第16話「恐怖の帰還」
バンサーは――リーンもベレッティも、息を押し殺し、いま目の前で交わされている会話に全神経を集中させた。
「ロウェインの娘……『持たざる者』、か」
立ち去りかけたマールズが、いま一度ローグへと向き直る。
「先の襲撃を切り抜けただけでなく、折よく巻き込まれたバルデス軍の侵攻さえ生き延びたというわけか。確かに興味深い娘ではある」
「……もとは王位継承権を与えないという条件で王室に迎え入れるはずの娘でした。しかしあろうことにラウル王は、そのような勅命を一切下されておられなかった。皆、レリウスと――それにラウル王に謀られていたのです。ディファト王子派が領侯会議の場で追求しようたとき、すでに王は人と会えるような容態ではなく、レリウスは王宮を出立した後でした。やつは、自らエル・シラへ出向くことすらごく一部の者にしか明かさなかった」
その共鳴からは、高ぶる感情を無理やり抑えつけようとしているローグの様子がありありとうかがえた。
この一件についてはバンサーたちも大いに思うところがあり、ローグの気持ちが手に取るように理解できた。
「なるほど。王女を迎えに上がっていたとの名目で堂々と議会を欠席し、決をとらせなくしたわけだ。自分がいないうちに決められるものなら決めてみろと。なにより事はラスティア王女だけではなく、アーゼムの支柱にして護国卿、ランダル・ロウェインにも及ぶ。王宮側の事情だけで約定を違えることなどできようはずがない。いやはや、アルゴード候というのは噂通りの人物のようだ」
笑みを含んだマールズの声に、ローグの顔つきがより険しくなる。
「これは言わば、なし崩し的に新たな王位継承者を王室に迎え入れてしまおうというレリウスの策略に他なりません! 尊師たちからの情報がなければ今回のような手を打つこともできなかったでしょう」
「そのことが、あやつに行き着くような事態にならなければいいがな」
「は?」
「いずれによ、ロウェインの娘は今も生きてオルタナに向かっているのだろう? 結果としては何も変わっていないということだな。それどころか此度の件……もしやすると強力な何者かが王女らに味方したのやもしれん」
最後の言葉はローグに対してというより自分自身への問いのようであった。
「きょ、強力な何者かとは」
「レイブンでの襲撃、それにバルデスによる侵攻を退けるなど、いくらロウェイン家の直系とはいえ器もないただの娘には到底不可能なこと。むろん、アルゴード候がついていたとしてもだ。だとすれば、それらを可能とする何者かがロウェインの娘を助けたと考えるのが自然だろう」
「し、しかしレリウスめが寄越した報にはまったく――そもそもそれほどの協力者がこうも都合よく現れるものでしょうか」
「現に生き延びているからには否定はできんさ。もし今回もたらされた報がすべて事実であるならば、相当エルダに魅入られた娘なのだろうよ」
「そのようなことを口にしている場合では――そもそも今回の暗殺はあなたの弟子に一任されていたはず」
ローグが声を震わせながら言う。
「失敗したことは確かなようだがな」
「そのことに少しでも責任を感じていただけるのなら、どうかこの先も我々に協力していただきたい」
「……責任か、言うではないか」
マールズの声質が変わり、ローグがはっとしたように顔を上げる。
「口が過ぎました――どうか、お許しを」
「いや、お前の言い分にも一理ある。本人の事情を組んで任せてやったとはいえ、弟子一人で十分と見込んでいた俺の不始末ともいえるからな」
エーテルを発現させているバンサーの耳に、ローグの唾を呑み込む音がはっきりと響いた。
マールズの言葉、その威圧には、かなりの距離があるはずのバンサーたちでさえ同じ反応を示したほどだった。
「事の成り行きを見るに、レイブンでの暗殺に失敗した後は兄弟子あたりを頼ったのだろうが、そういうことになるとますますお前の言う『責任』とやらを感じずにはいられんな――よかろう」
ふいにマールズが一歩、ローグへと近づいた。それだけでローグの身はのけ反り、表情をひきつらせた。
「もし俺の感が当たっていたなら、他の王子王女やそのパレスガードよりよほどやっかいな相手がお前たちの前に立ち塞がるやもしれん。であるならば、いざということきのために俺との繋がりを残しておいてやるのがいいだろう」
そう言い終えたマールズは自らの指先でいともたやすく自身の腕に傷をつけ、どす黒い血を滴らせた。
まるで予期していなかった行動にバンサーたち三人はおろか、ローグでさえ固まっていた。
「飲め」マールズが言う。
「……の、飲めとは」ローグが喘ぐ
「むろん、俺の血をだ。そうすることにより、一時ではあるが俺と深く〈共鳴〉することができる」
マールズの口から、低く小さな低い笑い声が漏れた。
「そう……より深く、な」
「な、なぜ私が、そのような」
「知れたこと、お前とリザ王女が窮地に陥るようなことがあればすぐにでも助けられようし、お前たちにとって――いや、崇拝者どもにとって障害となるような事態が生じれば俺の裁量で動いてやることもできよう。お前とリザ王女がひたすら気を揉んでいるのは、尊師どもから与えられた使命を果たせるか否かということだろう。まあ、俺は俺で確かめたいことがあるし、ディスタの件で新たに請われていることもある。この場所に留まっていることにもさすがに飽いた。最後まで面倒を見てやるようなことはせんが、今回の件で何らかの問題が生じた場合については任せるがいい」
