第一章05 異界に生きる者
仲間となった角刈りの男——ゲミューゼがこの世界の醜悪なる部分を教えるとグランに言った翌日。紅髪を清流のごとく靡かせ見送るルーシャを背に、一行は拠点の門を出て周囲を囲む森の南方へと出発した。
激動の一日を体験し、なかなか寝付けないのではといったグランの予想とは裏腹に、昨日は石のベッドの上ですぐ眠りに落ちていた。
「それにしても……」
まず、グランは森の中の様相を確認して驚く。
夜の森というのは言うまでもなく暗黒そのもので、鬱蒼とした深い森であればあるほど月明かりも葉に遮断される。そんな中で取り残されようものなら目指すべき方角もわからず遭難という形になるだろう。
しかし、
「こんな暗い世界だってのに、森の中でもある程度先まで視えちまう。光源なんてどこにもないはずなのに」
森の外でも、光が何処から来ているのかわからないのに視界は意外と明瞭だった。無論さっきまでと比較すれば影も一層の濃さを増しているも、ここまで視界を確保できるのは幸いと言えよう。
まさかとは思っていたが、この現象は場所を選ばないらしい。
「そうだよね。おいらたちも最初は驚いてたけど、もう慣れちゃってるから何も思わないね」
「だな、俺もすぐそうなる自信あるし」
「——会話するのはいいが、ここは既に魔境の一部ってことを忘れんなよ」
まばらに棘の生えた棍棒を肩に担ぎながら、ブリアナの忠告がグランらの会話に割り込んだ。
叱責でも警告でもない。がしかし、確かにそれは各人の心に響き緊張を高めるだけの効力を持っていた。
「魔境、か。そう言われちゃ気も引き締まる」
「言われるまで引き締まっていないのだとしたら、それは呆けもいいところ。俺の槍やアッシュの盾があれどお前を護るには限度がある」
「それは知っての上だ。自分の身は自分でどうにかできなくちゃこの先やってけないんだろ?」
「それができるなら文句はない」
「おうよ」
ゲミューゼの言葉は語気が少しばかり強い、あるいは厳しさが含まれているとグランは感じる。アル・ツァーイ村の人々はこぞってスマクラフティー兄妹を甘やかしていたので慣れない気分だ。
「皆が生きたまま帰ることを大事にしてる優しい奴なんだ。圧を感じるかもだが、わかってやってくれ」
「全然、俺は大丈夫」
「む……やはり俺は圧が強いのか?」
「うん」
「むむむ」
素直に肯定してしまったが、案外ゲミューゼ本人は気にしていることなのだろうか。手を顎に当てて眉をひそめる姿を見ると申し訳なくも思ってくる。
(けど、それはそれとして)
この森を「魔境の一部」と形容したブリアナの発言に思考を巡らす。
(そんなにやべえ感じを醸し出しておきながら未だに何にも襲われてない。それどころか獲物を狙う敵意や殺意すらも感じない)
グランが公表していない特徴的な感覚のひとつとして、敵意などを突き刺す線として認識できるというものがある。果たしてどう習得したのかさえも分からない、只人にはなし得ようもない技術だが、これがとても役に立つ。
「なあ、俺たちこうして喋ってるが、どうして魔物の一匹も姿を見せないんだ?」
「そろそろだね、ブリアナ」
「ああ」
「なにがそろそろだって? 俺の疑問に」
答えてくれよ、と言葉が続くのを遮るようにシンダーズが「シッ」と口に人差し指をやる。
何かが来ることを察知してのことだろうが、依然グランはその肌に狙われている信号を感じとっていない。
「困惑しているようだね。けど、これから醜悪の一端が訪れるから、神経を尖らせることだね」
「訪れる?」
言われて周囲を観察したとき、気付く。
これまで歩いてきた道は過去に整備されていたのであろう。平らな石が敷き詰められた痕跡が残っており、そのおかげで苦労せず歩いて来れた。
また、道の左右にはグランの胸の高さ程の段差があり、石を敷き詰めて崩れないように舗装されている。
「けど、ここ一帯は特にボロボロだ。何か争ったような、力で破壊されたような粉砕痕もある」
石も剥がれて土の凹凸も見えているし、段差も大きく抉れている。これを風化なんて言葉では語ることはできないだろう。
ふと、戦いの臭いがした。
瞬間、殺意が皮一枚を撫でた。
「来た!」
「まずはおいらに任せるね!」
黒い影が木々を縫って真っ直ぐ飛び出す。それに対しシンダーズは片腕の盾を突き出すことで大きな衝撃を与える。
