第一章07 血汐は噴かない
森の一本道の終着点。
その境界線を挟んで奥に行けば危険な危険な大蛇が住んでいる。ヘキサアナンタと名を冠するそいつは過去に幾多もの人間を屠ってきたらしいが、いま、グランとブリアナら三人との間に確たる結束ができた。
今から一ヶ月後、それは執行される。
六つの頭を待つヘキサアナンタを討つ戦いが。
どうやらこの一ヶ月という期間は、主にグランが討伐の為に身体を調整するのにあてがわれた時間であるのと同時、皆がはやる気持ちを抑えることのできる最大限の猶予でもあるらしい。
「前に戦った感想としては、蛇畜生は手も足も出せない相手じゃない。俺の槍で貫けるし、魔法も効く」
「ただ、破壊力は凄まじいね。同時おいらに忍耐力が無かったことも一因だけど、盾を構えても受け止めるなんて不可能極まりなかったもんね」
「ああ。巨体な上に俺らは小さい。軽く首を振るだけで簡単に薙ぎ飛ばされる」
「それ聞いて戦おうなんて思えねえぞ」
軽い感じで敵の脅威たる理由を挙げられて思わず項垂れる。実際それで過去に仲間を失っている訳で、信用できる情報だからこそより辛い。
「だあーーー。普通に頭が六つあるなんて反則だろ」
「反則であるが故にヘキサアナンタが生態系のトップに君臨していると言える。レパルガなんぞ塵も塵だ」
「ちょっとさっきの攻撃が通るって話以外にいい話聞いてないんだけど他にないのかな!?」
「ないな」
「即答! 容赦のない即答で刺してきやがる! ああ、でもわかってるよ。妥協したら死ぬって言いたいんだろ」
これくらい強くなればいいか、なんて考えは特にこの世界では特に危険だ。容赦の少ないゲミューゼの言葉もブリアナが言うように優しさが故なのだろう。
言ったら槍で刺してきそうだが。
「いまレパルガの話が出たけどさ」
彼らは既に大きな神秘的水溜まりを後にして三十分ほど歩いている。おそらく来た道を半分くらいは戻ったはずだ。
グランは脱力気味のまま話題をずらす。
「そろそろボロボロんなってるとこに戻ってくる頃だろうけど、また襲ってくると思うか?」
「うん、襲ってくるね。最初の戦闘から一時間は既に経ってるし、湧くには十分な時間だね」
「おっけい。戻りの道じゃまだ魔物が湧いてなくて楽だったけど、なるほど。ここまで時間が経つと再戦は避けられない……か」
異界に来てからというものの、戦って情報を得て戦って情報をもらって……という流れを繰り返している。
休む暇もない。
まだ二日目にして、既にこれからの日々の多忙性が輪郭を露わにしていると感じる。
「さて、事前に危機察知ができない分、もう警戒を始めないとだな」
「危機察知ね。道中で言ってた敵意を肌に感じる体質ってやつか? レパルガはその敵意殺意を隠せる恐ろしい獣って話だったが」
「どっちもどっちだな」
「なにが?」
思わず反射で聞き返してしまった。ゲミューゼとの会話に突然ブリアナの発言が割って入ったのだ。
「考えてもみろって、殺意わかる奴も攻撃する気満々なのに隠せる奴もヤバいだろ?」
「褒められてんのか何なのか分かんない評価だな」
「もちほん褒めてるよ。だって敵の方向も分かるってんだろ? その性質があればいざと言うときに役に立つじゃん」
「言葉じゃなんとでも言えるよね」
「んだとこらシンダーズこら」
ぐわんぐわんとシンダーズの頭を鷲掴みにして縦に揺さぶるブリアナ。両腕に抱えられた盾が擦れてガランガランと音を響かせる。
されるがままに彼女の反撃を受け入れる様を見て、しかし、ゲミューゼは眉をひそめていた。
「どうしたんだ」
「おかしいと思わないのか」
「そう言われてもな。昨日の今日じゃ二人の絡み見たところで何も思うところなんかないよ。俺だってそんな観察眼に長けてたりしないって」
「なんだあグラン、嫉妬か! 安心しなよ、あたしらにそんな華々しい関係性なんてないからさ!」
「「そうじゃない」」
グランとゲミューゼは同時に否定する。
