義と情の日本人 - 何故我々は折り鶴を送ってしまうのか
大規模災害が起こった際にどう行動するかは、中々難しい物があります。
何故なら災害とは非常事態であり、日常的に取る行動が物理的にできなくなったり不正解となるからです。
その不正解の一つとして、未災者(被災者の対義語として定められた、被災していない人の呼び方)の行動が話題となることが、近年多くなりました。
3.11で明らかになった問題の一つが、日本全国から届けられる折り鶴や寄せ書きが現地の負担になるというものです。折り鶴がゴミ袋に詰められ倉庫に山のように積まれた写真や、焚き付けの材としてのみ役に立った話は、皮肉と徒労感を伴って紹介されます。
折り鶴以外にも、個人が車に物資を乗せて被災地に向かうことも、経済を停滞させる過度な自粛ムードや、SNSで誤情報が拡散されるのも深刻な問題として話題になります。
近年の度重なる災害により、このように支援の形が問われるようになったのです。
被災地では求められるものが刻一刻と変わっていくので、一番役立つものとしてお金、次におむつや生理用品が挙げられていて、ボランティアは求められるようになってからといった情報を沢山目にするようになりました。
ここで一つ疑問に思うのは、では何故日本人は折り鶴や仕分けや取扱が難しい物品などの、被災地の負担となる物を送ってしまうのかということです。
実害のある悪意ある愉快犯が巻き起こす混乱は別にしても、折り鶴を送る人は善意でやっていることでしょう。ただ、少し想像すれば役に立たないだろうと分かるはずです。
何故我々日本人は、被災地に折り鶴を送ってしまうのでしょうか。
・社会的規範の形成
・情を送るという規範
・未災者の共助
---
・社会的規範の形成
これには二つの理由が考えられます。
まず一つは、社会的規範に則った行動を積極的に取ろうとする日本人の性質です。道徳だとかマナー、常識と呼ばれます。
列にしっかり並ぶ、公共の場で騒がない、ごみを拾うといった行動が海外から賞賛される話をよく耳にしますが、これらの行動はこの性質によるものだと考えられます。
某知恵袋やSNSで、"これって私がおかしいのでしょうか"というような投稿がなされるのも、特定の状況下に置かれたときの自分の行動や感情が、社会的規範に照らし合わせて正解かどうかを知りたい、そして正当性や安心感を得たいからでしょう。
また社会的規範を形成するためにも他者にも同じように規範に則った行動を要求し、一方でその要求に応えなければ村八分にされてしまうので、自衛策として他者の行動に同調します。日本人が殊更この特性が強いのは、歴史や地理、産業などの要因も関係しているのでしょう。
場の空気を読む、人目を気にする、ブラック企業で労働し続ける、同調圧力など、この特性で説明がつくものは、良い事も悪い事も含めて沢山あるように思えます。
社会的規範は集団や環境によって変化します。
家庭、友人グループ、学校会社、果ては国や地域など、様々な規模それぞれの状況で規範とされる行動は違います。
理論や理屈によっては形成されず、多くの場合まず感情が優先され、次に経験による修正が行われていきます。社会的規範が形成されるには、時間が掛かるのです。
少し前に、自分が損をしてでも相手を出し抜く"スパイト行動"をアメリカ人に比べて日本人は積極的に取る傾向にあるという、行動経済学の実験結果が話題になりました。
この実験は、二人のゲーム参加者は公共事業に出資するかどうか選べ、公共事業からは利益を受け取れるというもので、日本人の参加者は出資する人の割合が低かった(自分も他者も利益を得られないようにした)のです。
その実験データを見てみると、実験が進むうちに日本人はアメリカ人よりも効率的な行動をとろうとしたことが読み取れます。
この研究を受けて"日本人は意地悪な民族だ"とする記事が沢山出回りましたが、"感情に沿った行動をとっていたが、経験によって社会規範が形成され、積極的に出資するようになった"と見ることもできるでしょう。
社会的規範の形成には時間、経験が必要だと考えるのはこのためです。
いくら日本は大規模災害が頻発するといっても、まだまだレアケースです。
"災害時の未災者"のための社会的な規範はまだ形成されていないと考えられます。社会規範が形成されていないために、それぞれの環境での規範を流用したり、感情に沿った行動をそれぞれが取ります。
その結果、非日常に身を置く被災者の需要と日常に身を置く未災者の行動に、ギャップが起きてしまうのでしょう。
・義と情
二つ目の理由は、日本人の義を重んじて情を送る習慣です。