その衝撃音は重なって聞こえた————否。
「うそだ」
グランが瞠目した理由は現れたそれが醜悪を極めた異形の姿だったから、などでは決してない。影の正体は凶暴な獣だった。豹や虎を思い描いてもらえればそれでよい。
「背後を取られないよう注意しろ、グラン!」
ゲミューゼの警告が暗い森を駆ける。
それもそうだ。シンダーズは片方にだけ盾を突き出して居たのではなかった。左右に盾を構え、皆を挟むように飛び出した先陣の二匹から身を守ったのだ。
「殺意はこっちの方向からしか感じなかった……いや、すでに視界に見えるだけでも七匹いるのに、今はどこからも殺気を感じない」
そう自分にだけ聞こえる声で反芻して、直後その脳裏にとても新しい記憶が呼び覚まされた。
『されど、我が汝に対し殺気を消せるのだとしたら、果たしてどうしていた?』
『我にはできぬが、ある種の魔獣はそれを可能とする。そうして群れで獲物を囲み、気付かれぬ内に狩り尽くすのだ』
昨日も昨日、異世界に飛ばされてすぐラグラスロに言われたことだった。あの黒龍は既に最初から、こうなることを想定していたのだ。
「そうかよ……そうくるかッ!!」
「グラン、躱せ!」
「な」
目の前の事実と心の中の動揺に気を取られている内にも戦況は変わる。グランから見て右手からブリアナの棍棒の一振りを抜けた魔獣が迫っていた。
(間に合わな——)
「どやさああああッ!」
「うおぁ!」
ガン!と、またも衝撃音を鳴らす大きな盾が魔獣を横から吹き飛ばす。
が、前に伸ばされていた獣の前脚および鋭爪がグランの胸に突き立っており、大きく横に引っ掻く形となってそう浅くはない傷を刻んでいく。
「済まねえシンダーズ、色んなことに気を取られた」
「自身の身は自分で守るんじゃないのか?」
「反論の余地もねえ」
ゲミューゼの指摘も尤も、先ほど自分で宣言しておきながら頭が上がらない。
言葉を交わしている間にも次から次へと攻撃が飛んでいる。戦況は防戦一方を強いられているようだ。
しかしだからこそ、
「グラン、いまはまだ七匹しか見えてないが、必ずもう一匹どこかで身を潜めてる。警戒を怠るんじゃないよ」
「わかった」
「おおう。自分で言っといてあれだけど、確実性に乏しいだろう情報を案外すんなり受け入れるね」
「反省も答え合わせも、全部ひっくるめて後回しだ。もうこいつらから傷は一つも受けねえよ」
胸の傷がじんじん痛む。血は流れ出ている。
骨には至らなかったのは僥倖と言えようが、決して安心できる材料にはならない。だからこの傷を自戒として初戦闘に挑む。
(さあ来い、魔獣ども)
円を描くように周囲を走り回りながら機会を伺う獣。彼らとて強そうな獲物は狙わない。一番効率よく狩りをするならどんな相手を狙うべきか、それは常に一つだ。
「おい——」
「もうその手は喰わねえよ!」
弱者——否、隙だらけの標的こそ狙わない手はない。
だから脱力しきったような素振りを見せたグランを獣が狙うことは分かりきっていた。
だからゲミューゼの呼びかけを塗り潰す勢いでグランは叫んだ。
「かッッてぇ! こいつの胴……いや筋肉か!」
飛びついてくる魔物に叩き込んだ拳が、石でも殴ったかと思うレベルで痛みを主張する。それでも、大きく開いた脚と上半身を使って大きく振り抜く。
「ギャウゥ!」
段差に叩きつけられダメージを受けた声をあげるも、次の瞬間には着地と同時に再び臨戦態勢に戻るところを見るに、被害はほぼほぼ無いものと捉えて良さそうだ。
「はッ、平然としやがるぜ。なら……『オリヘプタ』」
「魔法……まさかそれを周囲にばら撒く気か」
傍に顕現した七つの青い光球。
それが七匹それぞれのもとに飛んでいこうものなら爆風と煙で仲間の行動をも遮る可能性が出てくるだろう。
「残念だけど、潰すのは一体一体だ」
ゲミューゼの懸念を否定して、右手にすべての光を収束させる。
たったいま殴り飛ばした個体を見据えて、相手も殴られた仕返しをせんと殺気を全開にする。恐ろしい形相で歯を剥き出しにする姿には身がすくんでもおかしくない。
だからこそ、
「裏から来てるんだろ、他の個体が!」
「ガゥ!」
目の前で威嚇をする姿は罠と看破し、光を溜めた右手を背後に回した。
見事、青い火花を噴いて凶暴な歯牙を爆散させる。集約させた力は凄まじく、暗い森を幻想的に照らし、人獣問わずすべての注目を引いた。