しかし両者の否定の意味が違うものを指すのだとすぐに分からされた。ゲミューゼは目線の先にあるものを指差して続ける。
「なにも二人の関係性の話をしているんじゃない、盾がぶつかり合って鳴っているだろ。元いた世界で言うところの、獣避けの鈴みたいに」
「言いたいことはわかったね」
ブリアナの腕を跳ね除けて姿勢を正すと、思いっきり両腕の盾を打ち鳴らした。重厚な金属の響きが暗闇の森に何度もこだまする。
「魔物ってのは再湧きする前の記憶を持ってないから、通りがかった人間が強いかどうかなんて知らないね。だから音が鳴れば絶対に顔を出すんだね」
「そう、獣避けの鈴を鳴らしたところで魔獣はいなくならない。むしろ魔獣は引き寄せられる」
要するに、襲われていないこの状況がおかしいと。
レパルガが不在であることの確かな証拠であり、理由は分からない。
だが、しかし。
「——ッ!」
グランは自身の肌に突き刺すような感覚を覚えた。これが何と呼ばれる現象なのか、自身が一番知っている。
右手側に一つ……いや遅れてもう一つ、敵意あり。
「構えろ、何かいる」
グランの頭ほど石垣の段差に挟まれた道だ。数は少なくても、敵によっては断然自分たちより有利に戦いを運べる。
いや、これは————
「真上だ! 頭上から来るぞ!」
グランの叫びに呼応して皆の顔が上を向く。
森の闇に紛れ込むように黒い体躯だった。
眼光が紅に煌めき、キリキリと歯軋りでもするような不快音が敵の位置を捉えるサインとなっていたのが救いだったと言えよう。
「どわあ!」
「よく受け止めたシンダーズ、すぐ貫いてくれる!」
そう言葉を吐いて撃った一閃は空を裂いた。しかしそれだけだ。ゲミューゼの頭上を飛び越えるようにしていとも容易く避けられた。
「チィッ、くそ猿め」
悪態をつきながら速やかに構えを取り直す。
奇襲を防ぎ、両者が隙を伺うことで初めて敵の様相が明らかになった。変わらずキリキリ、キチキチ不快な音を口から鳴らしている魔物は猿の形をしたいた。
「なんなんだこいつ」
「俺らも初めて見るが……恐らくこいつがタロットとかいう危険生物だろうな。尻尾の刃はそこらの防具程度なら簡単に切り裂いてくるし、加えて毒のおまけ付きらしい」
「ひええ、これがタロットね。この真っ赤な目すっごく怖いんだよね。ホラーすぎやしないかね!」
話してる間にも黒い猿はじりじり距離を詰めてくる。ゲミューゼの槍を簡単に躱すくらいだ、先に動かれたら反応しきれない可能性が高い。
説明された通り尻尾には刃渡り二十センチ程の刃が生えていて、両手にも鋭利な鉤爪が伸びている。しかも鉤爪の方はノコギリのようになっていて、骨だろうと強引に引き裂くこともできそうだ。
「まさかレパルガが出てこないのはこいつが仕留めたから、とか?」
「ありえるね。さっき話した、あたしらより前にこの世界に来た先輩らの話によれば『一匹だろうと油断したら死ぬ』だそうだ。本来この森に住んでないはずのタロットが何故ここにいるのかはさて置き……どうするよ」
「とりあえず下がれ。この距離から飛びかかられたら抵抗するまでもなく肉を裂かれるぞ」
背中を見せずに、かつ即座に後ずさりする。だが、当然その分間合いを詰められる膠着状態だ。
こちらから攻めるしかないとグランは考える。
それは他も同じ意見だったようで、互いに一瞬だけ目が合う。
しかし、
「グラン!」
「しまっ——」
皆の視線から外れるその一瞬の間を的確に突いて、先に動いたのはタロットの方だった。
猿魔獣は武器や盾を何も持っていない、つまり最も守りの薄いグランを狙いに定め鉤爪を振りかざす。
ガキン! という高い音が響いた。
決してそれはグランの身体から血が噴いた音でも肉が断たれた音でもない。
ブリアナの咄嗟に伸ばした棍棒が鉤爪とぶつかり、そのまましがみつかれたのだ。
「っぶねえ、このまま叩きつけてやらぁ!」
ともかく敵を動かしてはいけないと、トゲトゲの棍棒を石垣の段差に向かって打ちつける。
