第23話「海の瞳をもつ青年」
「……自由」シンがつぶやく。「確か、前もそんなようなことを言ってたねフェイル」
「自分で言うのもなんだが、口癖みたいなもんだ。でもよ、てめえの願望なんてもんははっきり口にしておく方がいいんだぜ? より実現する可能性も高まるってな」
「そんなこと言われたら、フェイルが全然自由じゃないみたいに聞こえるけど」
「なあ、シン……おまえの目に、周りの奴らはどう映ってるよ」
当然そんなことを聞かれ、思わず黙り込む。
「どう映るって言われても……」
シンはフェイルから視線を移し、目深に被った外套の隙間から、あらためて行き交う人々を眺めた。
先ほど目にした騒ぎやフェイルの言葉を聞いたせいか、どの顔も表情が暗く、その歩調もどこか沈んでいるように見えた。もちろん、全員がそうだったわけではない。オルタナの中心街を観光しているような者や、声を張り上げて商売に励んでいる者も当然いる。だが――
(ああ、このままじゃ次の支払いですべて持っていかれてしまう)
(あいつめ、やっぱり貯め込んでいたな。上手く脅せば一年間ぐらいは懐が潤うかもしれんな)
(そんな――このお給金では次の月まで持ちません、もう少しどうにかならないのでしょうか)
(ずいぶん物価が上がってるのねえ、以前来た時はずいぶん楽しめたものだけれど。この分じゃ早々にディケインあたりに行った方がいいかもしれないね)
(くそ、あいつらになんて言やあいい……この程度の金でどうやって冬を越せってんだ)
エーテルを集約させたシンの聴覚は、密かに囁かれる、決して届くはずのない声を拾い集めていた。
初めてやって来たときにはずいぶん輝いて見えたオルタナの街も、今は冬の厚い雲に覆われた景色同様、ずいぶんくすんで見えていたのだった。
「こんな言い方、失礼かもしれないけど。みんな何かに縛られたり、重たい荷物を背負わされているみたいな、そんなふうに見えるんだ」
思えば、ザナトスでも同じような感想を抱いていた。
もといた世界で毎日のように憧れていたはずの異世界も、現実のこととして実現してしまえば心踊るような気持ちになることは少なかった。悲しいことや辛いことを目にするたび、心の中に灰色の雲が覆い被さっていくような感じがしていた。
「そいつは夢のない話だ」フェイルは軽く鼻で笑った。「けどよ、俺も似たようなもんなのさ」
「フェイルが?」
「さっきの答えだけどな、俺は全然自由なんかじゃねえよ。単に根なし草ってだけで、いつも食いたいもんが食えるわけでも、抱きたい女が抱けるわけでもない。ましてや、どこへなりと行きたい場所へ行けるわけでもないしな」
「そんなふうには全然見えないけど」
「へえ、ずいぶん嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
そう言ってフェイルはフードの上からシンの頭をごしごしと撫でた。
シンは頭を下げながら、かといって特に悪い気もしないままフェイルのしたいようにさせた。
「ま、おまえにそう見えるのなら、今のところは案外自由にやれてるのかもしれねえな。けどよ、さっき言ったことは案外的を射てると思うぜ。ラスティアが正式に王女として認められて大広場に姿を現したときのこと覚えてるか?」
「うん、後ろから見てたよ。すごい歓声だったよね」
こっそり覗き見たあの大観衆、あの喝采は、到底忘れられるものではない。普通に暮らしていたとしたら間違いなく目にすることのなかった光景の一つだろう。
「あれもよ――こんな言い方するのもなんだが――単にラスティアの人気が高かったからってわけじゃねえ。ディファト派が牛耳っている今のアインズを何とかして欲しい、そんな思いがあっての歓声だったのさ。ある意味王都のやつらはディファトの対抗馬としてラスティアを焚きつけやがったんだ」
「そんな――それじゃまるでディファト王子が駄目な支配者だからラスティアが歓迎されたってことになるよ」
「もちろん、全員が全員なんてことは言わねえさ。ただ、そんな思いを抱いていたやつは決して少なくなかったはずだ」
シンはなんと返していいかわからず、うつむくようにして歩いた。
「さらに言わせてもらえば、ストレイなんてとんでもない存在がラスティアについたっていう事実でさえも、ここの奴らにとっては脅威より希望、みたいに感じられたんだろうよ」
「……今もわからないんだけど、どうして光柱と俺とが結びつくようなことになっちゃったんだろう。実際その場を見られたわけでもなかったのに。バンサーたちに勘づかれるのは、まあ仕方ないのかなって思うけど、どうして『ラスティア王女はストレイをパレスガードにした』なんて話が広まったのか、さっぱりわからない」
「そりゃあまあ、あれだ。こういうことってのはいつの間にか知れ渡るようになってんだよ。人の噂に扉は立てられないって言うだろ? まさに、それだよ」
流暢すぎるフェイルの言葉に「そんなもんかな」とうなずきながら歩いていると、堅牢なギルドの建物が目前に見えてきた。