「ははっ、やるじゃねえか。流石期待の新人さま!」
「おいらにゃ出来ねえ、すごい格好いいね。一度はあんな活躍してみたかったものだね」
「……だからこそ、惜しい」
「惜しい、だって?」
様々な評価が飛ぶ中、至近距離で爆破させた魔法の煙幕から唸りが聞こえた。煙の中でゆらめく影が現れ、魔獣が外へと出た。
殺意が、再度肌を突き刺した。
「はっ、これすらも耐えるのか。こいつぁ」
硬すぎる、その一言に尽きる。
流石に全身にヒビが走ったように傷が浮かんでいて、ダメージがゼロじゃないだけ一安心ではあったが。
すぐに群れは陣を組み直し、痛々しい怪我などお構いなしといった様子で動き出す。なんとしても生き延びようとする執念さが野生の厄介なところだ。
「これでひと通りこいつらの特性は理解してくれたかな、グラン?」
「ああ、実践的でわっかりやすいチュートリアルだった!」
「なら第二フェーズだ。殴打はダメ、純粋な魔法攻撃もいまいち。なら何が有効打なのか、それを教えてやんよ!」
「簡単なことだがな」
戦闘が始まってから防戦一方という様子だったブリアナ、ゲミューゼ両名が互いの顔を見て頷くと、場は一気にひっくり返った。
「あたしらの武器を見れば予想もつくだろうけどね。鋼鉄のような筋肉に面で対抗しちゃあダメだ」
「うわわ! すまない、そっちに一匹行ったね!」
「そう、突破口は——」
シンダーズの盾を蹴って高く飛び上がった一匹。爪を立て、大きく開いた口内から覗く鋭牙と唾液がブリアナを狙う。
ただし、振り上げられたトゲ棍棒に顎から胴にかけてを穿たれてもなお動けなければ、飛びかかった意味を為さないのだが。
「点で穿つ、つまりぶっ刺すってことさ!」
金属でできた棍棒の棘に穴を開けられ、ついでに高く打ち上げられた猛獣は、卓越したバランス感覚で綺麗に着地することも叶わず地に打ち付けられた。
時を同じくして、ゲミューゼがさらに別個体を槍で一閃、心の臓を貫いて一撃で仕留めてみせる。
「これで見えてるのが五匹、隠れてるのが一匹と」
「どうだねグラン、戦えそうかね?」
「ああ、引きこもりがどう出てくるか次第だがな」
囲まれていると言っても、内一体は先ほどグランの魔法を受けて手負いの状態だ。グランにはまだ手札が複数ある。負ける道理は、ない。
「ほうら! あたしの愛の棍棒を喰らいな!」
大振りに上から下へ降ろされた重撃は華麗にすり抜けられ、ぐにに……とブリアナが悔しがる中、その抜けた先を槍が突く。
「おわわわわ! 離れなさいね!」
一方で盾に張り付いた魔獣を、盾を振り回して引き剥がそうと暴れ回るシンダーズの姿もある。身体を回転させて遠心力を与えることでそれを成功させる。
「しゃあ、獲物が横から飛んできたぁ!」
数秒前に敵を逃したばかりのブリアナが目を輝かせると、引き剥がされて宙に浮いた魔獣を確実に捉え——
「グルルァッ!」
そうはさせまい、と統率された群れの連携が発動する。ブリアナの死角から全開で爪を伸ばした別個体が抜け出ていた。
既に攻撃動作に入ったブリアナは対抗策を持たない。
「ぬおおおおおおん!」
直後、血が吹いた。
だが、それはブリアナから流れ出たのではない。
「やるじゃんあたしらの護り手さん!」
「おいらは見た目に反して動けるからね!」
棍棒のトゲトゲは狙い通り魔獣に突き刺さり、吹いた血液はその獣から出たものだった。
死角から迫っていた方はと言えば、全速力で駆け込んできたサンダーズが飛び込むように盾でのしかかったのだ。全体重で抑えられ、魔獣は抜け出せずにいる。
すごい連携だ、とグランも関心せざるを得ない。これからは自分もこうしていくことが望まれているのだ。
「でもすぐ他の子が噛み付いてくるよね!」
仲間を助けるのは敵も味方も変わらない。いや、丸々としたシンダーズを餌とみた可能性もあるが、ともかく目を付けられた彼は押さえつけるのを放棄して逃亡する。
現状残るは未だに姿を見せないのを含めて四匹。はてさてどうやって攻略するかと思考を巡らせて、
「が、どうせなら残りは全員まとめてやっつけたいよな」
「は?」
「え?」
「ん?」
唐突にそう口にしたグランにみんなが唖然とする。ゲミューゼに至っては「なにをふざけたことを」と諌めるような目つきをしていた。