だがそれすらも、木の枝をすばやく移動する要領で石垣と反対側、つまりブリアナの腕の方に矮躯を持って来て棍棒と石垣に潰されることを防がれた。
むしろ、
「目と鼻の先、武器にしがみ付かれてちゃあどうにもできないって!」
「『オリヘプタ』」
「え待ってそれ撃ち込まれたらあたしも巻き添えッ!?」
構わずグランは七つの青い光球を猿とその周囲、逃げ道をできるだけ減らすようにしてぶっ放す。
実を言うと、ブリアナが棍棒を振る寸前から既に魔法は用意してあった。
彼女を信用していなかったのではない。タロットの身のこなしをある意味で信用していた。
(どうせ澄ました顔して強靭な爪と尾を振り回すんだろうと思ったよ)
「ギギェ!?」
退路を塞いだ光球の一つが直撃した。
爆風が慌てるブリアナを後方へ滑らし、残りの六つの弾は軌道を修正してタロットのいた爆煙の中へ追い討ちをかける。その内の二つは途中で木に着弾してしまったが、計五つ直撃するだけでも十分な威力となるはずだ。
「みんな、早くおいらの後ろに来るね!」
「ブリアナ!」
「ああもう、わあってるよ!」
これでも油断しない、できないのが異界の戦闘だと仲間が行動で語る。
静電気が走る感覚、敵は生きていると直感する。
直後、
「ギギギキキキギキ!」
「やっぱ来たね! 目といいこの音といい、何から何まで怖いね!」
ガコン! と鋭利な爪と盾が弾き合う。
衝撃は大きくないが、この速さで引っ掻かれようものなら痛いどころじゃ済まない。そういう恐怖も心に絡みついてくるのだ。
汗が額から頬を伝って流れる。
シンダーズは引き攣るようにして笑みを浮かべた。何かを呟いたが、それが何を言いたかったのか、それは彼自身が知っていればよかった。
「おいらが護ることしかできないなんて、思わないことだね」
両腕に構えられた大きな盾が白く発光する。
反撃の合図だ。
「てやぁ!!」
閉じた腕を外側に開くようにしてタロットを弾く。
「『アボイダブル』!」
弾かれて宙に浮いたその一瞬を、シンダーズは大きな図体に似合わない怪奇的な速さで詰める、詰める。
その正体は俊敏性上昇の魔法効果によるものだった。
「なるほど、だからレパルガと戦ってるときも急に素早い動きをしてたんだ」
「おうよ、シンダーズは強えんだぜ」
「どおりゃああああっ!」
とても重い音だった。
開いた腕を今度は閉じて、改めて白く発光させた盾で思いっきり黒い矮躯を挟み潰したのだ。頑丈な爪で抵抗しているようだが、腕力はシンダーズが上だ。
「さあ、今だね!」
後方に控えるグランらの方へ振り返り、腕を少しだけ前に突き出す。
グランが魔法を誦じ、ゲミューゼが槍を構えたところで最も早く前に踏み出したのは、まばらに棘のある棍棒片手に猛進する紺青短髪の女。上から下に、全力で叩き潰さんと振りかぶる。
「上だ! 上からもう1匹! 来るッ!」
「———は」
ブリアナに頭上を見上げるだけの暇はなかった。今はただ、目の前の一匹をこの棍棒で肉塊に変えてやることが最善だと疑わなかったからだ。
「『五月雨』!」
「『オリヘプタ』!」
無数に分裂したように見える槍が、複数の青い光球が、代わりに頭上から降ってくる影を狙う。闇の中でも赤い目は光を帯びる。闇に溶ける毛の色をしていても、それは恰好の的でしかない。
不意の乱入だったものの、既に臨戦状態であったことが味方した。
棍棒とその棘が骨ごと肉を押し潰し、槍と魔法が肉を断つ。
二匹目の方は完全に息の根を止めるに至らなかったが、まず片方は確実に仕留められたと言っていい。誰も怪我なく戦いを運ぶことができたのはシンダーズの功績が大きいだろう。
ところで。
そんな護り手とグラン達に挟まれる形で手負のタロットがいるのはいいとして。
グラン、ブリアナ、ゲミューゼが視界の奥に見ている、森の奥で光る二つの赤いものは何であろうか。
「まだ、いる」
グランはその存在を感じなかった。