(イーリスとかがマールズのことを知っていたら助かるんだけどな)
そんなことを思いながら、相変わらず多くのエーテライザーがで出入りする扉を押し開き、中へと入る。
先日ラスティアとギルド長たちの会談の場に乗り込んでいったこともあり、最初訪れたときのような緊張感はなくなっていた。だが、自分のような子どもが足を踏み入れる場違い感は相当なものがあった。
「――いやー参った、闘技大会に出場するためにはギルドに所属しなきゃならないなんて」
広々としたロビーに響いた涼やかなその声に、シンの視線は自然とカウンターへと向けられた。
「ラスティア王女はパレスガードになるための条件を設けないと聞いていたんだけどな」
そんな言葉が耳に入り、シンとフェイルは思わず顔を見合わせた。
「それは、そのとおりなのですが」
以前シンの相手をしてくれたギルド所属担当のワルツは、明らかに面倒そうな顔をしていた。
「参加される方の素性を明らかにするためにも、ギルドに所属していただくことは絶対条件となっております。アインズ・ギルドが闘技大会の全権を任された以上、ラスティア王女に危害が及ぶようなことは万が一にもあってはなりませんので」
「僕は間違いなく器保持者だよ。たった今、僕の行く先を照らすかのように燦然と輝く根源器を君も目にしたはずじゃないか」
「ですから、ギルドに所属さえしていただければ何の問題もないと何度言ったらご理解いただけるのですか」
「僕もさっきから言っているじゃないか、ギルドに所属するつもりはないって」
青年は優雅に髪をかき上げるようにしながら言った。
その顔が目に入った瞬間、思わずシンは息を呑んだ。
恐ろしく整った容貌に、南国の海のように澄んだ蒼い瞳。困ったような表情の上に、まるで困っていないような笑みを浮かべているその顔は、ラスティアとはまた違った意味で見る者を惹きつけてやまなかった。その証拠に、あまり他人には興味がないようなフェイルも、目の前のやりとりに耳をそば立てていた。
「素性の知れないエーテライザー、いわゆる野良には、口にするのもおぞましい所業に手を染める者も多くおります。そのような者をラスティア王女の主催する闘技大会に参加させるわけには参りません!」
シンでさえ、ワルツの顔に「うんざり」といった表情が刻まれているのがわかった。
「僕がそのスキリーとやらに見えるかい?」
「で、す、か、ら!」ワルツの顔が茹蛸のようになっていく。「見える見えないの問題ではなく、闘技大会に出るのであれば、ギルドへの所属は絶対条件なんです!」
騒ぎを目にしている他のエーテライザーたちは皆一様に「やっかいなやつが来た」と言わんばかりに首を振り、同情的な視線をワルツへと送っていた。
「ホント、困ったなあ……こう見えて強いんだよ、僕は」
「確かに見た目にはまったくそうは見えないけれど」
突然うしろからそんな声が飛び、シンとフェイルは背中をのけ反らせるようにして後ろを向いた。
その顔には、はっきりと見覚えがあった。以前ギルドの二階にある執務室でイーリスたちに同席していた少女——グレースが、いつの間にかシンたちのうしろに立っていた。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう? ストレイ・シン」
突然口にされ、ぎょっとする。
「いや、そのことについては、あの」
「なんだ、このちんちくりんな小娘は」
慌てるシンとは対象的に、フェイルはグレースを見下すようにしながら言った。
「僕のことを言っていたような気がしたけど。何か用かな?」
再び真後ろで響いた声に、シンとフェイルはグレースのときとまったく同じ反応をした。
常にエーテルを感知することを意識していたシンが、グレースと目の前の青年の接近にはまったく気づけなかった。
「全然強そうには見えないって言ったのよ。あ、勘違いしないでよね、あくまで外見的なことよ? そんなことで実力を判断するような浅はかさは持ち合わせていないから」
グレースは間に挟まれているシンとフェイルを通り超し、名も知らぬ青年に向けて笑いかけた。
青年も長めの前髪を片手でかき上げながら、誰もが見惚れてしまうような屈託のない笑みを返した。
「君は面白い子だね。僕はミュラー、旅の途中、闘技大会のことを耳にしてね、しばらくオルタナに滞在することにしたんだ。これも何かの縁だから、仲良くしてくれると嬉しいな。お友達の二人も、どうぞよろしく」
グレースのお友達などではないフェイルは「何言ってんだこいつら」といった表情を隠そうとしないまま二人を睨みつけ、三人に挟まれるようになっているシンは、突然の状況についていけないまま立ち尽くしていた。
のちに「約束の子」ラスティアが創り上げることとなるエルダストリーの護り手、アンセム。その偉大なる支柱にして、他の追随を許さぬ業と功績から「至宝」とまで称された十二英雄が一人ミュラーとの、それが初めての出会いだった。