が、グランとて格好つける為にそんな発言をしたのではない。そもそも森にやってきたのは小テスト、つまりグランがどれだけやれるかの確認を兼ねてのこと。
なら、ここで手札を隠すのは善い手ではないはず。
「こいつらは利口だ。俺らが強いと分かって、さっきまでみたいに一気に襲ってきたりせず牽制ばかり」
反旗を翻した四人の人間をようやく警戒したということなのだろう。攻撃はしてくるが、それでも反撃を避けることに重点を置き始めたように見えた。
「ならどうするんだ? あたしらが今まで考えなかったやり方で戦おうってなら、その自信の根拠を知りたい」
「根拠と言われてもな……奴らの賢さと俺の魔法かな」
「敵を信じるときたか。面白い」
「いざとなればおいらが護る、それだけだね」
「さんきゅ」
二人からの返答を肯定と捉えて、ブリアナに一瞥やる。
彼女は棍棒をフルスイングしてまだ無傷の一匹をグランの方に飛ばして、
「新しい風、吹かせてみな新人!」
乱暴ながらグランに活躍の機会を送ってくれた。
と、直後打ち放たれた獣がグランに直撃し、諸共地面になだれ込む。ちなみにブリアナは古拙の笑みでこれを見ていたので、狙ってやったのか事故なのか判別し難い。
(けど、ある意味これがいい)
あからさまに隙を見せて反撃をする作戦は既に実行しているから、次やっても警戒されて失敗に終わるだろう。
だからこれがいい。
「ほら、殺気が隠せてないぞ」
自分にしか聞こえない声量で呟く。
段差を登った森の奥から、一本の「獲物を狙うぞ」という合図が飛んだ。胸の上に横たわった重すぎる獣を気合いで跳ね除け、うつ伏せになろうとした瞬間、
「『オリベルグ』」
地に横になるということは、反撃のしようがない完全なる隙だ。這いつくばった人間が体勢を立て直すのにコンマ単位だろうと時間がいる。
なのに、グランには焦燥だとかを全く抱えていないようだった。なぜなら、
「ガルルルルァッ!!」
地面が揺れた。木陰から新手が飛び出た。
本当の隙を見逃さない、賢い賢い野生動物だ。
ただし、それが普通の人間だったなら。
「これが異世界の厳しさか……全く恐れ入るぜ」
ガッ!と、ブリアナたち三名の間をすり抜けて、地に伏すグランの頸に猛威が集中する刹那の前、大地が隆起した。
針金のように先端の尖った大地の槍とも言えるだろうそれが、魔獣たちに回避の隙を与えることもなく全てを貫いたのだ。
「この魔法の発動には地面に手を付ける必要があった。だからベストタイミングだ、ブリアナ」
「はは、こりゃ壮観だな」
言いながら、道にまばらに生えた十本程度の岩針に手を置いて、頭上を見上げる。
無慈悲に獣たちを貫いた岩石を血が滴っている。血肉独特の鼻を突き刺すような臭いが主張を増していく。結構グロい。
「——で、その壮観っておいらのことも含めてるよね? そんなこと言ってないで早く助けてくれると助かるんだけどね」
と、そんな強敵だった魔獣たちに混ざって吊り下げられたシンダーズの姿がそこにあった。どうやら肩から腰にかけて斜めに掛けられていた道具入れのベルトが魔法発動時に引っかかってしまったらしい。
「すまねえシンダーズ、巻き込まないよう注意したつもりになってた!」
「う……おいら見てわかる通り重いからね、締め付けられてとても息苦し……ね」
「シンダーズ、いま『死ね』と言ったのか?」
「息苦しいね、だよね……! な、なんか身体のなか……ミチミチ鳴ってる、ね!」
「だそうだ。すまないがこの状況からこいつのことを助け出せそうか? この高さだと俺らの手も届かないな」
まるで笑える状況とは思えないが、こんな時でも掛け合いを忘れない仲間たち。是非が分かりかねるグランは苦笑する他なく、それを見かねたブリアナが口を開いた。
「本当にヤバそうならふざけたりしないよ。だがこいつは見た目通り丈夫でね、そう簡単にくたばりゃしないって信頼があるのさ」
「そういうものか……なあシンダーズ、この岩石は魔法だから自由に消せるんだけど、そこから自由落下しても耐えれるか?」
「知ってるかね、丈夫は落下しても大丈夫ってことを意味しないんだよね!
切実なシンダーズの叫びが響く。
それから助ける方法を数分話し合った結果、自由落下してきた彼を三人で受け止めることになった。
————まあ、シンダーズの重さを支えきれず結局地面に落下したことは語るまでもない。