そもそも、敵意や殺意を感じるには当然だがグランに対して向けられている必要がある。今まで敵襲を感知できたのは、魔獣がその場にいる皆を敵として認識していたからだろう。
ならば、
「今そこにいる『三匹目』は、特定の個人を狙ってる?」
ならば、
「この状況で奴にとって格好の的なのは」
時間にして三秒、三人の思考が一致した。
このたった数秒の間に互いの距離は接近していて、
「「「シンダーズ、後ろだあああああああ!!」」」
「なんだってええええ」
今から魔法を唱えても、棍棒を振るっても、槍を突き出しても、或いはシンダーズを突き飛ばすのも、相手の猿のスピードには叶わない。それどころか傷を負った方が行く手を塞いでいる。
自分を護れるのは自分しかいなかった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
俊敏性バブを生かして瞬間的に振り向き、構える。
ギギギガガガガガガリッ! と威嚇音ではなく鉤爪と盾が火花を散らしながら金属音が鳴り響く。間一髪の防衛だった。
不快音に顔を歪める一向だが、それが脅威の終わりでないことを痛感する羽目になる。
「キキキキキ」
「なんかすごい笑って煽られてるように感じるんだよね!」
「すぐこいつを倒して加勢する! 『オリヘプタ』!」
「こんなレパルガも凌ぐ強い猿が何匹もいるんじゃ、あたらしらの実力も発展途上を思い知らされらあ!」
「言ってる場合か! こいつ手負のくせに隙を見せない、シンダーズの助けに入らせてくれない」
だが、三対一の構図の上で全てを賄いきれるほど敵の魔物も万能ではない。あまつさえ背後の男に加勢させないよう注意を払っているのだから尚更のこと劣勢と見える。
ブリアナが棍棒で攻撃を受け、グランの魔法で次の動きを牽制し、そこに刺突が閃く。
「突破した! 行ける!」
その瞬間、
「盾が、突き破られ——」
シンダーズの盾は魔獣タロットの尾の刃を受け止めようとして、しかし拮抗するかと思われた攻防は傾いていた。
最初から情報はあった。
尻尾の刃はそこらの防具なら切り裂くし、毒も含まれていると。
盾をガリガリ強引に貫いた音だけがあった。シンダーズに届かなかった訳ではない。
血汐は噴かず、さらりと肌を滴るように右腕から流れ出た。決して斬撃が浅かった訳ではない。
次第に流れる赤い液体すらも少なくなっていく。浅くない傷が瞬く間に塞がることはない。
ただ、
「シンダーズが毒を受けた! 奴の毒は負傷部付近の血液を固まる作用を持ってる、もたもたしてると死ぬぞ!」
「ゲミューゼ、いや他の誰でもいいが解毒魔法は使えないのか!?」
ブリアナの叫びを聞いてすぐ、グランが解毒を催促する。いま最も可能性があるのは、回復魔法を扱うゲミューゼだ。
「すまぬ、俺が使えるのは日常で十分役に立つ回復魔法だけで、毒なんてものとは無縁だったのだ」
「くそ、ならどうする!」
「とりあえずここは退くしかない。シンダーズ、俺らにも『アボイダブル』をかけろ」
急ぎタロットを引き剥がして距離を取ると、シンダーズは青黒くなりつつある腕を押さえながら俊敏性上昇の魔法をかける。
しかしグランに対して躊躇するように視線を送る。
「『肉体強化』みたいなバフならまだしも、速く動けるっていうのは慣れが必要なんだよね。こういうバフに慣れていないと、下手したら転倒して逆に危険になるかも知らないね」
「『五月雨』! だが、一人置いて逃げると言うのも」
「いや、今は少しでも被害の拡大を減らすべきだ。『オリベルグ』。そういう理由があるなら俺を置いて行け!」
ひとまず魔法で大地の剣山を隆起させ分断した。だからと言って相手は猿だ、すぐに軽い身のこなしで越えて来るに違いない。
三人はまだ逡巡している。また仲間を失くすかも、という過去からのトラウマのようなものが尾を引いているのだろうか。
しかし、
「さあ、行くんだ。俺もすぐに逃げる、絶対だ!」