「そ、それはつまり」
「お前たちの責の一部を、俺が負ってやろうと言っているのだ。お前の口にした『責任』とやらに成り代わる行為としてな。ファトムどもにもそう口添えしておいてやる」
「……お、おお!」
マールズの足元に這い寄ったローグは、その腕から滴る血液を顔に浴びながら、恍惚とした表情でマールズを見上げた。そして――
「偉大なるインカ―フォースよ……その御力を私めにお与えください」
頬を伝ってくる血液を口に含み、飲み込んだ。
バンサーたちの全身に得も知れぬ悪寒が走る。
(いったい、俺たちは《《何を》》目にしている)
そしてローグが喉を鳴らした、次の瞬間。
ローグの全身が激しく痙攣し、獣のような叫び声をあげながら地面にのたうち回った。
バンサーたちは目の前で起きている出来事についていけず、茫然と事の成り行きを見つめることしかできない。
「まあ、相応の苦しみは伴うがな。お前であれば死にはせんだろう」
マールズが片方の手で自身の傷を撫でると、瞬時に新たな皮膚が覆い、出血が止まった。
「お前たちがやってきたせいで食い損ねてしまったぞ」
言いながら、傍らに置かれていた大きな二つの麻袋のうち一つに手を伸ばし、片手を突っ込む。
そうして、まるで巣から兎を引きずり出すかのような勢いで何かを取り出した。
驚くべきことにそれは、人間だった。マールズは、それなりの体格をした男の足首をつかみ、いとも簡単に床へと転がしたのだった。
(俺達が感知していたのはあの袋の中身だったのか)
バンサーたちは食い入るように見入った。まさか転がされている麻袋の中に人間がはいっているとは思ってもみなかったのだ。
意識を失っているのか、一向に動こうとしない。しかしマールズが何かを払うように軽く手を振ると、転がされていた男の目が徐々に開いていくのが見えた。
少しずつ焦点があってきたその視線がマールズの姿を捉えた、その瞬間。
男は張り裂けんばかりの声で絶叫した。
「やめろ、やめてくれ――」
叫びの中に、そんな言葉が交じる。
「悪いがもとより腹が減っていたうえ、少し血を流したのでな」
そう言うとマールズは両手で男の片足をつかみ、事もなく引きちぎってしまった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
目の前で悶絶する男にも何ら表情を変えることなく、マールズは肉片と化した男の片足にかぶりついた。
まるで獣を食するかのごとく、いとも自然に。
傍らでのたうち回るローグと、片足をもがれ白目を向き、唾液を垂らしながら痙攣する男。
そんな光景を前にしながら、マールズは口元に大量の血を滴らせ、男の肉と骨片を噛み砕き、淡々と喉の奥へと流し込んでいく。
(……いったい、《《これ》》はなんだ)
バンサーは――ベレッティ、リーンの二人も、まともな思考ができなくなっていた。目の前でくりひろげられていることへの理解が追い付かず、夢の中の光景かのような現実味のなさに立ち尽くしていた。
男が大量の出血と激痛のうちに意識を失いそうになったとき、マールズは引きちぎった足の付け根に片手を添えるようにした。
先程のマールズの傷同様、男の傷もみるみるうちに塞がっていき、止めどなく流れ出ていたはずの血液も止まる。
「あっ、あっ、あっ……」
虚ろな目で虚空を見つめ、全身を引きつらせながら声を漏らす。
「すまんな。生きたまま食さぬとおまえの生命を取り込むことができんのだ」
そう言って今度は男の片腕に両手を伸ばす。腕を掴まれた男はこれから何が起こるのかを瞬時に察し、狂ったように喚き散らした。が、同じように腕をもぎ取られると、口から大量の泡を吹きながら痙攣した。
マールズが黙々と喉を鳴らしていくうちに、無惨な体になり果てた男はやがて叫ぶことすら出きなくなり「いいぃ……いたぃ……いたぃい――」という微かな呻きばかりを繰り返すようになった。
「ところで」
マールズはふと思い出したような声を上げた。
「《《おまえたち》》、いつまでそうしているつもりだ?」
バンサー、ベレッティ、リーンの三人は、心臓を鷲掴みされたような感覚のまま脱兎のごとく駆けだした。
無論、今までの駆けて来た方角へ、だ。腰を抜かし、その場にへたり込んでしまわなかったことは人生最大の僥倖だったとさえ思った。
だが――
⦅ローグたちには黙ってやる故、今回のことにはあまり関わらんことだ⦆
小さく轟くような共鳴が頭へと響き、バンサーたちはほとんど叫び出しそうになりながら脇目も振らず走った。
(――お前たちがやってきたせいで食い損ねてしまったぞ)
マールズは――この怪物は、バンサーたち三人の存在に最初から気づいていたのだ。
そののちバンサー、ベレッティ、リーンの三人は、自分たちがいったいどうやって王宮まで辿り着いたのかをまるで覚えていなかった。
後にはただ、背中にこびり付いて離れない恐怖だけが残っていた。




