくシスターフィオナの姿が映る。それが最後だなんて、想像だにしていなくて。



「ああ……神父様──」






補完と言う名の、言語解説。


【現代医学】


アーティファクトの発掘に際して、様々な研究書類や当時の見識が記された手記なども発掘されていた。

それらは長い年月によって風化して解読すら困難なものがいくつもあったものの、現代の常識を遥かに凌ぐ情報量は、アーティファクトよりも重要視されるべきだという声も上がるほど。

その中でも医療書のようなものは特に重宝され、第二代皇帝時代には医療書の解読、及びそれに伴う国内の学力向上を図る政策も打ち出され、医療に関する技術が飛躍的に向上した。

今では過去の繁栄を示す様々な医療書が解読されて一般的にも普及するようになっており、帝国の医療は近隣の国では不治と呼ばれていた病を治すことができるほどに高い知識と技術を保有している。帝国の属領の中には、流行り病で全滅しかけた国もあり、それを帝国が救済したことで喜んで軍門に下った国もあるほど。

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