躊躇せず、グランは彼らの背中を押した。前のめりになってしまえばもう、その俊敏さでは簡単に止まれない。走るしかない。
「くそったれ、昨日この世界に放り込まれたばかりだってのに無茶しやがって」
「ええい、小言は後で沢山言ってやるが、とにかく走るぞ! シンダーズもまだ行けるな」
「おうよ、だね」
足音と吐息が遠ざかっていくのを背で感じながら、考える。
(さて、どうやって切り抜けたもんか)
針山の陰から赤い瞳が覗いた。相変わらずキリキリ鳴らしながら上からグランを見下ろしている。
四人で戦っても危険な相手だったなら、いまグランが一人で戦っても有利なのは猿の方だ。簡単にグランの肉など切断できる武器を持つ上にすばしっこい。
(目眩しでもして隙を作る、しかないか)
「キキキ!」
「ケケケキキ!」
「キリキリリ」
音が重なった。
耳を疑うのも当然のことだろう。相手は一匹だったのだから、複数の音が同時に聞こえるのはおかしい。
嫌に心臓が跳ね上がる。呼吸は微かに乱れた。
「ああー、ほんっと。今まで妙に余裕ぶってたけど、やべえ、怖え」
グラナード・スマクラフティーは十八歳の、まだまだ子供だ。
確かに山賊に囲まれても十分に対処できるだけの力もある。でも、ヒトを簡単に殺せてしまう魔物なんて無縁の生活だったし、実際レパルガには胸を削られた。
簡単に魔法で対処できる、なんて次元ではない。
そう簡単に恐怖を拭えるはずはない。ただ、今までは目まぐるしく変化する環境にそういう感情が抑制されていただけにすぎない。
「ケリケリケリ」
「キキキケキケ!」
「キキキ!」
「どうなってんだよ、これ」
魔法で生み出された岩の剣山に登った黒い猿。
ただし、
「ひい、ふう、みい…………軽く十はいる」
加えて左右の石垣にも複数の影が伸びている。大群だった。
命の危機をひしひしと。
そもそもから奇妙だったのかも知れない、とグランは考える。
(レパルガの群れを排除できるだけの格の違いはあった。相手にしたのが三匹だけなのに、だ。それなのに無傷で二匹倒せたし、今更になってこんなに大量……)
都合が良すぎる。
あえて逃したとでも言うような、逆にそうとしか考えられないタイミングでの出現だ。
(凶暴なだけなのが魔物じゃないってことなのか)
そして、何よりもいま、グランを困惑の渦中に放り込んでいるのが敵意の不在だった。どこから来てどこに隠れていたのか知らないが、新しく現れた大群には全く凶暴さを感じない。
(多分だけど、こいつらは自由に敵意を消したりできない。できるなら最初からしてる。わざわざ剥き出しで襲う意味がない)
だから、
「なんだ、何が目的なんだ」
魔獣から答えが返ることはないが、それでも聞いてしまう。
「なんで俺の前に姿を晒して、なのに襲ってこない。怖えよ、どっかいけよ」
暗い森に光る無数の赤いもの、それは狂気のプラネタリウムとなって神経を逆撫でする。鳴り止まない不快な音は精神を細かく微塵切りにしていく。
徐々に追い詰められる。
深く息を吐くことで恐怖を打ち消そうとするも、長く保つとは思えなかった。いよいよ無理だ、背を向けたいと強く願ったとき、一匹が背を向けた。
「は」
それを合図として、タロットと名付けられた狂気が踵を返す、消えていく。仕事を終えた役者のような迅速な撤退は、本当に何かの演目であったならそれだけで一つの芸術になったかも分からない。
(罠の可能性は)
全ての猿が視界から消えてからも一分間、グランは身構え続けた。
ところが耳を傾けても嫌な声すら聞こえない。虚空へ消えたみたいにして、脅威は拍子抜けするほど簡単に去っていったのだ。
「はっふ」
隆起させた剣山を解除する。
脱力して地にへたり込みそうになったが、すんでのところで我慢した。やらなきゃならないことはまだ終わってない。
「シンダーズ。今まさに死に近づいてる仲間がいる。戻らなきゃ、拠点に」
グランはゆっくりだが走り出す。
走れば数分の距離だが、緊張も相まって道はとても長く感じた。