何故送るのが折り鶴なのでしょうか。
これは、学校でクラスメイトが入院したときに寄せ書きや千羽鶴を送る、あのイベントと同様の物だと考えると納得がいきます。
クラスメイトが入院したとき、現代日本では物やお金で支援することはありません。それらは家庭の問題であって、級友の関係では金銭的な支援をする立場にない(義理がない)からです。治療のための技術や労力も、個人と国が病院にお金を支払って賄います。
仮に他者が金銭的な支援をするなら、募金活動をクッションとしてかませて、社会や集団としてするのが一般的でしょう。
現代日本では"他所は他所"が基本のスタンスであり、個人の領域には介入してはならないとされています。そしてそれを保つために一定の範囲は自助努力、自助自立が求められるのです。
こういう状況から、クラスメイト(他所の家)には金品を送ることができないので、情を形にしたものとして、折り鶴や寄せ書きが重宝されることになったと考えられます。
物ではなく情を送るのであれば、不介入のルール(義)に抵触しないからです。
折り鶴も、ボランティアの無償奉仕も、個人の範囲でできる物資輸送も、自らの義と情を行動や形にしたものです。
入院したクラスメイトに折り鶴と送るのと同じです。
ここで金品を送ってしまうと、成金や人気取りといった印象を周囲から持たれてしまいます。
災害時に企業やインフルエンサーが慈善活動をすると売名や偽善と非難されるのはこういうことです。
この情を送る行為自体を、情操教育として家庭や学校では行います。
大変な目にあっている人を気に掛け、助けるのは人間として必要な行為ですから当たり前のことです。ただ、相手の状況によってその形は様々であることまでは、その内容に含まれていません。
互いに普遍的な状態にあれば社会生活を円滑に送るために非常に役立ちますが、少しでも齟齬が生じると、有難迷惑や善意の押し付けとなってしまいます。
それが死活問題となるのが被災地という場所です。
逆に日常的な生活において成金や売名などと悪い評価を受ける行動も、被災地では大きな救いとなるケースを見ると、価値観の逆転が起こるとも言えます。つまり、善行が悪行となり、偽善が善行になる可能性が大いにあるのです。
未災地が取る日常における社会的規範を被災地に持って行ってしまうのが、折り鶴が被災地に届いてしまう原因なのでしょう。
・未災者の共助
消防庁によれば、防災の区分けとして自助、共助、公助があるとされています。
自助は自分や家族の安全を確保すること、共助は地域やコミュニティで助け合うこと、公助は公的機関によるものです。
日ごろから避難所や帰宅ルートの確認や数日間過ごせる物資の備えが重要だとされ、テレビやSNSでもよく何をどれくらい準備しておくとよいというような情報を目にします。
避難する時も、静かに慌てず速やかに安全とされている場所まで移動することが、訓練によって意識づけられています。
これは自助の範囲で、自分が被災したときに、怪我や病気にならないよう独力でなんとかするための備えで、社会的にはそれぞれで準備することが要求されています。
これまでの数々の災害によって、自助マニュアルは充実していますし、社会的規範も形成されています。
公助は個人ではどうしようもないとしても、共助では暴動を起こさない、略奪をしない、辛い状況に耐える、お互いに助け合うことが社会的規範として形成されています。
しかしこれは、被災者、被災地の規範です。
日本国民は日本という地域コミュニティに属しているとして考えると、折り鶴の問題は共助としての社会的規範が整備されていないが故に起こった問題だと考えることができます。
3.11の時、未災者の善意が引き起こした問題は、一ジャンルとして語られ、沢山のケースが紹介されました。
しかしそれが知識やマニュアルとして整備されていませんでしたし、私個人としても情報として積極的に取得していなかったのを今回の震災で感じました。
とにかく絶対確実に役立つものはお金だと言います。
被災地に自己判断で善意を押し付けるのはもちろん、自粛ムードで経済が弱ったり、SNSで誤情報を拡散して混乱させるのも、"規範に沿わない行為"として認知していくべきでしょう。
自助としての備えはもちろんですが、未災者の共助として適切な行動は何かというのも、防災の一環として同時に考えていく必要があります。
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
信用できる機関が行っている募金に参加しましょう。